第4話 


 カフェ・一善の店内で、お姉さんは赤ちゃんを抱っこして座っている。お姉さんの名前は宮川麻衣さん、赤ちゃんは翔太くんと言う名前だそうだ。

 貴兄が麻衣さんの前にティーカップをそっと置いた。辺りにリンゴに似た甘くて優しい香りがふわっと漂よう。


「どうぞ、カモミールティーです。心が落ち着きますよ」


 貴兄は私の隣、麻衣さんの正面の席に座り、話を聞く体勢に入った。麻衣さんは、ポツポツと話し始めた。


「私の家はこの町で三代続く和菓子屋です。そしてこの子の父親の家は、やはり町内で20年ほど前からケーキ屋さんをやっているんです。私と彼は幼なじみだったんですが、昔から親同士が滅茶苦茶仲が悪いんです。会う度に『日本人は和菓子だ。ケーキなんか邪道だ』とか『いや、時代は洋菓子だ』とか反目し合っていて……」


 今時そんな人いるの?どっちも美味しいんだからいいんじゃないの?!

と私は思ったけど、

「親が仇同士のロミオとジュリエットだったんですね」

貴兄は神妙な顔をして聞いてあげている。


「でも最近、彼に親が決めた婚約者がいるって分かって。私は身を引くことを決めたんです。そしたらその後でお腹に赤ちゃんがいるって分かって……。一人でもどうしても産みたくて……」

「彼にこの子の存在を知らせてないんですか?」

「はい。彼は知りません」

 麻衣さんはキッパリと言った。

 私と貴兄は思わず目を合わせてしまった。

 だって、そんなことって……。


「家を出て一人で出産して子育てしようって決めたんです。でも退院してから体調がままならなくて……。夜中も起きて翔太のお世話をしなきゃいけないのが思いの外キツくて。なんで泣いてるのかわからないのに泣き止まなかったり、一人だといっときも休まらなくて。疲れてしまって……」

「赤ちゃんは昼夜構わずお世話が必要だし、産後のお母さんは満身創痍ですよね。僕の母もそうでした。一人でがんばってこられたんですね」

「そうなんです……!わかってもらえて嬉しいです……」


 貴兄の言葉に麻衣さんはぽろりと涙をこぼした。


「そんな時アパートの大家さんから、カフェ一善のマスターさんが昔、小さな妹さんのお世話を一生懸命してたって話を聞いたんです。目に入れても痛くないくらい、それはそれは可愛がっていたって」


 大家さん?

 私は首を傾げる。


「それを聞いて、もしかして私よりもその人の方が育児が上手なんじゃないかなって。翔太も私なんかに育てられるより幸せなんじゃないかって。そう考えたら涙が止まらなくて……。何度か偵察に来たんです。マスターさんはお付き合いされてる方もいらっしゃらないみたいだし、妹さんはすごくいい子に育っているみたいだし……。ご迷惑を承知で、今朝このカフェの前に赤ちゃんを置いて行こうって思って家を出ました。でもたどり着く前に倒れてしまって……」


 そこへたまたま私が通りがかった、と言うわけか。そして結果的に予定通り、赤ちゃんは貴兄の手に委ねられたと言う偶然。

 貴兄は静かに言った。


「K病院の産婦人科で聞きました。あなたは今、産後の回復が悪い状態だそうです。二、三日入院して静養して欲しかったのに、とそこの助産師さんが仰っていましたよ。過労と栄養失調による貧血状態だそうです。産後の出血もまだおさまっていないそうですね」


 あ、朝見たスカートの血はそれだったんだ!


「とんでもないことをしてしまったと後悔して、慌ててこちらの様子を伺っていたんです。どうかしてたんです、私……」


 涙をこぼす麻衣さん。

 貴兄は、ゆっくりと諭すように話した。


「あなたは悪くないんですよ。気持ちが落ち込んだり涙が脆くなったり判断力が低下したりする、それは『産後うつ』という状態で、休養が必要です。産後はホルモンが不安定になるし、身体もきつかったでしょう?眠れてなかったんじゃないですか?」


 貴兄が立ち上がって麻衣さんの肩にそっと労わるように手を当てると、お姉さんはわっと泣き崩れた。


 その時、ドアベルが鳴った。

 振り返ると、麻衣さんと同じ二十代前半くらいの歳の男性が、こちらを睨んで立っていた。

 麻衣さんの顔色が変わった。


「和人……!」

「麻衣、お前こんなイケメンに心変わりして俺を振ったのか…!それにもう、子供まで……」


「和人」と呼ばれた彼は、拳を握って震えている。


「半年前、突然別れるって一方的に連絡を絶ったと思ってたら……。俺はどうしてもお前が忘れられなくて、もう一度やり直そうって言いに来た。でもお前が幸せなら、もういい。あんた!こいつを幸せにしてやってくれよ」

 

 貴兄に向かって言う。


「あなた、馬鹿ですか?彼女とよく話し合って下さい」


 貴兄はバッサリと斬り捨てた。


「は?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る