名探偵なんて要らない

盛るペコの翁

第1話

「アルセーヌ・ルパンをご存知ですか?」

 そう声をかけられたのは、ある秋の日のことだった。

 少し肌寒くなってきたけれど、コートを着るにはまだ早い。そんな秋の日の昼下がりに、僕は彼女と出会った。

 八重樫夜々、と彼女は名乗った。 明るい栗色の髪を肩のあたりまで伸ばした少女だった。年齢は僕と同じくらい、つまりは高校生くらいに見える。

「君の名前と同じくらいには」

 と、僕は答える。

 つまりはほとんど、何も知らない。

 図書館の本棚に並べられているのを見たことはあるけれど、手に取ったことは一度もない。僕にとってのアルセーヌ・ルパンは、そのくらいの存在だった。

「彼に、これを渡してくれませんか?」

 そう言って彼女が手渡したのは、A3サイズの封筒だった。

「どうして、僕に?」

「あなたが、クラリス・デティークだからですよ」

「初めて聞く名だ」

「アルセーヌ・ルパンにとって、最も親愛な人の一人です」

「あいにくだけれど」と、僕は一度言葉を切る。「僕はクラリス・デティークとやらでも、カリオストロ夫人でもない。怪盗紳士の知り合いに心当たりはないよ」

「そうかもしれません。でも」

 自嘲じみた笑みを浮かべながら、彼女は言葉を続ける。

「どうか、受け取ってはくれないでしょうか。私にとってこれは、女王の首飾りにも勝る宝物なのです」


   ※


 明日、ここでご報告を待っています。

 そう言い残すと、彼女はこの場から立ち去っていった。

 渡された封筒は口が空いていて、中にはぎっしりと紙が詰められている。

 取り出して中身を確認するか、少し迷う。人の贈り物を覗き見るなんて趣味じゃないけれども、どこか、彼女はそれを望んでいるようにも見えた。見られて困るようなものなら、もう少し隠す努力をしたはずだ。

 少しだけ悩んだ末に、僕は丁寧に封筒の口を折りたたむことを選んだ。

 知るということは、不可逆的だ。溢した水が盆に帰らないのと同じように、取り戻しが付かない。

 秘密なんてものは大抵、暴かれるべきじゃない。それがささやかで個人的なものなら尚更だ。好奇心という暴力性より、それを抑える理性こそが善性の本質だと、僕はそう信じている。

 それから僕は大きく息を吐き出すと、彼女が向かった方向と逆方向に足を進めた。

 本当に、怪盗紳士の知り合いなんて心当たりがない。でも、そう呼ばれるべき相手なら覚えがあった。

 彼は大抵、この町に一つしかない神社の境内にいる。そこで羽を休めながら、時折歌を歌ったり、草木に語らいかけたりしている。

  僕はそんな彼のことを密かに、恋多きツバメと呼んでいる。



「愛というものの正体について、考えたことはあるかい?」

 さえずるような綺麗な声で、恋多きツバメは言った。

「僕はいつだって、愛に満ちた世界について考えているよ」

 と、僕は答える。

「それは一体、どんな世界だい?」

「例えばその世界では、通貨のように愛が支払われる。使うほどに愛は循環して、世界は彩りに満ちていく」

「素敵な世界だ。とても」

 それから恋多きツバメは、悲しそうに目を伏せながらこう言葉を続ける。

「ツバメの世界では、愛は有限なんだ。消費する毎にすり減って、後には何も残らない。最後には炉に焚べられて、ドロドロに溶かされてしまうのさ」

「にもかかわらず、君は多くの恋をした」

「恋と愛は別物だよ。僕は数多くの恋をしたけれど、誰かを愛したのは生涯で一度切りだ」

「献身的だね」

「つまりはその献身こそが、愛と呼ばれるものの正体だよ。恋は感情によるものだけれども、愛は意志によるものだ」

 滔々と、恋多きツバメは語る。八重樫夜々と名乗る少女と別れた、その直後のことだった。

 恋多きツバメはもちろん、モーリス・ルブランの描く怪盗紳士ではない。

 でも、彼女の言うアルセーヌ・ルパンに該当し得る人物は、僕の知り合いの中では彼しかいない。

  彼はこの町の人々からは、神様と呼ばれている。──実際には、彼が本当に神様かどうかなんて、誰にだって確かめようはないのだけれど。

 本当は、彼は神様なのではなく、人を惑わす悪魔なのかもしれない。あるいはどこか遠い星から来た、未知の異星人なのかもしれない。 そのどれが正しいかを僕たちは知らない。確かめる手段だって存在しない。だから僕たちは便宜上、彼のことを神様と呼んでいる。1+1=2の証明を知らないままに、テストで答えを書き込むように。

実際、彼は神様じみた不思議な性質を持ち合わせている。

 彼は会う人に応じて、その人の願ったように姿を変える。原理はわからないし、知ろうとも思わない。けれど客観的な一つの事実として、確かに彼にはそのような不可思議な現象を引き起こす。

