第20話 貧乏人には金を、金持ちには誠意を 1
慰霊塔を後にして、わしらはタクシーに戻って、それから駅前の喫茶店に寄った。
運転手さんは、仕事があるからと言って、帰って行かれた。
そのレストランの喫茶で、わしらは、コーヒーを飲んで少し話すことになった。
で、かの森川先生やが、こんなことを、おっしゃった。
「ところで宇野さん、この井元君の仕事ぶりは、どうですかな?」
「1年見て参りましたが、いい素質、持っていますね。選手としてよりも、このスカウトの仕事のほうが、彼にはひょっと、素養があるかもしれません」
「そうですかな。それは大いに結構。それで、彼の担当した選手で、入団した選手はおいでかな?」
先生の質問を機に、宇野さんがわしの仕事ぶりを話してくださった。
ええ、1人おりますよ。
まあその、何です、戦争でお父さんを失くされておりまして、母親が女手一つで育てた子でして、ええ、一言で言って、貧乏人の家の子ってことになりますわな。こう申しますと、大変語弊はありますが。そういうところで育った子だけあって、ハングリー精神と申しますか、それはもう、一級品です。
私は、この長崎さんがユニオンズのマネージャーをされていた時にもアドバイスさせていただきました。
スカウトのコツというのは、こんなものである、とね。
貧乏人には、金、それも現金を。金持ちには、誠意を。
それを井元君はよく意識しておりましてですな、彼の御家庭に参りまして、まあそういう御宅ですから、これこれこれだけの契約金を出しますと、一万円札ではなく、千円札の束を積んで見せたのですよ。
その選手は、もう、井元君がバックから金を出すたびに、目が、その札束のほうに向かっておって、彼の手の動きに、沿っているのね。
私の経験からしても、そういう時は、選手以上に、親御さんや親族の方なんかがそんなふうになることが多かったね。だけど、その選手、見たこともない金の束に、もうびっくりですわな。何、井元君も入団時はそんな感じだったようですがね。
じゃが、そのお母さんは偉くてね、彼の方をつついて、冷静にさせましたのや。
「あんた、一時の金に釣られて、野球に入ったはいいが、モノに成らんでほおり出されたら、どうするの?」
そう言われれば、確かに、そうやわな。
同席していたわしは、そこで申しあげた。
「もしよろしければ、うちの親会社からの出向という手法も取れまっせ。阪神に村山実っちゅうのがおりますやろ、あの巨人の長嶋とええ勝負しとりますやん。彼はね、2000万出すとかいう巨人を蹴って、500万しか出せんという阪神に入りましたけど、その背後には、阪神電鉄からの出向という形をとっていると、そのような話をお聞きしとります。それは、ええことや、っちゅうことで、わしも、あらかじめ会社には了承取っておりまして。それですから、野球できるうちは、野球やってもろて、あかなんだら、うちの電鉄で、あるいはその関連会社でもええ、別にちゃんと仕事もあるから、そこで、一社会人として生きていくことは十分可能でっせ」
それを言うたら、お母さんは、納得してくれはりました。
「私はね、大金とはいえ目先の金に釣られて動くような人間に、息子を育てた覚えはありません。この子の人生は、この金もらって終りでも、野球をやって終りでもないですから、ね。できれば早く結婚してくれて孫の顔が観たいというのはありますが、それはそれとしまして、社会人として一人前に生きていくことが、何より肝要ですから・・・」
そこまで言われたからには、私も、ええ加減なことは言えませんわな。
井元君に、いくらか札束をさらに出させて、それで契約金を上積みして、初任給も少し上げてやって、契約にこぎつかせましたわ。
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