第9話

 十月。そろそろクラスの中でも親友同士になる生徒が増えてくる時期だ。私はといえば、相変わらず春原皐月に付き合いながらも、文化祭の準備に追われていた。


「いやーいっぱい買ったね」


 私は彼女の提案で、二人で買い出しをしていた。私たちのクラスはカフェをやるらしく、教室の飾り付けに必要なものを色々と用意する必要があったのだ。


「重くない? 手伝うよ」

「いい。私の方が力持ちだから」

「いいからいいから」


 買い物袋はさほど重くないが、彼女は私の手を取るように、袋を持った。


「……手伝いになってないし、歩きにくい」


 私の言葉が聞こえていないかのように、彼女は楽しげに笑った。


「それに、誰かに見られたら面倒だから」


 そう言って、私は彼女の手を振り払った。彼女は眉を顰めた。


「いいじゃん、ちょっとくらい」


 彼女は子猫のようにべたべたと私にまとわりついてくる。

 彼女の過去を知ったあの日以来、私たちの距離は以前にも増して近付いた。それは心理的なものにとどまらず、物理的な距離も同じだった。


 そうして接する中で気付いたことがある。それは、彼女が想像していた以上に子供っぽいということである。私も人のことは言えないのだが、彼女は何かにつけて私とスキンシップをとろうとするし、甘えるような行動をとってくる。


 それは、きっと、甘えられる唯一の存在だった父親を喪失したことから生じた行動なのだろう。私は彼女を拒む術を知らない。


 私の前にいる彼女は、クラスメイトに見せているような、偽りだらけのわざとらしい彼女ではない。笑うのがあまり上手でなく、甘えたがりで、心の寂しさを埋めようとしている彼女こそ、私の目の前にいる、私の知っている彼女だ。


「私がうさぎなら、春原さんは猫だね」


 私はぽつりと呟いた。


「どういうこと?」

「気分屋で、甘えたがりで——」

「おーい、皐月ー!」


 私はすっと彼女から体を離した。見れば、前方から春原皐月の友人が歩いてきているのが認められた。


「梓、どしたん?」

「いや、気分転換してたら見かけたから。買えた?」

「ばっちり。だよね、卯月」


 彼女は凍りついたような無邪気な笑みを私に向けた。この笑みは、理解の及ばないヒトという存在とうまく付き合うための、彼女なりの努力の成果なのだろう。それを見ていると、胸がちくちくした。


「うん。春原さん、先行ってて。私ちょっとお手洗いに行ってくるから」


 私は返事を待たずに、彼女に買い物袋を預けて別方向に歩き出した。

 その途中、ちらと彼女たちの様子を窺った。彼女の表情は相変わらずわざとらしいが、退屈そうな様子はない。


 彼女の様子を観察し続けて、分かったことがある。

 彼女は、本当は人間のことが嫌いなわけではない。ただ、常識を共有できないからまともに付き合うのを諦めただけなのだ。私と違い、星の夢を知覚できてもなお彼女は周りから浮くことなく、普通に過ごすことができている。


 つまり、彼女は星の夢さえなくなれば、人と普通に付き合うことができるようになるということだ。彼女の人嫌いは常識の共有ができないという点からきているのだから。


 そこが私とは違う点だ。


 私は駄目なのだ。星の夢との付き合い方が悪いのか、どうしても周りから浮いてしまう。だから人から嫌われ、排斥される。そうして私は自分を捨て、普通という枠に自分を押し込んだ。その結果、私は自分を忘れてしまった。


 星の夢が終わっても、私は変わらない。否定され続けたという事実に蝕まれた私の心は、ひどく臆病になっている。自分がどんな人間かも忘れてしまったのに、傷つきたくないという気持ちだけは残っているのだ。だから今ある普通の生活に縋ることしかできない。


