第6話

 彼女の無邪気な笑みの理由を知った今、もはや彼女に付き合う目的は無くなった。それでも私は彼女に付き合い続けている。私はどうやら、まだ彼女と一緒にいることを望んでいるようだった。


 もっと彼女のことを知りたいとすら思っているのかもしれない。他者を人間と思わない彼女のことがどうにも気になるというのもある。


 だが、かつての彼女の言葉通り愛を育もうとは思ってはいない。私たちはどこまでいっても真逆の人間だ。深く関わるうちに、強くそう思うようになった。星の夢という共通点がなければ一生関わることはなかった人間同士なのだから。


 私と彼女が友人なのかそうでないのかもわからない。友人と呼ぶには、この関係は歪なようにも思うのだ。私たちは互いに何かを埋め合っているだけで、本当は健全な関係を築けていないのかもしれない。


 ただ、それでも、私と彼女は一緒にいる。

 繋いだ手から伝わってくる熱が、彼女が隣にいることを証明していた。


「好きだね、水族館」


 彼女に手紙で呼び出されてから三ヶ月。二度目の水族館である。以前と同じ水族館に来てはいるが、水槽の様子は様変わりしている。魚はもう空を飛ばないのだ。今の水族館は、私のよく知るものと同じだった。


「常識がまた変わったことだし、一緒に来ようと思って」

「ふーん……」

「とりあえず、クラゲ見に行こうよ」

「その次はペンギン?」

「……うん」


 少し驚いた様子で、彼女は答えた。


「何、その反応」

「いや、覚えてくれてたんだって思って」

「愛は相互理解、なんでしょ?」

「……そうだけど」


 彼女の目に、私は人間に映っているのか。青い瞳に映る私はひどくぼやけていて、人間なのかすらもわからない。やはり、この青い瞳には人を不安にさせる何かがあると思う。


「なんか、押しが強くなった」

「私?」

「うん。前は春原さんの好きなところでいいよ、なんて言ってたのに」


 彼女は似ていないモノマネを披露する。私は思わず苦笑した。


「愛の賜物だね」

「……愛って言っとけばいいって思ってない?」

「それは春原さんも同じでしょ」

「う。反論できない」


 私たちはくすくすと笑い合った。考えてみれば、彼女との関係は少し変化した気がする。以前よりは私も彼女に色々と言えるようになったように思う。それこそ、自分でもよくわからないことすらも言葉として口から出るようになった。それがいいことなのか悪いことなのかは、今の私にはわからない。


 私たちはゆっくりとクラゲの水槽に向かった。水族館はクラゲの展示に力を入れているらしく、水槽はクリスマスのイルミネーションのような雰囲気だった。青紫の照明に照らされたクラゲは、星のように輝きながらふよふよ浮かんでいる。


 無数に蠢くクラゲは、何とも神秘的であった。私はスマホを取り出そうとして、やめた。


「撮らないの?」

「きっと、目に焼き付けた方がいいから」


 私はカーブした水槽をじっと眺めた。夜空を眺めているような心地になる。休日ということで、周りには人がそこそこいるものの、何だか別世界に来たような気さえする。


 そのまま、クラゲのコーナーをぐるりと回る。私はふわふわした心地のまま、コーナーの入り口まで戻った。クラゲを眺めている間、彼女とはほとんど会話をしなかったが、彼女もクラゲに見入っているのが伝わってきていた。


 私は一つ息を吐いた。クラゲコーナーの近くには、巨大な水槽がある。そこでは様々な魚が悠々と泳いでいた。やはり、魚は水の中で泳いでいる姿が一番美しい。


 私たちはどうなのだろう。私たちに最も適した環境は、一体どこなのだろう。ぼんやりと、疑問に思った。


「クラゲ、どうだった?」


 不意に、彼女がぽつりと言う。私は彼女の顔を見た。彼女はまどろみの中にいるかのように、ぼんやりした表情を浮かべている。だが、青い瞳は確かに私を映していた。


「綺麗だった。……前よりも」


 以前見に来た時、クラゲは宙に浮かんでいた。だが、今日のクラゲは水の中で心地よさそうに浮かんでいる。その違いだけで、まるで違う生き物を見たかのような気持ちにさせられる。不思議だと思う。姿形自体は全く変わっていないというのに。