僕の前では、彼は恋多きツバメになる。けれどある人の前では、彼は救国の英雄になる。別の人の前では片翼の天使にもなる。場合によっては、怪盗紳士になることだってあるのかもしれない。

「アルセーヌ・ルパンも、愛に生きた人と聞いたことがある」

 と、僕は恋多きツバメに向けて言う。彼は少しだけ困ったような顔を見せると、こう言葉を返した。

「僕はツバメだよ。悪いけれど、人の世界の文学には詳しくはないんだ」

「じゃあ、八重樫夜々という少女のことは知っているかな?」

 そう言いながら、僕は彼に封筒を差し出した。

「君は彼女にとっての、アルセーヌ・ルパンなのかな?」

 と、僕は問いかける。 観念したように、彼はこうこぼした。

「いいや。僕は彼女の前ではシャーロック・ホームズになる。彼女はいつだって、都合の良い真実を求めていた」

「真実?」

「その真実の一端が、この封筒の中身だよ。君はこれを見る権利があると、僕は思う」

「遠慮しておくよ。人の秘密を暴き立てるのは趣味じゃないんだ」

「そうだね、君はそう言うと思っていたよ」

 彼は差し出した封筒を突き返して、こう言葉を続けた。

「悪いけれど、これは受け取れない。彼女に返しておいてくれないかな」

「それは、どうして?」

「理由は言えない。どうしたって、彼女の秘密に触れることになる」

「それなら仕方ない」

 僕は封筒を握り直すと、再び大事に脇に抱え込む。

「代わりと言ってはなんだけれども、一つ、話を聞いてくれないかな?」

 神社を立ち去ろうとしたところ、恋多きツバメはそう言って僕を呼び止めた。

「アルセーヌ・ルパンに関わる話だ。あるいは、一人の青年についての話でもある」

「青年」

「多くの人に慕われた青年だった。彼を、そうだね、仮に先生と呼ぶとしよう」

「彼は教師だったのかな?」

「どうかな。医者や政治家だって先生と呼ばれる。もしくはアルセーヌ・ルパンだって、先生と呼ばれたことはある」

 恋多きツバメは、そこで一度言葉を区切る。

「先生の仕事はいわば、愛を配ることだった。彼は自身の愛で世界が満たされることを望んでいたし、そのための活動だって何一つ惜しまなかった。まったく、痛ましいくらいに」

「けれどツバメの世界では、愛は有限だ」

「そうだね。愛というのつまり、炭鉱のようなものなんだ。初めは無限に思えたって、必ずいつか底をつく。気付いた時にはすっからかんさ」

「先生も同じように、愛という資源を使い果たした」

「その通り。でも彼は、その後でさえ生き方を変えようとはしなかった。彼は不器用だったんだ」

「配る愛なんてもう持ち合わせてはいないのに?」

「つまりはそこで、アルセーヌ・ルパンの出番だ。この先の話まで聞いていくかい?」

「もう十分だよ。アルセーヌ・ルパンに頼むことなんて、ただの一つに決まっている」

 そう言い残して、僕は恋多きツバメに別れを告げた。

 なんてことだ、と心の中で呟きながら。


   ※


 家に帰って、色々なことを考えた。

 例えば、恋多きツバメのこと。あるいは、アルセーヌ・ルパンのこと。もしくは、シャーロック・ホームズのこと。本当に色々なことを、沢山。

 恋多きツバメの話はきっと、僕に対する誠意だったのだと思う。期せずして、奇妙な事件に関わってしまった僕が、うまくすれば真相の一端に辿り着けるような。

 彼の話を意味のわからない寓話として聞き流すならそれも良し。十分な好奇心を持って彼の話を推論するのであれば、真相に辿り着いてしまっても構わない。そんな風に慎重に、彼は僕に判断材料を与えたのではないだろうか。

 そして実際、僕は一つの仮説に辿り着いてしまっている。

 この封筒の中を覗けば、その仮説はより確実なものになるだろう。

 けれど僕はそうすることはなく、そこで思考を打ち切ってベットで横になることを選んだ。

 僕はシャーロック・ホームズでもエルキュール・ポアロでもない。真実なんてものは大抵の人にとっては不都合なもので、僕はそれを解き明かしたいとは思わない。綺麗事だって言われても、本当に綺麗事で終わるならそれが一番じゃないか。

 最後に僕が考えたのは、八重樫夜々のことだった。彼女は何を思ってシャーロック・ホームズを希ったのか。僕は彼女に、どんな言葉をかけるべきなのか。 それだけを考えて、僕は眠りについた。



