第10話

 最悪だ。

 文化祭当日、私はシフトの通りにウェイトレスとして教室で働こうとした。しかし、今日に限って星の夢がまた暴走を起こし、新たな常識を世界に追加していた。


 暗闇には見えざるものが潜んでいる。

 それが今の世界の常識である。厄介なことに、見えざるものは神出鬼没であり、カーテンの隙間やテーブルの下、果ては客のフードの中から、無差別に生まれていた。姿が見えないその存在は教室中に潜んでおり、時折人に悪戯を仕掛けてくるのだからたまったものではない。


 制服の袖から生まれた何かが私の腕を這いずり回っている。

 皆見えざる何かが悪戯してもさほど気にした様子を見せていないから、無視するのが正解なのだろう。


 今なら少しだけ、春原皐月の気持ちが理解できそうだった。

 見ているものも感じているものも違う人々を、好きになれなくても仕方がない。ほんの少しそう思いながらも、私はいつも通り平静を装った。


「すいませーん、注文お願いしまーす」


 私たちとは違う制服を着た客が声を上げる。私は足に何かが纏わりつくのを感じながら、客の方に歩いた。


 大丈夫、だと思う。

 いつも通り笑えているし、傍目には普通の人間にしか見えないはずだ。


 私は自分にそう言い聞かせて、仕事を続けた。

 予定通り仕事の時間が終わった後、私はふらふらと教室を後にして、人気の少ない階段に座り込んだ。


 ずるりと、何かを引きずるような音が聞こえる。

 四肢に冷たい感触が絡みつく。しまった。この階段は照明がないため、暗闇が多いのだ。それに伴って、見えざるものも増えていく。


 私は身動きが取れなくなるのを感じた。見えざるものが私の体の上で、無軌道に動き回っている。


 私はブレザーのポケットからスマホを取り出そうとしたが、見えざるものに弾かれる。スマホは地面に叩きつけられ、そのまま滑って階段の下に落ちていく。


 多分、私は今ひどい顔をしている。こんな顔を誰かに見られたら、おかしな奴だと思われてしまう。


 無理に普段通りの表情を浮かべようとしても、うまくいかない。

 その時、音が聞こえた。ローファーと地面が擦れる音だ。

 こつこつ、こつこつ。


 見えざるものとは違う、規則正しい足音。私は息を止めて、無表情になろうと試みた。だが、やはりうまくいかない。


 段々と足音が近づいてきて、心が冷えていくのを感じる。私は目を瞑った。いつかはこうなると、わかっていたはずだ。私は普通ではいられない。

 瞼越しに光を感じる。私はゆっくりと目を開けた。


「大丈夫、卯月」


 そこには、スマホを構えた春原皐月が立っていた。スマホのライトが目に眩しい。私は目を細めた。四肢に絡みついていた感触は、消えてなくなっている。辺りが明るくなったためだろう。


「……春原さん。なんで?」

「連絡したけど返事がなかったから」


 そう言って、彼女は階段下に落ちた私のスマホを拾った。

 ひび割れた保護フィルムの下に、彼女のメッセージが見える。学校ではあまりスマホを使わないため、気付かなかった。私は彼女からスマホを受け取って、ひびの入ったフィルムを剥がした。