「そっか。卯月、前より楽しそうだった」

「クラゲに集中してなかったんだ」

「二人で来たんだから、反応は気になるよ。……前はあんまり、楽しそうじゃなかったし」


 純粋に水族館を楽しめているのは、彼女が隣にいるのが当たり前になったためなのかもしれない。以前は彼女と一緒にいることに多少違和感があったから、その存在が気になって仕方がなかった。


 だが、今は、彼女の顔色があまり気にならない。

 彼女のことをもっと知りたくなっているこの気持ちとは、真逆な気がする。何とも不思議な感覚である。


「楽しかったよ、前も」

「……また、嘘」


 彼女は目を細めて言った。


「嘘、つかなくていいよ。私の前では」


 私は心臓に針のようなものが突き刺さるのを感じた。私の嘘は、彼女以外には見破られたことがない。つくのが当たり前になった嘘は、もはや自分でも嘘だとわからないことも多いのだ。だが、彼女はそれも許してくれないらしい。


「無理して合わせなくていいよ。普通にしなくていい。卯月を見せてよ」


 彼女は極めて穏やかな表情で言った。無理難題である。冬野卯月という人間は、今やどこにも存在していないのだ。ここにいるのは、普通の人間だけである。見せられるものなんて、何もない。


「普通なのが私だよ」

「私の知ってる卯月は、違うよ」


 彼女は断言した。こうもきっぱり言われると、何も反論できない。


「怒ってるところ、学校では見たことない。嘘じゃない笑い方も、隣にいる人が見えないくらい集中して何かするところも、全部……学校では見せてない、学校の皆が知ってる普通とは違う卯月だよ」


 普通ではない私。それは、許してはならないものだ。誰かに「普通」とは違う私を見せてしまったら、もはや私は私でいられなくなる。普通に溶け込むのが難しくなる。私は普通でなければならない。他者に見せる私は、統一されていないと駄目なのだ。それなのに……。


「それが、私の知ってる卯月。学校とは違う、私だけが知ってる、冬野卯月」

「違う。私は……」


 私は、普通の人間でなければならない。そうでなければ、まともに生きられない。


 頭がくらくらした。お前はおかしい、と言われた記憶が蘇る。変わり者だとか、嘘つきだとか、そういった言葉がぐるぐると頭の中で回る。私は息が苦しくなるのを感じた。喘ぐように呼吸していると、彼女から強く手を握られる。


「……私にとっては、そんな卯月が普通なんだよ」


 そのまま、手を引かれた。人目を振り払うように歩き出した彼女に引かれるままに、私は歩調を合わせた。


「私はここにいる卯月を肯定したい。普通になろうとしなくたって、私にとってはそのままの卯月が普通で……愛したいと思ってる」


 そのままの私とは、何なのか。普通を演じている自分以外、私は知らない。ありのまま生きていた頃のことなど、とっくに忘れているのだ。自分がどのような人間なのかも、もう思い出せはしない。彼女の求める私がわからない。私は自分がひどく心許ない存在に思えた。


