天泣、きみへと続く道

かみや@( * ´ ω ` * )

天泣、きみへと続く道


 きみは、よく笑う人だったね。


 長いあいだ仕事に追われ、しかめっ面ばかりしていたぼくをいつも励ましてくれたね。


 定年退職したら旅行に行こう。

 国外はちょっと怖いから、北海道なんてどうかしら。

 いっしょに釣りなんてはじめてみないか。


 ささやかな夢をふたりで肩を寄せて語りあった。

 どちらの夢の先でも、やっぱりふたりはいっしょだったよね。



 それなのに、ぼくが定年を迎えてすぐ、ひとりで逝っちゃうなんて、ひどいよ。


 

 骨と灰になってしまったきみは、もうぼくに笑いかけることもせず、目の前に佇む冷たい石のなかにいる。

 墓石をどれだけ綺麗に磨いても、そこには肩を落とした冴えない高年男の顔が映るだけ。


 いけない、と思っても、もうこらえきれなかった。

 合わせていた両手をほどき、片手で目頭を押さえる。

 それだけでは間にあわず、両手で顔を覆い、鼻をすすった。


 ぼくは、きみの前では泣き虫な、情けない夫だったね。

 テレビドラマや映画を観て泣くのも、いつもぼくのほうが先だった。

 そのたびにきみは、ぼくの背中をさすったり、頭を撫でたりして、ぼくを笑顔にしてくれたんだ。


 でも、知っているかい?


 ぼくはきみと出会ってから、きみの前以外で泣いたことはないんだよ。

 ……本当だよ。


 あなたはモテますからね、なんてきみはふてくされたこともあったけど、ぼくの目にはきみしか映っていなかったよ。

 生涯、きみ以外の女性を知らなかったし、ほかの女性に目移りさせない魅力をきみは持っていた。


 いまでもまだ、きみを探してしまうよ。

 こたつでうたた寝をしていないかとか。

 近所のくたびれたスーパーマーケットとか。

 きみの好きな花が咲いている公園とか。


 家のなか、そのままにしてあるよ。

 きみの持ち物の整理なんてできっこないよ。

 ふたりで食べよう、って買ったすこし高いお菓子、そろそろ賞味期限が過ぎてしまうよ。ひとりで食べても、きっと味なんてしないよ。


 そんな冷たい石のなかにいないで、出てきておくれよ。

 ひと目、会いたいよ。



 結婚してからは一度も言ってあげられなかったけれど。



 きみを。



 ただひとり、きみを、愛しているよ。



 そのとき、冷たいものが後ろ首を濡らした。

 顔を上げると、雲ひとつない空から雨粒が降っていた。


 ポツン、ポツンと。

 やがて、ザーザーと。


 遠くにいた墓参者ぼさんしゃが慌てて車へと駆け込んでゆく。

 逃げ遅れたぼくは、滝のような雨に打たれるまま、ずっと空を見上げていた。


 晴天にもかかわらず降る雨。

 天気雨、または狐の嫁入り。


 あるいは──



 ──ああ、そうか。


 きみはぼくが泣いていると、いつもぼくを慰めながら、きみも泣いてくれていたよね。

 もらい泣きです、なんてふたりで泣いて、ぼくひとりの涙にしなかった。



 ──ああ、そうか。



 きみは。



 きみは、そこにいたんだね。



 これは雨のかたちをしているけれど、きっと、ぼくの涙を見た、きみのもらい泣きだ。



 やっぱり、きみはすごいよ。

 ぼくが泣いていると、ぼくの悲しみを大いなる愛で包み込んでくれる。


 きみの涙に比べたら、ぼくの涙はあまりにもちっぽけだね。



 雨があがった。

 住職が遠くから、大丈夫ですかーなんて袈裟を揺らしながら駆けてくる。


「もう、大丈夫です」


 ぼくの顔を見た住職は首をかしげた。

 それもそうだろう。雨に濡れて笑っている男なんてそうそういないだろうから。


 たったいまの天泣てんきゅうがきみの涙だとわかったから、ぼくはいつものように、知らずと笑顔になってしまうんだ。



 きみが空からぼくを見てくれているのなら。

 ぼくは、笑っていようと思う。


 ぼくがふたたびきみの隣に並ぶのは、数年後──十年以上経ったあとかもしれない。


 きみは、ぼくを待っていてくれるだろうか。

 それとも、ぼくに愛想を尽かして、向こうで所帯を持っているだろうか。

 そんなこと、冗談でも言わないでください──なんていつものように、深いシワを刻んでも美しい頬を膨らませてぼくを叱ってくれるだろうか。


 青く透き通った蒼空の下、きみが照らす、きみへと続く長い長い道。

 ぼくはその一歩を、力強く踏み出した。



(了)

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