 傍目には壊れて見えるスマホの画面も、フィルムを剥がせば本来の綺麗な姿に変わる。それは不思議なようで、当たり前のことだ。


 目に見えるものなんて、当てにならないのかもしれない。

 私はフィルムをひらひらと動かしてから、彼女に笑いかけた。


「ありがとう、助かった」


 彼女のスマホの光を壊れかけのフィルムが乱反射させる。


「ううん」


 フィルムをポケットに入れた時、彼女の手が私の腕を掴んだ。見えざるものとは違う、冷たいようで温かい手の感触。それがどうにも苦しいような気がした。


「春原さん?」

「跡ついてる。痛くない?」

「掴まれると痛いよ」

「……ごめん」


 彼女はぱっと私から手を離した。


「よく、ここにいるってわかったね」

「卯月がいそうなところ、探したからね」

「そっか」


 スマホの光だけが私たちを照らしている。私はふと、ワニの口内に侵入した時のことを思い出した。あの時も似たような状況だったが、私たちの距離は今よりもっと遠かった。


 思えば私たちの関係は、かなり変化した。

 最初は無邪気な笑みの理由も聞けないほど遠かった距離が、今では互いに隠し事ができないくらいに近づいている。


 ならば、絶対に育めないと思っていた愛はどうなのだろう。あと一歩、何かが間違えば私たちの間には愛が生まれるのだろうか。


 いや、あるいは既に、その萌芽は見えつつあるのかもしれない。

 駄目だ、と思う。

 私たちは愛を育むべきではない。だって、私たちは多分、一緒にいるべきではない人間なのだ。


「……そういえば」


 私は何でもないような顔をして、口を開いた。


「星に強い感情を見せれば夢が終わるって話だけど、具体的にどうやるの?」


 かつては聞かなかったその疑問は、世間話と同じような気軽さで喉を通り抜けた。


「前に案内したあの儀式の間で、強く想えばいいらしいよ。昔は殺したいくらい憎い相手のことを考えて星の夢を終わらせた人もいるとか」

「へえ」

「それよりさ、一緒に回らない?」

「遠慮しとく」

「……そんなに嫌?」


 彼女は不満そうな、不安そうな顔で問うた。彼女の本当の表情はいつも少し幼くて、見ていると落ち着かなくなる。


「ごめん」

「答えになってない」


 彼女は不機嫌そうに言う。

 彼女と一緒にいるところを見られたら、私は普通ではいられなくなる。

 今更だ、と思う。


 そもそも、普通を維持したいのであれば、最初から彼女に関わるべきではなかった。だが、彼女から手紙で呼び出され、同類だと知って、私は柄にもなく彼女に興味を持ってしまったのだ。


 無邪気な笑みの理由を知りたいなどというのも、表面的な理由付けに過ぎなくて、本当はただ彼女のことをもっと知りたかっただけなのかもしれない。


 自分とは真逆なのに、自分と同じ人種の彼女。私は最初から、そんな彼女に少なからず惹かれていたのだろう。


 今更になって、それに気がついた。

 だが、ここまで仲良くなるのは想定外だった。私たちは多分仲良くはなれないと思っていたから、今みたいに彼女について思い悩むことになるなんて、想像だにしていなかったのだ。