 そして、いつか周囲とのズレが決定的なものになった時、私は死を選ぶだろう。彼女とは、そこが違う。


 彼女は星の夢さえ終われば、普通の人間として生きていけるのだ。

 そして。そして、私はそんな彼女に、幸せになってほしいと願っている。


 私と違う彼女なら、きっと過去に囚われず生きていけるはずだ。それは、私の勝手な願望に過ぎないのかもしれないけれど。


 私は学校から少し離れた公園のベンチに座った。

 日が暮れようとしている。空は次第に群青色に染まり始め、茜色との境界線は紫がかっている。


 そういえば、前に彼女に連れて行かれたカフェで、あんなふうに色の変わるドリンクを飲まされたことがあった。


 思えば彼女とはかなり長い時間を共に過ごしたものである。ふとした瞬間に彼女のことを思い出してしまうほどに。


「お手洗い、いいの?」


 澄んだ声が聞こえる。私がよく知る、涼しげで乾いた声。それは奇しくも、公園に吹く秋の風と似通っていた。


「いい。もう行ってきたから」

「嘘。ずっと追ってきたからわかるよ」

「ストーカーじゃん」

「そういう卯月は嘘つきだよ」


 春原皐月は私の隣に座った。私はブレザーに包まれるように体を丸めた。この時期は日が沈むと肌寒い。冬の訪れを感じずにはいられなかった。


「どうしたの、いきなり」


 彼女は放り出した私の手を握って言った。


「友達が来たみたいだから、二人にした方がいいかなって」

「そんな気遣いしなくていいのに。私は卯月と一緒がいい」


 彼女は青い瞳でまっすぐ私を見つめた。その瞳に映っているのは、本当に私なのだろうか。少しだけ、気になった。


「……もし」


 以前に言われたことを、ふと思い出す。ここで一緒に死のうって言ったらどうする、と彼女は以前聞いてきた。あの時彼女は本気で死のうとはしていなかった。ただ、父親のことを思い出して言っただけなのだろう。


 今ここで私が同じことを言ったらどうなるのだろう、と思う。

 彼女は父親の気持ちを理解できないと言った。だが、父親に近づくために、同じ行動をとってもおかしくはない。


 なんとなく、彼女は多分一緒に死のうと言ったら断らないだろうな、と思う。


 自惚れているわけではない。しかし、父親と同じ星の夢を知覚できる存在に誘われたら、彼女は断れないような気がするのだ。


 これから先苦しんで生きるくらいなら、今ここで彼女と一緒に死んでもいいのかもしれない。

 一瞬だけ、そんなことを思った。


「もし星の夢が終わったら、春原さんはどうする?」


 一緒に死んでほしい。生きて幸せになってほしい。二つの気持ちがぐるぐる胸の中で渦巻いて、シェイクされて、自分の本音がわからなくなる。かろうじて発した言葉は、それでも、いつもと同じ平坦な響きだった。


「星の夢に頼らない楽しみを見つける」


 彼女は私の手を強く握る。少し痛かったが、その痛みが私の心を現実に戻してくれる。


「もちろん、卯月と一緒にね」

「……そっか」


 星の夢が終わった後も彼女と一緒にいる。そんな未来は想像することができなかった。多分、私たちの関係は今限定だ。星の夢が終わったら一緒にはいられなくなる。彼女にも友人と呼べる人ができるだろうし、私は普通の生活を守るために彼女とはあまり関わらなくなるだろう。


 だが、私は今、普通を何よりも大事に思っているのに、普通の生活を脅かす彼女と共にいる。


 それはなぜなのか。

 一緒に死にたいと思うのは、彼女に幸せになってほしいと願うのは、どうしてなのか。


 その答えを、私はずっと前から知っているような気がした。


「卯月は?」

「え?」

「卯月は星の夢が終わったら、どうする?」


 私は彼女から目を逸らした。


「普通に生きるよ。今まで通り」


 私にはそれしかないのだ。いつか終わると分かっている普通の生活を続けることだけが、私に残された唯一の道なのだから。


「そう」


 会話が止まる。彼女はしばらく私の手の握り方を変えたり、力を入れたり緩めたりしていた。そうして、やがて彼女は小さく呟いた。


「……生きてくれるなら、それでいい」


 それは、切実な叫びのように聞こえた。私は少し居心地が悪くなりながらも、微笑んでみせた。


「うん」


 私はそれ以上何も言わなかった。あまり会話を続けると、碌でもないことを口にしてしまいそうだったためである。


 私たちはしばらくぼんやりと手を握り合っていた。同じ制服を着た学生が近くを通りかかるのを見て私が立ち上がると、彼女も立ち上がる。

 そのまま、私たちはどちらからともなく歩き出した。

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