第3話


「涼しいね、ここは」


 彼女は風に揺れる髪を押さえて言った。

 デパートの屋上。本来は封鎖されているはずの空間に、私たちは足を運んでいた。何かデパートに関する常識も変わっているのだろう。屋上に設置されたフェンスは容易に飛び越えられるほどの高さであり、安全に配慮されている様子がない。


 私は少しだけ、足元が揺らいでいるような気がした。

 常識が日毎に変化するということは、世界が不安定になっているということである。明日になったら「嫌いな人は殺してもいい」という常識が世界に蔓延するかもしれない。そう考えると、今ある日常がひどく脆くて儚いもののように感じられる。


 しかし、私にとってはどうでもいいことでもある。

 一度でも自分のことを普通の人間だと思えるようになった時点で、人生の目的を達したといえる。だから、いつ死んでも別にいいのだ。


 再び普通でなくなってしまうまでは生きるつもりではあるが、別段生に執着しているわけではない。私が執着しているのは普通というものだけだ。


「卯月、高いところは平気?」


 そう言いながら、彼女はフェンスを跨いで屋上の端に立った。何をするつもりなのかはわからなかったが、私は彼女の前まで歩いた。


「苦手ではないよ」

「そっか」


 彼女はフェンスに置いていた手を離すと、左腕につけてある腕時計を一瞥した。


「それで、春原さん。どうしてこんなところに来たの?」


 彼女は腕時計から目を離して、私を見た。相変わらずの無邪気な笑みを浮かべながら。


「もっと卯月の色んな顔を見たいと思って」


 彼女は当然のように言う。

 彼女から向けられる感情に戸惑う、ということはない。きっと、同種の人間を見るのが初めてだから、興味深いと考えているのだろう。だからこうも押しが強いのだ。


 だが、同じ人種だからといって、必ずしも仲良くなれるわけではないし、分かり合えるわけでもない。同じものが見えるという共通点を除いてしまえば、私たちは真逆の人間である。


 しかし、彼女が私のことを知りたいと思うのと同じで、私も彼女のことを少なからず知りたいと考えている。


 彼女の笑みの理由を知るまでは、この奇妙な関係を続けてもいい。

 そう思うのだ。


「卯月」


 名前を呼ばれる。彼女の声はその瞳と同じで、妙に澄んでいる。風に運ばれてくる涼しげな声に耳朶をくすぐられると、奇妙な心地になる。


「卯月は星の夢についてどう思う?」

「どうって……」


 私から普通を奪った忌まわしいもの。一言で表すなら、星の夢はそういうものだ。


「……好きにはなれない、かな」


 絞り出すように呟く。私の言葉に何を思ったのか、彼女は目を細めた。


「そっか。……私は好きだよ、星の夢」


 彼女は静かに断言した。同じ人種でも、やはり考え方は合わないものらしい。私は小さく息を吐いた。


「だって、面白いじゃん。他のヒトは認識できない、感じられない不思議な現象が色々あって退屈しない。いつも新鮮な出来事がたくさん起きる」


 楽しげなその言葉に、私は何も返せないでいた。ただ、そういう考えもあるのだな、とは思う。


 他者の常識の変化さえなければ、私も彼女と同じように星の夢を楽しめていたのかもしれない。


 しかし、信じてきた常識が変化し、自分が何者なのかもわからなくなるのがこの現象だ。それを前にしても無邪気に笑える彼女は、私の目には宇宙人のように異質なものに見えた。


 それでも、私は普通に彼女を見ている振りをする。奇異の目で見られる辛さは、私が一番よく知っているのだから。


「……でも、春原さんは星の夢を終わらせようとしているんだよね?」

「まあ、ね」


 彼女は下に目を向けた。十六階にある屋上から見る町は、ひどく小さく見える。人も、人が生み出してきたものも、全て。


「どうして? そんなに好きなら、終わらせなければいいのに」


 普通の人間ならば、人類のために星を夢から覚めさせようとするのだろう。だが、私にはどうしても、彼女が人類のために動くような普通の人間には見えなかった。


「放置してたら人類が滅亡するかもしれないし。それに……終わらせないと見えない景色が、きっとあるから」


 彼女らしくない、小さな声だった。


「だからこそ、今はこの夢を楽しみたい」


 そう言って、彼女は腕時計に目を落とした。


「ほら。星の夢が終わったら、こんなこともできなくなるだろうから」


 目を疑った。

 彼女は何でもないような様子で、屋上から飛び降りた。


 馬鹿な、と思う。しかし、私は咄嗟に、落ちていく彼女の腕を掴んだ。

 そして、重力に引っ張られるままに、宙に放り出される。


 臓腑が持ち上がるような感じがした。落ちていく中で、彼女と視線が交差する。彼女は目を丸くしていた。私が手を掴むとは思っていなかったのだろう。


 咄嗟のことだったから、手を伸ばした理由は自分でもわからなかった。ただ、いつ死んでもいいと考えているから、何も考えずに手が出たのかもしれない。


 私は何をしているのだろう、と思う。

 しかし、不思議と心は凪いでいた。


「来るよ」


 強い風の中で、彼女の声がした。

 次の瞬間、ふわりと体が浮かび上がった。


 宇宙に行ったことはないからわからないが、無重力空間というのはこういうものなのだろう。先ほどまで地面に向かって落ちていたのが嘘であるかのように、私たちは空に浮かんでいた。


