第15話 苦しみの果てに「怨念」が見える

 多幸は押入れの四隅北側の一角を睨み、お経を唱え始めた。

 

 声を張り上げることもなく、平静無心にお経を唱えた。


 その四隅は陽の光も届かず、ぼんやりと暗闇が見えるだけであった。


 多幸はお経を唱えながら、こう感じていた。


「今までの地縛霊の波動とは明らかに異なる。


 この波動は…、浮遊霊か、生霊か…」


 お経を唱え始めて数十分間が経ったが、多幸には何も見えず、何も聞こえて来なかった。


 北部屋には二人が唱えるお経のみが響き渡って行った。


 暫くすると、


「ピンポン、ピンポン」と玄関の呼鈴が突然、鳴り始めた。


「決して動かないでください。」と多幸はすぐさま背後の妻に釘を刺した。


 妻は頷いた。


「ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン」と


 呼鈴が連呼始める。


 更に、「トントントン、トントントン」と玄関ドアをノックする音も鳴り響き始める。


 押入れ四隅には何等変化が見えない中、妻は、油断し、ちらっと玄関の方に目を向けた。


 その時、


 多幸の頬を一矢の冷気が掠めて行った。


「小野さん、前を向きなさい!」と多幸は慌てて妻に言った。


 妻は玄関の方が気になり、


「もしかしたら、娘が帰ってきたのかも…」と呟きながら、多幸に言われた通り前を向き直した。

 

「ひっ!」


 前を向き直した妻は息を呑んだ。


「どうしたんですか?小野さん?」


 と多幸が問うた。


 多幸の背後に居る妻が明らかに身震いしているのを多幸は感じ取った。


「あの人が…、あの女が…」と妻が辛うじて言葉を口にした。


「小野さん、見えるんですか?


 四隅に何か見えるですか?」


 と多幸は四隅の暗闇を凝視しながら妻に問い掛けた。


「は、はい…、み、見えます…、私を睨んでいます…」


「黒髪の白い女なんですね!」


「そ、そうです…」


 そう返事をした妻は、「ひっ!」と再度、悲鳴を上げた。


「小野さん、どうしたんですか?」


 多幸には女の姿は全く見えなかった。


「く、黒目がある…、大きな黒目で睨んでる…」と妻は言う。


「いつもは白目だけなんですよね!」


「そうです。今は大きな黒目で…」


 多幸は咄嗟に妻にこう指示した。


「小野さん、目を瞑って!


 お経を心で唱えて!」と


 妻は急いで目を瞑った。


「ひっ!」


 また、妻が悲鳴を上げた。


「どうしたんですか?」


「顔に何かが触って来る…」


 多幸は急いで妻の手を握り、


「私の掌を強く握ってください!」と叫んだ。


 妻はしっかりと多幸の掌を握り締めた。


 その瞬間、多幸にも聞こえ始めた。


 四隅暗闇の中から響く、獣のような唸り声が…


 そして、多幸の側を無数もの冷気が通り過ぎて行く感覚がひしひしと伝わり出した。


「触るでない!」と多幸は一喝した。


 そして、


「お前は何者なのか!言いなさい!


 お前は何者か!言いなさい!」と糾弾しながら、般若心経を唱えた。


 すると、四隅暗闇から、


「こ、こ、ここは、わ、わ、わたしの、ところ、わ、わ、わたしのもの…」と唸り声が言葉になった。


「いいえ!此処は貴女の居る場所ではありません。


 立ち去りなさい!」と


 多幸は更に一喝し、強く強くお経を唱え、白紙を燃やし、その煙を押入れの中に注ぎ込んだ。


「うぅ、うぅ、うぅ~~~!」と


 四隅暗闇から悶絶するような唸り声が響く!


 すると、押入れに注ぎ込んだ煙が、空流を逆流し、押入れが吐き出すかのように戻り始め出した。


「つ、つ、強い…」と多幸は一言呟き、懸命にお経を唱え続けた。


 その時、


「もう、もう駄目!」と背後の妻が叫んだ。


「どうしたんですか!」


「掴まれた…、首を…掴まれ…ています…」と妻が小声で叫ぶ。

 

 多幸は四隅暗闇を睨み叫んだ!


「私を掴みなさい!


 助けてあげる!


 私を掴みなさい!」と


 すると、多幸の首筋が赤く染まり始めた。


「ゴホッ、ゴホッ!」と背後の妻が息を吸い込み、咳をしながら座り込んだ。


 多幸はじわじわと締め付けられる首元の感覚と同時に意識が朦朧とし始めた。


 多幸は遂に目を瞑った。


 その瞬間、


 多幸に何かが見え始めた。


「貴女の苦しみが見えます。


 貴女の生き姿が見えます。」と


 多幸は四隅暗闇にそっと囁いた。

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