「私は、そのままの卯月を否定しないよ」

「だったら、今の私を肯定してよ。嘘をついてたとしても……」

「それは卯月じゃないから」


 彼女は水槽と水槽を繋ぐ通路で立ち止まった。辺りには、ほとんど人の姿がない。


「あれから色々考えたけど、私は「普通」じゃない、普通の卯月が好き」

「何言ってるかわからないよ」

「つまり、演じてないそのままが好きってこと」


 青い瞳が、水槽の中の水のようにゆらゆらと波打っているようだった。


「卯月が卯月である限り、私は否定しない。……もっと笑ってほしい。もっと怒ってほしい。もっと、卯月を見せてほしい」


 彼女は一息で言い切ってから、小さく笑った。その笑みは、とても無邪気とは言えない、複雑な笑みだった。


「愛は相互理解だよ、卯月」

「……私は、自分のことをよく知らない」

「だったら、思うまま生きてよ。私の前では」

「春原さんだって、嘘つきなのに」


 彼女が見せている表情は、嘘ではない。だが、本当にそれを信用していいのか、わからないのだ。現実離れした青の瞳のせいなのか、彼女言うところの「ヒト」に向ける表情を何度も見てきたせいなのか。それはわからないが、彼女が私に見せているものを、素直に信用できずにいる。


「卯月の前では、嘘はつかないから。絶対に」

「……わからない。どうしてそんなに私にこだわるのか」


 今まで、彼女から向けられる感情に戸惑うことはなかった。それが同種に向けられる興味だとわかっていたからだ。だが、今彼女から向けられている好意のようなものは、どう考えても興味によるものだけではない。


 なぜ、彼女は私にここまでの感情を向けてくるのか。私に何を見ていて、何を求めているのか。何もわからなかった。


「卯月と仲良くなりたいから。それ以外に、理由がいる?」


 絶対にいる。そう思ったが、多分彼女の口から私を納得させるような言葉は出てこない、と悟る。仕方がないと思い、私は小さく息を吐いた。


「……いい。わかった。春原さんが求めるなら、努力はするよ」

「ありがとう!」


 彼女は満面の笑みを浮かべた。かつて浮かべていた無邪気な笑みとは意味合いが違う、何だか落ち着かない笑みである。私は居心地が悪くなり、彼女の手を引いた。


「お礼はいいよ。ほら、ペンギンのとこに行こう。飛んでないペンギンが面白いかは、わからないけど」

「一緒なら、きっと面白いよ」


 春原皐月のことは、やはりよくわからない。私は彼女から視線を外し、ペンギンの水槽に向かった。


 彼女の言葉に嘘はなかった。ペンギンは飛ばなくなっていたが、彼女は何が面白いのかずっとにこにこしていた。私は「ペンギンはやっぱり可愛いね」などという言葉を二、三口にして、後はペンギンと春原皐月のことをずっと眺めていた。


 ペンギンは可愛い。けれど、見ている間ずっと笑っていられるほど面白いわけではない。私は彼女のことがもっとよくわからなくなった。


 その後、私たちは喧騒に紛れるようにして水族館を回った。

 何だかよくわからない南国の魚だとか、変な顔をした魚だとか、延々と餌を食べ続ける亀だとか、定番の生き物たちを見ては、私たちは言葉を交わした。何も特別なことがない、ただのお出かけである。いつも友達としているのとほとんど変わらない。


 差異があるとすれば、それは私があまり何も考えていない、ということだけだろう。普段は普通から外れないように言葉に気をつけている。だが、今日は特に気を張っていない。


 それがどれだけ大きい違いなのかはわからないが、少なくとも彼女は満足げだった。私は釈然としなかったが、彼女が楽しそうにしているのを見ていると、何となく心が満たされるような気がした。


