#7 牙を剥く獣
「——朱音でいいよ。苗字は嫌いだから」
朱音は気怠そうに呟くと、ボールペンを掌の上で弄んだ。
「——で?何が知りたいの?」
ガラリと雰囲気が変わった女医にドキドキしながら、質問をぶつけてみた。彼女のことを知りたい、と。
朱音はデスクに置かれている写真立てにチラリと目をやった。
「彼女の本名は——
黙って朱音の次の言葉を待つ。
「葵は、わたしとは別次元の存在だった―—頭脳明晰、運動神経抜群の完璧人間。誰もが葵を賞賛し、葵を褒めちぎった。葵に欠点があるとすれば…優しすぎるところ…誰かさんにそっくり…フフッ」
朱音は僕のことを見るとニイッと口の端を吊り上げた。
「葵に比べて、私は何もかも平凡で特筆すべきところは何もない普通の人間。葵が産まれるまでは何とも思わなかったけど…葵に接する時のみんなの態度とわたしに接する時のみんなの態度との違いで、わたしは全てを悟った——わたしはいらない子だって…フフ」
朱音は自嘲気味に呟くと、フンと鼻を鳴らした。
「その日から、わたしは葵を目の敵にして、徹底的に邪魔をした。葵の足を何度も引っ張った。それがバレて親には何度も𠮟られた。それでもわたしは止めなかった。わたしの嫌がらせを笑って許す葵の態度が余計にわたしをイラつかせた…」
何と言えばいいか分からず黙ることしかできないでいた。
「葵には全てを奪われた―—居場所、家族、愛情、友人…何もかも…葵が憎くて憎くて仕方がなかった…でもね…神様はわたしにチャンスをくれた…」
朱音は椅子を蹴飛ばして、音もなく僕に近寄ると、頬をペロリと舐めてきた。
「わたしのチャンスっていうのは——君だよ?」
僕は恐怖に身体を震わしながら、朱音を見つめた。
「初めて君を見た時、ピンと来た。君こそわたしに相応しい…白馬の王子様だって…」
朱音は虚ろな目で僕を見つめてくる。
「——だけど一筋縄ではいかなかった。葵が邪魔をしてきたの。ほんっとに目障りの女よね、人の恋路を邪魔してきて…」
僕の肩に置かれた朱音の手に力が入る。
「——君に接触しようにも、いつも傍には葵が居た。わたしはただひたすらに待ち続けた、その時が来るのを…そして遂に…機会が訪れた。葵が君と別れるって言い出したの!」
朱音は歓喜の声を上げてトリップした。
「それからはもう、自分でも笑っちゃうくらい、とんとん拍子に話が進んで、気がつけば君はわたしの手中に収まっていた―—フフッ…アハハハ…ハハハハハッ!」
朱音は狂ったように嗤いつづけた。
「君はもうわたしのもの…どこにも逃げ場はないし、逃がさないよ…君は一生わたしのもの、わたしだけのもの…誰にも触れさせない」
朱音は血走った目でこちらを見つめていた。
「どうしたの?そんなに怯えちゃって…大丈夫だよ…わたしは葵と違って君を見捨てたりしないよ…ね?」
狂ってる。本能が逃げろと告げている。しかし恐怖で足がすくんで動けない。
「フフフ…こっちにおいで…大丈夫だよ、怖くないよ——だから…ほら…手を出して」
僕は恐怖のあまり、差し伸べされた手を振り払ってしまった。朱音は払われた手をまじまじと見つめていた。
「…あぁ…君も穢れてしまったんだね…葵という毒に犯された…
可哀想な君を…助けてあげよう…」
朱音はデスクに戻ると、
「——これ?…解毒剤だよ…わたしのことしか考えることができなくなる…愛の薬…フフッ」
注射器を持って迫る朱音から逃げるために、震える足を引きずりながら、出口に走る。
「アハハ…逃がさないよ…」
ヒタヒタと迫ってくる足音が聞こえてくる。
「——残念。そのドアは開かないよ——ほら、捕まえた♪」
いつの間にか、背後まで迫っていた朱音に抱きつかれる。
「痛いのは一瞬…目が覚めた時には、幸せいっぱいの生活が待っているよ…」
首筋を鋭い痛みが襲う…注射を刺されて、謎の液体を注入されてしまう。
「少しの間、お眠りなさい…目が覚めたら君は——完全にわたしのもの…アハハハハハハッ!」
朱音の狂った嗤い声を聞きながら、意識が薄れていくのを感じた。
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