第4話

 あれから一ヶ月が経ち、六月になった。梅雨という概念は未だ健在らしく、最近は雨が続いている。


 雨はあまり好きではないから、星の夢によって梅雨が消えたりしないだろうか、と思う。


 だけど、夢は思い通りにはならないものだ。魚が空を飛ばなくなったり、犬や猫が人の言葉を喋るようになったりはしているが、雨は私の常識通りにしとしと降り続けている。


「卯月」


 声が聞こえる。私は窓から目線を外して、正面の席に座る春原皐月に目を向けた。


「ぼーっとしてるね。五月病?」


 軽い調子で、彼女は問う。

 あれから何かが変わったかというと、何も変わっていないような気もするし、決定的な何かが変わったような気もする。


 だが、少なくとも私は彼女と出会う前のままだ。変わったものがあるとしたら、それは彼女の態度だろう。


 屋上の一件以来、彼女は時折歪な笑みを浮かべるようになった。そして、私と話している時の態度が少しわざとらしくなくなった、ような気がする。


 変わったと断言できるほど、私は彼女のことをよく知らない。前からこうだったのかもしれないし、もしかすると劇的に変化しているのかもしれない。


 ただ、彼女に関する情報は多少増えた。好きな食べ物、好きな飲み物、よく行く場所、好きな映画。そんな不必要とも言える情報は、この一ヶ月の間に私の頭にインプットされていた。


「六月病かな」

「何それ」

「雨の音を聞くと憂鬱になる病気」

「雨、嫌いなんだ」

「うん。濡れるし、太陽は隠れてるし、傘のせいで動きづらいし」


 私はティーカップを持ち上げながら言った。

 今日は彼女おすすめのフルーツサンドが美味しい店に来ていた。


 色々な店を知っているであろう彼女がおすすめするだけあって、お茶もフルーツサンドも美味しい。しかし、季節が季節だからか、あまりテンションが上がらなかった。


「私は結構好きかな。雨の音を聞きながら読書してると落ち着くし」

「……読書、好きなの?」

「まあね」


 つくづく私たちは噛み合わない。私は晴れている時に外で体を動かす方が好きだ。彼女とは正反対である。


「私、結構文学少女だし」

「それ、自分で言うんだ」

「言ってもいいくらいには本読んでるから」

「そう」


 私は紅茶を一口飲んで、カップを置いた。


「卯月は本、読まないの?」

「現文の教科書は読むよ」

「それ、普通の本は読まないってことでしょ」

「そうかも」


 窓の外に目を向ける。濡れるとやる気を失う私と違って、ずぶ濡れになった紫陽花は生き生きと咲き誇っている。この時期の紫陽花は綺麗だけれど、やはり梅雨は好きじゃない。


 雨音に包まれていると、自分がひどく孤独な存在に思える。

 実際その通りではあるのだが、孤独を感じると胸が苦しくなるのだ。純粋に濡れるのが嫌いなのもあるが、孤独を感じるというのも雨が嫌いな理由の一つである。


「卯月って、結構アウトドア派?」

「うん」

「へえ、意外……でもないのかな」


 窓から視線を戻すと、彼女と目が合った。どこか現実離れした青の瞳は、今日も私をまっすぐに見つめている。


「あの時、咄嗟に手が出てたし」

「手が出たって言うと語弊がある気がする」


 彼女はくすくすと笑う。その笑みは、どこか乾いているように見えた。


「いいじゃん。あの時の卯月の行動のおかげで、相互理解が深まったわけだし」


 かちゃ、とソーサーが音を立てる。彼女はカップを手にして、じっと私を見つめている。


「卯月も私のこと、ちょっとは理解してくれたでしょ?」

「……まあ、ちょっとは」


 愛は相互理解だと、前に彼女は言った。確かに私たちは以前よりも互いに理解を深めている。しかし、だからといって愛が育まれているかといえば、そうではない。


 私たちの間に、未だ愛は存在していない。

 まず間違いなく、このままではクラス替えまでに愛を育むことはできない。来年になったら受験もあるから忙しくなるだろうし、あまり猶予はないのだ。


 そもそも、正反対である私たちの間に愛が育まれることはないはずである。


 だが、一度彼女に付き合うと決めたのだ。離れる理由がない限り、私は今の関係を続けるつもりである。まだ、彼女の無邪気な笑顔の理由も知ることができていないのだから。


「よしよし。順調に愛を育めてるね」


 彼女は頷きながら言った。彼女の頭の中では、私たちの関係はどうなっているのだろう。疑問に思ったが、聞かなくてもいいと思い直した。


「ねえ」


 カップが置かれる音と共に、静かな声が耳を打つ。揺れた赤い水面が、降り注ぐ明かりを反射させてきらりと光った。


「どうして卯月は星の夢が嫌いなの?」


 彼女はいつも唐突に、こういう質問をする。私はどう答えたものかと考えながら、カップの縁を指でなぞった。


「心を縛られるから」


 しばらく考え込んだ後、私は言った。


「縛られる?」


 彼女は不思議そうに首を傾げる。


「星の夢がある限り、私が見ているものは他の人が見ているものと違ってしまう。何を言おうとしても、何をしようとしても、他人とずれてしまう気がして、何もできなくなる」


 きっと、彼女に言っても理解されないだろう。私と同じ状況下で無邪気に笑える彼女は、私とはあまりにも異なっている。それなのにこんなことを吐露してしまうのは、同じ人種である彼女に縋ろうとする気が少しはあるためなのかも知れない。


「自分の知ってる常識を否定されるのは怖い。変な目で見られるのは嫌。星の夢がある限り、私は普通じゃいられない。だから嫌いなの」


 私の言葉を正しく聞いてくれるのは、彼女だけだ。理解されなくても、普通の人間と違い、私の言葉の意味をわかってくれるのならそれでいいのだろう。


 彼女以外の人間に同じ話をしても、何を言っているのかと笑われるだけなのだ。


「……卯月は」


 彼女は目を細めた。信用ならない青の瞳が、鈍く光っている。


「そんなに普通が好き?」


 私は小さく頷いた。


「どうして?」

「普通でいれば、否定されないし、苦しくないから」

「怖いんだ。否定されるのが」

「うん。春原さんはそうじゃないの?」

「私は、否定されてもいいよ。だって、どうせ……」


 彼女は一瞬、ひどく暗い顔をした。しかし、すぐに彼女は笑みを浮かべてみせた。その笑みは、やはりどこか歪に見える。彼女の笑みが変化した理由を、私は知らない。


「そろそろ出ようか。雨、これからもっと強くなるらしいし」


 彼女は静かに言う。私は何も言わず席を立った。


「卯月のこと、聞けてよかった」


 そう言って、彼女は伝票を手にして立ち上がった。

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