第5話


 奇妙な関係が始まってから、彼女とは毎日話をしていた。放課後も基本的にいつも一緒にいるため、今日は珍しい日と言える。


 今日、彼女は用事があるらしく、私より先に教室を出て行った。珍しいと思ったが、むしろクラスの中心にいる彼女に用事がない今までの方がおかしかったのだ。私はおよそ二ヶ月ぶりに、春原皐月とではなく紬たちと下校した。


 二ヶ月という時間は存外に長いらしく、私は彼女と出会う前に放課後何をしていたのか、あまりよく思い出せなくなっていた。


 しかし、紬たちと遊んでいると、徐々に感覚を思い出して、何となく楽しむことができた。


 紬と桜と遊んだ後、私は地元の駅で降り、帰路につこうとした。しかし、私の足は駅を出てすぐに止まることとなった。


 顔がある。

 巨大な顔が、地面を突き破っていた。ワニのような顔で、呼吸することもなくただ大口を開けている。目は閉じているが、鋭い目で見つめられているかのような強烈な威圧感があった。


 道行く人々はこのワニの怪物を見ても何も言わないし、一瞥するだけで何事もなかったように去っていく。登校するときには見なかったから、学校に行っている間に常識がまた変わったらしい。


 私は空を見上げた。まだ、日は完全に沈んでいない。

 自分でも馬鹿馬鹿しいと思いながら、私はワニの口の中に侵入していた。

 存外に舌は硬く、口内はひんやりとした空気だった。生き物ではないのかもしれない。


 私はそのままスマホのライトをつけて、明かり一つない喉の奥に向かって歩き出した。


 春原皐月は星の夢を面白いと言った。私には彼女の気持ちはわからなかった。星の夢の生み出した幻想に身を委ねれば、彼女の気持ちがわかるようになるかもしれない。そんな淡くくだらない思いで、私は足を動かしている。


 コツコツと、ローファーと地面がぶつかり合う音が響く。

 淡々としたその音は、まるで催眠術のように頭を揺らす。冷たい空気が肌にまとわりつくような感じがして、私は思わず身震いした。


 人間であれば、起きた時には忘れているであろうふわふわした夢。それが星の夢だ。だが、何かが間違って、私はそんな夢を忘れることすら許されない体質を持って生まれてきた。


 前世で何をしたらこんな罰を受けるのだろう。

 そう思いながら、私は止まった。

 目の前に、いるはずのない人物が座っていた。


「誰かと思ったら、卯月だ」


 春原皐月。用事があると言って先に帰ったはずの彼女が、そこにいた。

 どこまで続いているのかわからないほど巨大で暗い穴の近くに腰をかけて、いつものように微笑んでいる。


「春原さん、どうしてここに?」

「噂、聞いたから。今度は今日聞きたての、新鮮なやつ」


 漆黒の闇に閉ざされたこの空間に、彼女は明かりを持たずに座っている。私は彼女の隣にスマホを置いて、さらにその隣に座った。


「この駅近くに、でかい生き物がいるって」

「……それで、ここに来たんだ」

「うん、気になっちゃって」

「そっか」


 私は穴を見た。ライトで照らしても、なお底が見えない深い穴。飛び込んだらどうなるのかは、想像に難くない。


「卯月は何でここに来たの?」


 私は目を瞑った。


「何で……だろうね」


 青い瞳の気配を感じる。目を開けると、私の顔を覗き込んでいる彼女と視線がぶつかった。


「影響されたのかも」

「私に?」

「どうだろうね」


 彼女の影響以外あり得ないはずなのに、私ははっきりとした答えを返さなかった。彼女はそれでも、楽しそうに笑っている。


「春原さん、今楽しい?」


 私は彼女の目を見つめながら言った。澄んだ瞳が、僅かに曇る。


「あんまり」

「春原さんでも、楽しめないことってあるんだ」

「あるよ。私のこと何だと思ってるの?」


 彼女はむっとした様子で言う。やはり、彼女の態度はわざとらしい。本当の感情など、一切見せていないのではないかと思ってしまうほどに。


「さあ。何だと思ってるんだろ。私、春原さんのことよく知らないから」

「私は卯月のこと、結構知ってるのに」


 頼りないスマホのライトが私たちを照らす。光の届かない場所の暗闇が、一層深まったように見えた。


「臆病で、怖がりで、寂しがり。意外に表情豊かで、甘い物を食べてる時は子供みたいで……」


 彼女の語る私は、私の知る私ではない。彼女に見せている私は、彼女が見ている私は、一体どんな私なのだろう。本当の自分を表に出さなくなってからの方が長いため、私はもはや、自分がよくわからなかった。