「午後五時半、このデパートの周りの空間が狂って、空を飛べるようになる」


 彼女は私の手を引いて言った。強風に流されていた彼女の黒い髪が、ふわりと舞う。


「友達から聞いたんだ」


 そう言いながら、彼女は目を細めた。その顔は、いつもとは比べ物にならないほど強張っているように見える。彼女の顔に浮かんでいるのは、恐らく死への恐怖だ。私は呆れればいいのか、怒ればいいのかわからなくなった。


「いつ聞いたの?」

「昨日」

「……馬鹿」


 私は彼女の前髪を引っ張った。彼女は目を瞬かせて、不思議そうに私を見つめた。


「もしかしたら、今日はもう常識が変わってるかもしれないでしょ。そうでなくても、その情報が正しいかどうかなんてわからないのに……」

「……ふふ」


 一転して、彼女は楽しげに笑った。その笑みは、いつもの無邪気な笑みとは少し違うように見える。私は眉を顰めた。


「卯月も怒るんだ」


 そう言われて、私は息を吐いた。


「怒ってるわけじゃ、ないよ」


 前髪から手を離して、今度は頬に手を添える。彼女の頬は、やはり少し硬い。


「怖いなら、こんなことしない方がいいって思っただけ。……かちかちになってるじゃん」


 私は彼女の頬を軽く引っ張った。

 思いがけない状況になったせいで、私は少しおかしくなっているのかもしれない。こんなこと、いつもならば絶対にしていない。


「心配してくれてるの?」

「当たり前でしょ」


 死ぬのが怖いのに、不確かな情報に自分の命を委ねるようなことをしているのを見れば、心配にもなるというものである。私のようにいつ死んでもいいなどと思っているならともかく、彼女はそうではない様子なのだから。


「そういう顔、初めて見た」


 彼女は微笑んで、私の両腕を掴む。私は目を瞬かせた。そういう顔とは、どういう顔なのか。


「もしかして私、謀られた?」

「ううん、そういう意図はないよ。だって、卯月までついてくるのは予想外だったし。ちょっと驚かそうとは思ってたけど、それだけ」

「はぁ。何それ」


 彼女はくすくすと笑っている。何がそんなに面白いのだろう、と思う。私は少し呆れた。


「……ね、なんで一緒に飛び降りたの?」


 まっすぐ私を見つめながら、彼女は問うた。


「わからない。咄嗟に体が動いただけだから」


 彼女は目を丸くしてから、堪えきれないといった様子で笑った。


「卯月って、そういうタイプだったんだ」


 風がふわりと吹いて、私たちは再び屋上に戻った。ふと、心臓が早鐘を打っていることに気づく。彼女に振り回されたためだろう。私は小さく息を吐いた。


「死ぬの、怖くないの?」


 私の手を握りながら、彼女は問う。その手には汗が滲んでいた。


「怖いよ」


 嘘だ。いつ死んでもいいなどと考えている人間が、死を恐怖する訳が無い。現に、彼女の腕を掴んで宙に放り出されても、一切恐怖を覚えることはなかったのだから。


「春原さんだってそうでしょ? なのに、私を脅かすために危険を冒すなんて……」

「まあまあ。いいじゃん、生きてたんだし」


 いいと言う割には、彼女の手は震えている。

 本当に、私を驚かせるためだけに屋上から身を放り出したのだろうか。ここまで死を恐れている人間が、そんなに単純な理由だけで無謀な行為をするとは思えなかった。


 やはり、春原皐月はよくわからない。


「そうだね、よかった」


 春原皐月は目を丸くした。私の言葉に、何か変なところでもあったのだろうか。私は首を傾げた。


「今日は、卯月のいろんな顔が見れるね」


 そう言われて、私は自分の頬に触れた。自分が今、どのような顔をしているのかはわからない。だが、多分、安堵の表情を浮かべているのだろう。


「卯月って意外と表情豊かな方なんだね」

「そうかな」


 私はぱっと彼女から手を離した。用事も済んだようだし、そろそろ帰るべきだろう。ここにいると、また彼女が突拍子もない行動をとりそうだ。


「とりあえず、今日はもう帰ろうよ。もうすることもないし」

「じゃ、買い物してから帰ろ」


 彼女はそう言って私の手を掴み、そのままずんずんと扉の方に向かっていく。


 その横顔には、いつもの無邪気な笑みは浮かんでいなかった。代わりに彼女の顔に浮かんでいたのは、今までとは比べ物にならないほど歪な笑みだった。


 私は少し、心がざわざわするのを感じた。

 彼女の表情の理由が知りたい、と思う。だが、それを直接聞けるほど、私と彼女の心の距離は近くない。だから私は、黙って彼女に手を引かれた。

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