「楽しかったー! 今度はどこに行こうか?」


 帰り道、彼女は言った。


「春原さんが決めていいよ」

「む、また人任せな」


 私は笑った。


「春原さんなら、面白いところに連れて行ってくれるって信じてる」

「そう言われると、重圧が……。今日は楽しめた?」


 私は一瞬、返答に窮した。


「わからない。でも、春原さんが楽しそうだったから、それでいいよ」


 彼女は目を瞬かせた。


「何、その顔」


 私が言うと、彼女は慌てたように笑う。


「いや、今まで頑なに撫でさせてくれなかったペットのウサギがついに撫でさせてくれるようになった気分っていうか……」

「私、春原さんのペットじゃないけど」


 私は眉を顰めた。


「ウサギの方は否定しないんだ」

「前も言ってたし、否定しても無駄でしょ」

「まあね」


 彼女は何を思ったのか、繋いでいない手の方で私の頭を撫でた。


「どうしたの?」

「撫でさせてくれるかな、って」

「……そう」


 相変わらず、彼女は突拍子もない行動をとる。だが、今更それに焦ることもない。


「歩きづらいから、やめない?」

「やめない」


 髪の毛が乱れるから、あまり頭を撫でないでほしい。そう思ったが、彼女がどうにも楽しそうにしているので、それ以上何も言わないことにした。


「卯月は、これまでどんな感じで生きてきたの?」


 不意に、彼女は手を止めて言った。唐突な問いである。私は少し困った。どんな感じ、と言われても、どう答えればいいのかわからない。


「どんな感じって?」

「んー……小さい頃の思い出とか」

「思い出って思い出はないけど……」


 小さい頃のことは、あまり思い出さないようにしている。思い出しても、いいことがないからだ。


「遊び回ってたかな。男の子に混じってサッカーしたりとか」

「そういうタイプだったんだ。……似合うかも」

「今はしないよ」

「そう? 機会があったらしそう」

「そう見られてるんだ、私。……春原さんはどんな子供だったの?」


 彼女は少し考え込むような顔をしてから、どこか遠い目をして笑った。


「んー、文学少女?」

「それ、前も言ってた」

「だって、事実だからね。友達と遊ぶとかはなくて、ずっと本読んでたから」


 彼女は平然とそう言った。今の彼女のイメージとはかけ離れているが、違和感はない。今だって、彼女は別に他者を受け入れて、心から友達だと思っているわけではないのだろう。そうでなければ、人を害虫にたとえるはずがないのだから。


 根本的に彼女は、人が嫌いなのだろう。確かに、常識を共有できない他者を同じ人種として扱うことは難しい。


 それでも一緒にいたいと思ってしまう私は、彼女の言う通り人が好き、なのだろうか。単に諦めが悪いというか、無駄な足掻きをしているだけ。私はそう考えてしまう。だが、彼女に見えている私はそうではないのだ。

 どちらが正しいのか。自分を忘れている私には、判然としなかった。


「話し相手はお父さんくらい? お父さんは、私の全てだったから」


 平坦な声で、彼女はそう言った。全てだった、ということは、今は違うのだろうか。


 私はそこで、彼女が自殺する人の気持ちを知りたがっていた理由に心当たりがついた。だが、それ以上何も考えないようにした。


「そうなんだ。春原さんがそう言うってことは、いいお父さんだったんだね」

「うん。本当に。私の世界には、人間はお父さんしかいなかったから」


 彼女が人間扱いしているということは、父親は星の夢を知覚できたのかもしれない。


 彼女が私に執着しているのも、もしかすると父親が関係しているのだろうか。


「……私たち、結構真逆をいってるよね」


 彼女は不意に、そう呟いた。それは、私が常々考えていることだった。


「確かにね」

「てことは、相性抜群ってことだね」


 私の考えとは真逆だ。それもまた、彼女らしいと言える。


「どうして?」

「人間関係ってのは、意外と凸凹コンビの方がうまくいくものなんだよ。少女漫画でも定番だし」

「少女漫画って……」

「あ、今馬鹿にしたでしょ。卯月も読んでみたら考え変わるよ、きっと」


 話題が次々に変わっていく。父親のことをこれ以上語りたくないのか、単に彼女が移り気なだけなのか。わからないまま、私は笑った。


「じゃあ、今度おすすめ教えてよ」

「ん、いいよ」


 私たちはそのまま、いつものように四方山話をしながら歩いた。私たちの関係は少しずつ変わっていっているが、会話が劇的に変化することはない。


 いつまでこうして彼女と二人で過ごすのだろう。

 彼女の笑顔の理由を知ってもなお一緒にいるせいで、別れるタイミングを見失ってしまった。だが、多分、ずっと一緒にはいられない。私の胸には、そんな確信めいた予感があった。

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