「アルセーヌ・ルパンには会えましたか?」

 と、八重樫夜々は言った。昨日と同じ時間、同じ場所でのことだった。

「いいや」と、僕は首を横に振る。

「僕はクラリス・デティークじゃない。僕にとって最も親愛な友人は、一匹の恋多きツバメだ」

「それでも構いません。贈り物は届けてくれたでしょうか?」

「渡そうとはしたんだけれども、ごめんね。受け取ってくれなかった」

 僕は彼女に封筒を差し出す。 彼女は一瞬だけ、何かを諦めたような笑みを浮かべながら、封筒を受け取った。

「残酷な人ですね」

 と、八重樫夜々は言う。恋多きツバメ、あるいはアルセーヌ・ルパンに対していうよりは、どちらかと言えば僕に向けて。

「君にとっては、そうかもしれない」

 否定することもできず、僕は彼女の言葉を首肯する。その言葉は僕にとって、予想できたもののうちの一つだった。

「……驚かないのですね。いきなり、罵倒されて」

「神様の話のおかげ、かな。もっとも、聞くべきではなかったと今は後悔しているよ」

「彼は、どこまで話したのですか?」

「肝心なことは、何も。でも、推測はできる」

 僕は小さく、ふぅと息を吸い込んだ。

「これから僕が言うことは、まるで見当違いのことなのかもしれない。もしくは君にとって、酷く不都合なことかもしれない。だから返事はしなくても良いし、君が嫌だと言うのなら、僕は今すぐにだって口を閉じても良い。その前置きの上で、君と会話を続けることを許してほしい」

「構いません。続けてください」

「うん、ありがとう」

 と、僕は感謝の言葉を告げる。それから、次のように言葉を切り出した。

「君は、アルセーヌ・ルパンに大切なものを盗まれた」

というのはきっと、正確ではない。

 彼女から大切なものを盗んだのは恐らく、恋多きツバメが先生と呼んだ青年だ。恋多きツバメ──あるいは神様──は、そんな彼の前にアルセーヌ・ルパンの姿となって現れた。

「あなたは先生について、一体どれほどご存知なのですか?」

 と、八重樫夜々は問いかける。先生、と恋多きツバメと同じ言葉を使いながら。

「ほとんど何も。でも、予想はある」

 先生と呼ばれる職業は、教師と医者と政治家以外にも存在する。それからアルセーヌ・ルパンという人物の性質を考えれば、青年の仕事というのは自ずと推測が付く。

「彼の仕事に予想が付けば、彼が何を盗んだのかも想像できる。それから、君が渡した封筒の中身が何だったのかだって」

「そこまで予想しておきながら、あなたは神様に封筒を渡さなかった」

「あぁ、そうだね」

「どころか、その中身を確認すらしなかった」

「好奇心というものがなかったわけじゃない。でも、真実というのは大抵都合の悪いものだ。シャーロック・ホームズに頼ったってそれは変わらない」

 彼女に言われるまでもなく、僕は残酷なことをしたのだと思う。

 彼女はきっと、封筒の中身が覗かれることを望んでいた。もっといえば、それを覗いた僕が、そのまま封筒を盗み取ってしまうことを願っていた。なぜなら封筒の中身は、それほどまでに価値のあるものだったから。

「君はきっと、人は誰しもがアルセーヌ・ルパンになり得ると証明がしたかったんだ」

「どうして、そう思うのですか?」

「神様は君の前では、シャーロック・ホームズの姿を見せるから」

 大切なものを盗まれた彼女は、青年に対して何を思ったのか。

 もしも彼を法的に捕らえようとするのならば、神様はコロンボ刑事になったはずだ。あるいは彼に報復をしようとすれば、エドモン・ダンテスとなったはずだ。

 そのどちらでもなく、神様は彼女の前ではシャーロック・ホームズの姿を取った。恋多きツバメの言葉を借りるなら、都合の良い真実を求めて。

「君は、先生を許したかったんじゃないかな。だからその理由を作るために、今回の計画を仕組んだ。いかにも価値のありそうな宝物を用意して、それが僕か神様に盗まれてしまうことを望んだ」

 八重樫夜々は、寂しげな笑みを浮かべながら僕の話を聞いていた。

「というのが、あなたの言う推測ですか?」

「名探偵じゃないんだ。多少の粗は許して欲しい」

 もちろん。

 僕の語った推測に、証拠なんてものは何一つない。

 仮定に仮定を重ねた推論だ。推理だって無理が出るに決まっている。もしもこれが探偵小説なら、読者から大きな批判を受けること間違いなしだろう。

 きっと僕の想像なんて、真実からは程遠い解像度でしかなくて、結論だって大きく事実とは異なるのだろう。

 それで良い、と僕は思った。

 出来ることならこんな推測は全てが間違いで、事件なんて何も起きていなければなお良い。悲劇なんて、そう簡単に起きるべきじゃない。

「話は以上だ。じゃあ、さようなら」

 僕は彼女に別れを告げて、この場から立ち去ろうとする。それでこの話は本当におしまい。そのはずだった。でも。

「ありがとう、ございました」

 そう彼女に呼び止められて、一瞬だけ足が止まる。

 彼女がどんな意図でその言葉を放ったのか、僕はその意味を知らない。 単なる社交辞令かもしれない。もしくは別に、もっと深い意図が込められていたのかもしれない。その真意を確かめる術を僕は持たない。

 ただ、彼女は笑っていた。

 なら僕にとってはそれが全てだ。

 きっと世界というものは、いつだって残酷で暴力的で。

 だから僕はこの物語に、真実なんてものは要らない。

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