第2話
ずっと「普通」に憧れてきた。
何を言っているのか、と他の人には馬鹿にされるかもしれない。しかし、小さい頃から逸脱を感じてきた私は、普通の生活に憧れていたのだ。
自分の常識が訳のわからないものとして否定されず、奇異の目で見られず、ただ仲の良い友達や家族と笑い合えるような。そんな普通の生活に恋焦がれていた。
だから私は自分を捨てることにした。
他者の常識に自分を合わせ、決して余計なことを言わないようにして、人々に溶け込もうとしたのである。
その結果、高校生になってようやく、私は自分のことを普通の人間と思えるようになった。
「卯月、卵焼きちょうだい」
「ん、いいよ」
私は桜に弁当箱を差し出した。
「卯月のおかずっていつも綺麗だよね。自分で作ってるんだっけ?」
紬が言う。
「うん。今日の卵焼きは特に自信作」
「へー。……確かにうまい」
桜と紬は一年生の頃からの友人だ。比較的付き合いやすいため、二年生になっても一緒のクラスになれたのは幸運だったと言える。
「それよりさ、聞いてよ。今日ロッカーの調子がめっちゃ悪くてさ」
桜はハンバーグを半分私の弁当に差し出した。彼女はいつも、気まぐれに弁当のおかずを一品こうして交換してくるのだ。
交換するおかずは無作為に選ばれているらしい。時々彼女が苦手なプチトマトが運ばれてくることもあるが、今日は大判振る舞いだ。
「もうロッカー中ベッタベタだし変な臭いだしで最悪だったわ」
「あー、あるある。私も前そんな感じだったし」
「卯月はどうだった?」
「ん……っと、普通だったよ」
「いいなー。明日には良くなってるといいけど」
今日になって突然、ロッカーに関する常識が変わった。
ロッカーは生き物であり、その時々によって体調が変化する。それが現在の世界の常識である。
朝から生温かいロッカーと接したせいで、私は少しげんなりしていた。皆当然のようにロッカーを使っているため、使わないという選択肢はなかったのだ。
「五限ってなんだっけ、数学?」
「数学だよ」
「あー……隣のクラスから教科書借りてこないと」
不意に、別のグループの会話が耳に入ってくる。そちらを一瞥すると、春原皐月と視線がぶつかった。彼女は一瞬微笑むように目を細めてから、友人に視線を移した。
「あれ、皐月って全教科ロッカーに置いてるんじゃなかったっけ」
「そうだけど……ロッカー使いたくないし」
彼女は当然のようにそう言った。
「ロッカーの調子悪いん?」
「そういうわけじゃないけどね」
春原皐月はいつでも堂々としている。周りから奇異の目で見られることを恐れていないのか、彼女は世界の常識が変わっても、あまり周りと話を合わせようとはしていない。
それでも彼女がクラスメイトから慕われているのは、ひとえに人徳のためなのかもしれない。
真似しようとは思えないが、自由に生きているらしい彼女を見ていると、少し羨ましくもある。
「おーい、何見てんの」
桜が私の目線を切るように手を上下させる。私は一度目を瞑ってから、桜の方に視線を向けた。
「春原さんと何かあったの?」
紬が声をひそめる。私は首を振った。
「何もないよ。ただぼーっとしてただけ」
いつも嘘をついているから、私は事実でない言葉も平然と発することができる。紬は納得したのかしていないのか、不思議そうな顔で私を見つめているものの、それ以上追及してくることはなかった。
「そうだ。今日帰りどっか寄らない?」
「あ、ごめん。今日は用事あるから行けない」
私はいつもと変わらない口調で言った。桜は少し残念そうな顔をして、紬を見た。
「紬は?」
「私は行けるよ」
「やった。やっぱ紬は天使だわ」
「ちょっと、私は?」
「卯月は最近付き合い悪いし。何、彼氏?」
桜はそう言って箸を咥えた。
「違うよ。バイト始めたから忙しいだけ」
「え、マジ? 遊びに行っていい?」
「駄目」
「ケチだなぁ。ほんとにバイトやってんの? 店教えてよ店」
「今度ね」
「うわー怪しい。やっぱ男ですよ紬さん」
私と春原皐月の関係は誰にも言えない。言ったら最後、私は自分のことを普通の人間とは思えなくなってしまう。
それに、何と説明すればいいのかもわからない。
私は一つため息をついて、ハンバーグを口にした。
「ねえ、卯月」
学校から二駅離れた町を歩きながら、春原皐月は私の方を向いた。
「昼、何かあった?」
私は一瞬返答に窮したが、すぐに微笑んで言った。
「何もないよ。春原さんは今日も元気だなって思って」
「本当に? 熱い視線を感じたけど」
彼女はくすりと笑った。
「熱いかどうかはわからないけど……すごいよね、春原さんは」
「何が?」
小さく首を傾げる彼女は、やはりどこかわざとらしくて、現実味を感じさせない。
「堂々としてるところが」
夕方の町はいつも忙しないのに、彼女だけがゆったりとしている。何となく、綿毛みたいだと思う。彼女はきっと、どれだけの強風に曝されてもお構いなしに、自分らしくふわふわ漂い続けるのだろう。
「卯月はさ」
彼女はぴたりと足を止めた。青い瞳が、いつもと同じように私を射抜く。
「うさぎみたいだよね」
「……は?」
今、私は多分間抜けな顔をしている。だって、このタイミングでこんなことを言われるとは思っていなかったのだ。
「警戒心が強くて、いつも何かに怯えてる。もっと堂々としたってバチは当たらないと思うけど」
軽い口調である。普通であることを最も重要視している私は、彼女のようには生きられない。
私は日常の空気に溶け込むような存在でありたいのだ。
ずっと今のままでいられるわけがないというのは、わかっているけれど。
「そうする必要がないから」
私はぽつりと言った。
「本当に?」
澄んだ瞳が私を映している。私は小さく頷いた。
「本当に。それが私だから」
「ふーん……」
彼女は目を細めた。何を考えているのか、推察することはできそうになかった。
「じゃあ卯月。今日のデートはちょっと変わったところに行こうか」
何がじゃあ、なのだろう。
疑問に思ったが、私は何も言わなかった。彼女に連れ回されるのにも慣れてきている。
きっと、今日もどこか、よくわからないところに連れていかれるのだろう。ロッカーの博覧会とか、だろうか。私はそう思いながら、一歩先を歩き始めた彼女の背中を追った。
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