 多分、私は今彼女のことを好きになっている。

 しかし、この感情は、普通でいたいという気持ちに勝るものではない。自分を普通の人間だと思えなくなった時、私はきっと迷わずに死を選ぶだろう。


 そして、死を選んだら彼女はきっと悲しむ。このままさらに私たちの距離が近づいたら、彼女はもっと深く傷つくことになるだろう。


 私の中の「普通」の定義は既におかしくなっている。いつか爆発して、どうにもならなくなる日が来るだろう。自分を誤魔化して生きてきた弊害だ。


 それに彼女を巻き込みたいという気持ちすらあるのだから、どうしようもない。


「ごめん」

「だから……」

「ごめん。それしか言えないよ」


 私は生きるのが怖い。星の夢が続き、自分を誤魔化し続けなければならないのも、星の夢が終わった後、空っぽのまま生き続けるのも、どちらも苦しいと思う。


 それならば、いっそここで彼女と一緒に消えてしまいたい。そんなことを思ってしまうのだ。口には絶対に出せないけれど。


「……私、ちょっと保健室で休んでくる」

「ついていくよ」

「別に……ううん、わかった」


 多分、止めてもついてくるだろう。そう思った私は、彼女と共に保健室に向かった。


 先生には軽いめまいがすると言って、私はベッドに横になった。彼女は付き添いという形で私の傍にいる。


 私たちは何も会話をしなかった。

 淡々と、時計が針を進める音だけが聞こえてくる。

 それから何分か経ち、所用のためか先生が保健室を後にする。


「ねえ」


 沈黙を破ったのは、彼女だった。


「普通じゃなくなるのは、そんなに怖い?」


 青い瞳が私を見ている。嘘は許されないと思い、私は微かに目を逸らした。


「……怖い」


 掠れた声が出た。


「怖いよ。何を言っても否定される気がして、何をしても変な目で見られる気がして、身動きが取れなくなるから。私は、ずっと普通でいたかった」

「そっか」


 彼女はベッドに腰をかけて、私の髪に触れた。


「春原さんは、強いね」


 彼女は静かに首を振った。


「ううん、全然だよ。まだお父さんの影を追いかけてるし、ヒトは嫌い」

「……星の夢が終わったら、皆と仲良くできると思うけど」

「そうかな」

「私はそう思うよ。春原さん、結構素直だから。心から好きになれる友達もたくさんできるよ」


 カーテンが揺れている。何か、無数の手のようなものがカーテンを動かしているようだった。私は目を細めた。湿ったものが蠢く音が聞こえる。


「でも、そこに卯月はいないんでしょ?」

「未来のことはわからないよ」

「わかるでしょ。わかってるはずだよ、卯月は」


 彼女の細い指が、瞼に触れる。青い瞳が近付いた。


「卯月の顔、お父さんと同じ」


 私は何も言えなかった


「いなくなる直前の顔。やだよ、私。卯月と一緒にいたい」

「どうして?」


 長いまつ毛が微かに震えている。こうして近くで顔を見ると、やはり整っていると思う。積極的に海外の血を取り入れた結果なのだろうか。いや、だが、私は彼女ほど顔がよくはないと思う。先祖返りのせいかもしれない。


「好きだから」


 私は笑った。あまりにも飾り気のない言葉だ。


「卯月、私は——」


 何かを言いかけた時、彼女のスマホが鳴った。

 どうやら、着信があったらしい。


「出た方がいいんじゃない?」

「……うん」


 彼女は不満そうに眉を顰めながら通話を始めた。

 相手はクラスメイトらしい。そろそろ彼女のシフトの時間なので、電話をかけてきたらしい。彼女は少し躊躇うような様子を見せた後、「すぐに行く」と言って通話を切った。


「行ってらっしゃい」

「……行ってきます」


 私は微笑んで彼女を見送った。彼女は後ろ髪を引かれた様子で私を見ていたが、やがて保健室を出て行った。


 ふう、と息を吐く。

 私の精神がもう少し強ければ、また違ったのかもしれない、と思う。あるいは、私たちが出会うのがもっと早ければ、違う関係が築けたのかもしれない。


 もっと、ずっと前、私がまだ逸脱を感じていなかった頃に彼女と出会っていたら、今のように死を意識することはなかったのかもしれない。


 もしくは、私たちがもっと成長して、心の傷を隠せるくらい大人になってから出会っていたら、今のような関係にはならなかったのかもしれない。


 考えても仕方がないこととはいえ、私はついそんなことを考えてしまった。


 私たちがこの時期に出会ったのは運命的で、同時に絶望的でもある。噛み合っているようで、絶妙に噛み合っていない私たちの関係は、破滅を約束されているのだ。それはほとんど私のせいではあるのだが。


 私は思わず笑った。

 普通になりたいなんて、思わなければよかったのに。


 心を守るための手段が、いつの間にか変化してしまった結果、私はこうなった。もう後戻りはできない。


 見えざるものに纏わりつかれた時に感じた恐怖。あれが答えだ。私は普通から外れることにどうしようもない恐怖を感じている。もはや自分でも止められないほどに。


 普通が何かなんて、もうわからないくせに。

 思わず笑うと、見えざるものが体に巻き付いたような気がした。

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