#8 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ

 朱音は薄暗い階段を一人で降りていた。


 ××が目を覚ます前に朱音は、するべきことが残っている。


 朱音から全てを奪った元凶を始末する必要がある。


 階段を降り切って、分厚いトビラを開けた。


 中には必要最低限のものしか揃っていない、シャワー、トイレ、ベッド…。


 朱音にしてみれば、これでも多すぎるくらいだが、仕方がない。


 冷たいコンクリートに覆われた部屋に、一人の女が、たたずんでいた。


「葵?…生きてる?」

「——えぇ…おかげさまで…」


 地下室で朱音を待ち構えていた女は、朱音が心の底から憎んでいた葵だった。


「葵のおかげで…わたしの計画は万事、順調に進んでいるよ」

「——そう…」


 葵は朱音の言葉に興味なさそうに答えた。


「どう?——全てを奪い取った相手に最愛の人を奪われる気分は?」

「…」

「ねぇ、今、どんな気持ち?——わたしのこと憎い?…アハハッ!…でも、もう遅いよ!もうあの子はわたしのもの!」

「——そうね…今の気分は最悪よ…」

「でしょ?…キャハハハ!」


 葵の朱音は満足そうに奇声を上げた。


「お姉ちゃんに一つ忠告してあげる」

「んー?…結婚式の祝辞かな?」

「お姉ちゃんは『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』って言葉を知ってる?」

「何それ?」

「ドイツの有名な哲学者、フリードリヒ・ニーチェの言葉よ」

「へー…相変わらず博識だね」


 朱音は侮蔑ぶべつを込めて吐き捨てる。


「怪物と戦う者はその過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならないって意味よ」

「あぁ…『ミイラ取りがミイラになる』ってことね、分かったわ。ご忠告どうも、じゃあ、わたしは愛しの彼に会いに行ってくるね」


 朱音は扉に手をかけて、違和感を覚えた。


「な、なに…」

「ようやく―—効いてきたようね…」

「ッ!——葵!」


 朱音は叫ぶと振り返って葵を睨みつけた。


「催眠療法の神髄しんずいは精神汚染…忘れたの?」

「クッ…いつからよ!」

「いつから?——お姉ちゃんが××君に目をつけた時からよ…フッ」


 朱音はズキズキと痛む頭を抱えながら、叫ぶ。


「葵!——また奪うの!?わたしから…何もかも奪うの!?」

「フン…お姉ちゃんが悪いんだよ…お姉ちゃんが馬鹿だから」

「グァァァァァ!!糞女くそあまがァァァ!!」

「怖いなぁ…そんなに吠えないでよ、負け犬のくせに」

「ウゥゥゥ…頭が…頭が割れる!痛いよぉ…」


 朱音は頭を抱えて床にうずくまった。


「ほら…もっとお姉ちゃんの悲鳴を聞かせて」


 葵が人差し指をピンと立てる。


「アガァァァァ!割れる!割れちゃう!…やめて…もうやめて…ごめんなさい…」

「あーあ…泣いちゃった…」

「やだ…死にたくないよ…葵…わたしが悪かった…から…お願い…」

「うーん…本当はもっとイジめたいけど…このままだと本当に死にそうだから、やめてあげるね」


 葵がパチンと指を鳴らすと朱音の頭痛が少し治まった。


「ハァハァハァ…どうして…」

「どうして?お姉ちゃんなら知ってるでしょ?——わたしの本性…」

「…冷酷非道の悪魔」

「大・正・解♡」


 顔をぐしゃぐしゃにして、泣きつづける朱音に葵は何かを見せつける。


「これなーんだ…?」

「ど、どうして…葵がそれを…」

「こういう時がくると思って…すり替えておいたの…」

「じゃ、じゃあ…あれは…」

「そう…サンプル」


 朱音は恐怖で顔を歪ませる。


「大丈夫だって、痛いのは一瞬だけだから…」

「いや…やめて!葵!助けて!」

「だーめ♡」


 葵は朱音の首筋に注射を刺して謎の液体を注入した。


「はーい、おしまい♡」

「うぅ…」

「大丈夫…お姉ちゃんに打ったのは特別性だから、効果はゆっくりだよ♡」


 床にうつ伏せとなってゼエゼエと息をする朱音を尻目に、葵はトビラの方へと向かう。


「ま、待って!置いてかないで!」

「ん?…お姉ちゃん見苦しいよ…諦めな」

「お願い…一人に…しないで…」

「大丈夫…お姉ちゃんを一人にしないよ…だから、今は眠って…」

「あ、葵…わたし…」


 朱音は掠れた声で葵を呼びかける葵は答えない。やがて朱音は力尽きてしまい、スースーと規則的な寝息が聞こえてきた。


 葵は朱音の傍らにしゃがむと優しい口調で語りかけた。


「お姉ちゃんは殺さないよ…わたしの大事な家族だからね…お姉ちゃんはわたしのことを緋山葵ではなく、一人の人間として見てくれる数少ない人間だから」


 葵は優しく朱音の頭を撫でる。


「ちょっと眠っててね、今から大好きな彼に会いに行くから…大丈夫…すぐに戻ってくるからね」


 *


「あ、目が覚めたんだね…おはよう」


 目が覚めると彼女——緋山葵が居た。葵なのか、思わず尋ねずにはいられなかった。


「そうだよ…ごめんね…君を傷つけてしまって…」


 今、目の前に居るのは間違いなく葵だった。


「ごめんね…待たせて…今からでも…やりなおしてくれる?」


 当たり前だ、葵以外、考えられない。僕は葵じゃなきゃ幸せになれない、と告げた。


「フフッ…わたしも…大好きだよ」


 *


 葵と、よりをもどした僕の不眠症は少しずつ回復に向かっていた。


「ココア淹れたけど、飲む?」


 久しぶりに葵が淹れたくれたココアを飲みたいと思っていたから、もちろんお願いした。


「はい、どうぞ」


 ココアを一口飲む、甘い香り味がじんわりと口中に広がって、幸せな心地になる。


 葵の話によると、朱音さんは病院を休業して、海外出張に行っているのだとか…。


「あ…今、お姉ちゃんのこと考えてたでしょ…」


 彼女に指摘され、ばつが悪くなった僕は素直に謝罪した。


「もう…わたしの前で違う女の子のこと考えるのやめてよね」


 相変わらず、葵は人の考えていることが良く分かるものだと僕は不思議そうに感心した。


「それはそうでしょ…わたしは心理学を専攻していたからね…」


 葵は口の端を吊り上げてニィッと嗤った。


 一瞬だけ、葵が朱音さんの面影と重なって見えたが、気のせいだろうか…。


「んー?どうしたの?…君の目に映っているのは…」


 彼女は首をかしげて、僕に尋ねる。


「「どっちの緋山かな?」」


 蠱惑に微笑む葵の目は、左目が赤色、右目が青色に輝いていた。


〈完〉









































































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美人女医による催眠療法が悪魔的すぎる ドングリノセクラベ @karakasamazin

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