「何より、ヒトが好き。それが私の知る卯月だよ」


 彼女は寂しそうな、愛おしむような笑みを浮かべる。私は目を瞬かせた。


「春原さんは、人が嫌いなの?」


 気付けば私はそう聞き返していた。今の彼女の言葉は、そういう響きを持っていた。


「ヒトなんて、害虫と同じだよ。ひとかけらも理解できないし、私から大切なものを奪っていく」


 それは、ひどく侮蔑的な言葉だった。春原皐月の言葉とは思えず、私は目を丸くした。


「むしろ、どうして卯月がヒトを好いているのか、私にはわからない」

「……私、そんなに人好きじゃないと思うけど」

「否定されるのが怖いのは、他のヒトと一緒がいいのは、好きだからだよ。興味がないなら、嫌いなら、否定されようと差異が生まれようとどうでもいいはずだから」


 闇の底から聞こえてくるような声である。脳が揺さぶられるような心地がした。


「ずっと卯月のこと見てきたから、知ってる。卯月がどれだけ寂しそうな顔でヒトを見てきたかとか。どんな思いでヒトと関わってきたのか、とか」


 ずっとという言葉に、やや引っ掛かりを覚える。彼女と過ごした二ヶ月間で、私はそんなに多くの面を見せてきただろうか。私もこの二ヶ月間彼女のことをよく目で追ってきたが、はっきり「知ってる」と言えるほど彼女のことを知っているわけではない。

 観察力の違いなのか、私が分かり易すぎるのか、それとも。


「ねえ、どうして? ヒトと呼ばれてるものは、所詮私たちとは違う生き物なんだよ。常識も気持ちも共有できない、埒外の存在。いわば、私たちにとっては化け物みたいなもの。なのに……」


 暗い青の瞳が近付く。気付けば彼女の手が、私のタイを掴んでいた。頼りない彼女の手は、じわじわと締め上げるように力を強めていく。さほど息苦しくはないはずなのに、息ができなくなるような心地がした。


「ちょっと待って。いきなりどうしたの、春原さん。今日、なんかおかしいよ」


 かろうじて呟いた言葉が、彼女の力を弱める。近付いた彼女を突き離すことは、私にはできそうになかった。


「ごめん。こういうところに、二人でいるからかな。なんか、変な気持ちになっちゃった」

「……いいけど」


 謝りながらも、彼女はタイから手を離そうとしない。私は彼女の手に自分の手を重ねて、濁った青の瞳を見つめた。


「でも、本当にそれだけ? 何か、嫌なことでもあったの? ……一人でこんなとこまで来てるのも、変だし」

「それ、卯月が言う? 卯月だって一人で来たのに」


 彼女は少しだけ笑った。その笑みを見て、私は彼女が浮かべていた無邪気な笑みの理由を理解してしまった。


 いかに彼女が人から好かれるような人物でも、星の夢を知覚できる以上少なからず否定はされてきたはずだ。だが、彼女は最初から他者のことなんて好きじゃなかったから、否定されようと傷つくことがなかったのだろう。


 そして、そもそも他者のことを人として認識していないから、無邪気に笑うことができるのだ。


 最近私に無邪気な笑みをあまり見せなくなったのは、彼女の中の私が、人間として分類されるようになったためなのかもしれない。それを素直に喜べないのは、彼女があまりにも苦しそうだからなのだろう。


「そうだけどね。……誘ってくれれば、一緒に来たよ」

「そういうこと、言うんだ」

「言うよ。だって……」


 あれ、と思う。確かに、こんなことを言うなんて柄ではない。私は自分を殺して普通になったはずだ。だから、予期せず飛び出した自分の言葉に、自分で驚いていた。


 思っていた以上に、私は春原皐月に好意を抱いているのかもしれない。私とは真逆で、何を考えているのかわからなくて、時折意味不明なことを言い出したりする彼女。私はそんな彼女に、自分でも忘れていた「自分」を見せているのだろうか。


 私が抱いている気持ちは、愛ではない。かといって友情と呼ぶには何かが違う気がするし、よくわからなかった。だが、純粋な好意と呼ぶには穢れているように思えた。


「だって、私たちの間には愛が育まれてるんでしょ?」


 彼女は目を丸くしてから、吹き出した。溢れ出したかのようなその笑みは、いつもとは比べ物にならないほど幼くて、脆い印象を受ける。私はひどく心許ない気持ちになり、彼女から手を離した。


「あはは、そうだね、うん。私たちの間に愛が芽生えているなら……隠し事はなしだよね」


 彼女の白い指がタイから離れて、私の指に触れる。さらりとした感触が、くすぐったいような、痛いような気がした。


「噂が気になって来たのはほんと。……私が見たかったのは、この穴だよ」


 そう言って、彼女は立ち上がった。つられて立ち上がり、私は穴を覗き見る。


「どこまで続いているかわからない深い穴。落ちた人は地底まで真っ逆さまって、友達は言ってた」


 彼女は穴の縁ギリギリまで歩く。私は彼女が足を滑らせたりしないか心配になり、少し強く彼女の手を握った。


「だから、ここに来ればわかると思った。……自殺する人の気持ち」

「……え?」


 思わぬ言葉に、私は首を傾げた。


「ずっと、知りたいと思ってきたから」


 彼女は小さな声で呟いて、微かに笑った。その様子は、今までに見たことないほどしおらしい。私は何を言えばいいのかわからなかった。


 私たちの間に、沈黙が訪れる。なぜ彼女が自殺する人の気持ちなんて知りたがるのか、私にはわからない。ただ一つわかるのは、彼女が本気でそれを知りたがっているということだ。彼女の青い瞳には、真剣な光が宿っている。


 ここから飛び降りてしまってもおかしくないほどに。


「……ねえ」


 彼女はいつもと同じ、わざとらしく明るい表情で私を見た。いつもクラスの中心にいる、春原皐月の表情。私はなぜか、それを直視したくないと思った。


「もし、ここで一緒に死のうって言ったらどうする?」


 馬鹿馬鹿しい仮定の話だ。そう一蹴するには、彼女の声は本気すぎる。表情とは裏腹に、彼女は至って真面目に問うているようだった。

 私はふっと笑った。


「いいよ」


 今度は、彼女の手に力が入る。少し汗をかいた彼女の手は、冷たいようで温かい。彼女のこんな様子は珍しいと思う。


「本気で、ここで死にたいと思っているなら」


 問う声は本気だった。だが、ここで死のうとはしていないように見える。私はいつ死んでもいいなんて思いながら生きている人間の顔をよく知っている。彼女の顔は、それとは違う。まだ生きなければならないと考えている人間の顔だ。


「卯月は……それ、本気で言ってるの?」


 震える声で、彼女は言った。私は目を細めて笑い、彼女の手から逃れた。


 くるりと回って穴に背を向け、私はじりじりと後退していく。踵が浮いた。だが、焦りはない。心臓が早鐘を打つこともない。

 私は生きながらにして、すでに死んでいるのかもしれない、と思う。


「な、何してんの!」

「本気だって見せようと思って」


 私は彼女の手を引いて、自分の胸に導いた。


「私は別に、いつ死んでもいいと思ってるから。ほら、その証拠」


 心臓はいつもと同じように鼓動を刻んでいる。少しバランスを崩せば、落ちて死ぬ状況にあっても。


「いつも通りでしょ?」

「……私、いつもの卯月の鼓動を知らないんだけど」

「そっか。今度教えてあげるよ」


 狼狽える彼女を見るのは初めてだ。いつもは私が振り回されてばかりだから、少し新鮮な気分である。


「もうわかったから、危ないことはやめて!」


 彼女は泣きそうな声で懇願した。さすがにもうやめておいた方がいいと思い、私は彼女の方に戻った。

 その瞬間、彼女から痛いほどきつく抱きしめられる。


「春原さん?」

「ごめん、変なこと聞いて」

「別にいいよ。私も変なことしてごめん」

「うん。……前に私が屋上から飛び降りた時、卯月もこんな気持ちだったんだね」


 彼女の声がひどく近くから聞こえる。私はみじろぎしながら、彼女の肩に頭を置いた。青い瞳が見えないだけで、少し安心する、ような気がする。


「多分、少し違うと思うよ」


 私はあの時、彼女も自分も、別に死んでもいいと思っていた。本気で死ぬ気があって、死んでも後悔しないと言えるのなら、いつ死のうと構わないと思う。だが、あの時彼女は死ぬのを恐れていた。だから心配になったし、呆れもした。


 しかし、彼女が死を恐れていると知る前。彼女が屋上から飛び降りた瞬間に、その手を掴んだ理由は、自分でもよくわかっていない。


 私は彼女の気持ちがどうあれ、死んでほしくないと心のどこかでは思っているのだろうか。自分の気持ちなんて、はっきりしなくてぼんやりしているものだ。それに振り回されては、心が疲れていくばかりである。


「……私は、卯月に死んでほしくない」


 私も同じと本気で言えたらよかったのだろうか。私は無言で、彼女に抱きしめられる痛みを感じた。


「大丈夫だよ。しばらくは、死ぬつもりないから」


 普通の生活を続けられている限り、死ぬつもりはない。だが、自分を捻じ曲げて普通という水準に合わせてしまった私は、いつか必ず普通ではなくなる。今の生活を、いつまでも続けられるはずがないのだ。どこかで歪みが出るのだから。


「どうして、いつ死んでもいいなんて……」


 彼女は当惑したように言った。私は彼女の背中を撫でながら、柔らかな声になるよう心がけて言葉を紡いだ。


「私はもう終わってるから」


 彼女の体がこわばる。


「私の夢は普通に生きること。星の夢は続いてるけど、私は頑張って普通を目指して、去年やっと自分のことを普通と思えるようになった」


 その言葉は、意外なまでにするりと口から飛び出した。人には理解されない考えで、話しても仕方のないこと。そうわかっているはずなのに話してしまう。それは、彼女に近づきすぎたためなのかもしれない。


 ずっと「普通」に憧れてきた。

 自分の普通が否定され、何を言っても周りから奇異の目で見られ、思うままに生きられなくなってから、ずっと。私にとっての普通は、思うままに生きられることだった。だが、そんなの無理だと悟ったから、周りの普通に合わせるようにしたのだ。


 普通の定義も曖昧になって、何を目指していたのかもわからなくなってしまったようにも思えるけれど、それでも今の私は自分のことを「普通」だと思えている。だから、これでいいのだ。


 間違いだらけの人生の中で、初めて正解に辿り着いた。そのはずなのだ。


「夢が叶ったんだから、もうそれでいい。それ以上は何も望まないし、何もいらない。今ここで終わっても、別に構わない。私はそういう生き物だから」


 私にとって、普通になることが全てだった。それが叶った以上、私の人生はもう終わったも同然だ。


「普通と思えるうちは、生きるつもりだよ」


 だが、彼女がもし、これから先も私に生きてほしいと願っているのなら、この関係は解消した方がいいのかもしれない。私はそう遠くない未来に、恐らく自ら命を絶つ。


「卯月は……怖くないんだ、死ぬの」


 前に、死ぬのが怖いと嘘をついた記憶がある。ここまで話してしまえば、あれは嘘だとわかるかもしれない。それでも、今言うべきなのは、きっと嘘だ。


「怖くない、わけじゃないよ。ただ、普通の生活が終わることの方が怖いだけ」


 こんなことを言っても、彼女が安心するわけではないとわかってはいる。私は彼女の背中をさすった。


 彼女は存外に、普通の人間なのかもしれない。人でなしだと思っていたわけではないが、私の行動にここまで取り乱すとは思っていなかった。

 いや、あるいは、何かトラウマのようなものがあるのかもしれない。


「卯月……」


 縋るような声。彼女は私に何を求めているのだろう。私はぼんやりとそう思いながら、彼女の背中を軽く叩いた。


「帰ろう、春原さん。春原さんはこんなところにいるべきじゃないよ」


 彼女はしばらく私を抱きしめていたが、やがてすっと体を離した。再び見えた青い瞳は、ひどく不安そうに揺れていた。


 動き出す気配がなかったので、私は彼女の手を引いて歩き出した。ちょうど、いつもとは逆の形になる。彼女の手を引いて前を歩く感覚は、存外に悪くない。


 私はちらと彼女の表情を窺った。彼女は迷うように視線を右往左往させていたが、やがて私に視線を集中させた。


「……きっと、卯月も同じだよ」


 私は何も返さなかった。

 彼女は私のことをどう思っているのだろう。

 愛がどうのとよく言葉にするが、彼女の心の内にある感情は、愛なのか。私は少し、彼女とどう接すればいいのか悩んだ。

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