正反対で、同じな私たち

犬甘あんず(ぽめぞーん)

第1話

 私とは住む世界が違う。そんな人は世界中にいくらでもいる。

 例えば芸能人。もし人生が十回あったとしても、私はああいう華やかな人間にはなれないと思う。


 他にもスポーツ選手だとか、漫画家だとか、そういう人たちには絶対なれないし、彼らは私とは住む世界が違うと思っている。


 だけど、住む世界が違う人というのは、何も手の届かないところばかりにいるわけではない。

 同じ高校の同じクラスで、隣の席。そんな身近なところにも、住む世界が違う人はいる。


 所属するグループが違えば、見えないバリアに阻まれているかのように関わりがなくなるものだ。

 そう、私と彼女のように。


「卯月卯月、見てよ。ペンギンが飛んでる」


 彼女――春原皐月はにこにこと笑いながら水槽を指差した。

 ペンギンが空を飛んでいるように見える水槽、ではない。

 普通の四角い水槽の中で、ペンギンがバタバタと飛んでいる。まるで公園の鳩のように。


「うん、そうだね」


 私は生返事をした。彼女はそれが不服なのか、わざとらしく眉を顰めてみせる。


「……反応薄い。面白くないの? ペンギンが飛んでるんだよ?」


 ペンギンは空を飛べない。それは私にとって――いや、私と彼女にとっては常識だ。だが、他の人にとっては常識じゃない。


 現に、空飛ぶペンギンを見て珍しそうな顔をしている人など、彼女以外には一人もいないのだから。


「可愛いとは思うけど」

「ペンギンは空飛ばなくても可愛いじゃん」

「それはそうだけど。でも、必死にヒレを動かして飛んでるところはもっと可愛い」

「一理ある」


 春原皐月はクラスメイトだ。でも、彼女が所属しているグループはクラスの中心にいて、私の所属しているグループはどちらかと言えば目立たない位置にいる。


 だから私たちは住む世界が違って、深く関わることなく一年を終える。

 そのはずだった。


「うーん……卯月、好きな魚、いる? 見に行こうよ」

「春原さんの好きなのでいいよ」

「そうじゃなくて……卯月の好きなの見に行こって言ってるの」


 私たちは本来、こうして二人きりで水族館に遊びに来るような仲ではなかった。だけど縁とは不思議なもので、私たちは縁に結ばれるまま、こうしてありえないはずの行為をしている。


「愛は相互理解だよ、卯月。私はペンギンが好き。卯月は?」

「……クラゲかな。可愛いし」

「そ? じゃ、行こう」


 彼女は無邪気に笑って言った。

 彼女の青い瞳が、淡い光に照らされて鈍く輝いている。私は足が硬直するのを感じたが、彼女に強引に手を引かれるままに歩き出した。



「クラゲ、綺麗だったね」


 水族館から出た後、彼女はうっとりとした様子で言った。すっかり暗くなった春の空が、私たちを無感動に見下ろしている。私は少し視線を下げた。


「うん。……今日は楽しかった」


 機械的に飛び出した私の言葉に、彼女はにこりと笑い返した。


「私も。明日には魚が空飛ばなくなってるかもしれないし、貴重な経験したねー」


 魚やペンギンが空を飛ぶ。それが常識になったのはつい数週間前のことだ。それまでは、魚は水の中を泳ぐもので、空など飛ばないというのが常識だった。


 世界の常識はころころと姿を変える。

 昨日まで首が長い動物だったキリンが首の短い動物になったり、犬が二足歩行の動物になったり。


 私と春原皐月以外は、世界の常識が変化していることに気づかない。

 魚はずっと昔から空を飛んでいたし、キリンは首の短い動物である。私たち以外の人間は、口を揃えてそう言うのだ。


 狂っているのが世界なのか私たちなのかはわからない。ただ、私たちが常識から外れてしまった人間だということは確かなのである。


「ねえ、春原さん。あの時言ったことって、本当?」

「あの時って……ああ、パンケーキが空を飛ぶ夢を見たって話?」


 そんなくだらない話をわざわざ蒸し返す訳が無い。彼女もそれはわかっているはずなのに、さも当然のようにいつかの夢の話をする。


 掴みどころがないというか、ふざけているというか。

 これまで関わりがなかった彼女を表す言葉を、私は未だ見つけられないでいる。


「……手紙で呼び出してきた時の話」

「なるほど」


 彼女はぽんと手を叩いてみせた。

 乾いた音が、ひどく虚しく耳に響いた。


「本当だよ。……私たちがこの星に愛を示せば、この狂った世界も元通りになる」


 愛が世界を救う。

 そんな世迷言を彼女から聞かされたのは、つい先月のことだった。

 彼女曰く世界の常識が頻繁に変わるのは星が夢を見ているから、とのことだ。そして、愛という強い感情を星にぶつければ、星は夢から覚め、常識が変化することもなくなる……らしい。


 私は未だに彼女の話を完全には信じていない。しかし、私が星の夢を知覚できることを見抜いて声をかけてきたのは確かなのだ。だから彼女の話を嘘と一蹴することはできない。


 それに、私が彼女に付き合っているのは、別に星を夢から覚めさせるためではないのだ。


「退屈だったりつまんなかったりすると眠くなるのは人も星も一緒。でも、面白い映画を見てて眠くなることはないでしょ。だから、星に私たちの愛をぶつけるんだよ」


 彼女は無邪気に笑って言った。

 ――私が彼女に付き合っている理由は、この笑みにある。


 彼女も私と同じで普通から外れて生きてきた。ならば、他者から否定され、理解できないものを見る目を向けられたことが何度もあるはずだ。


 なのに、どうしてこんなにも無邪気に笑えるのか。仮面のように張り付いた笑みしか浮かべられない私との違いはどこにあるのか。


 それがずっと気になっている。その笑みの理由を知りたいから、私は彼女と一緒にいるのだ。


 もし彼女の言うことが本当で、星が夢から覚めて世界が元通りになっても、過去に否定され続けてきたという事実が消えるわけではない。だから、星の夢なんて本当はどうでもいいのだ。

 ただ、彼女の無邪気な笑みが気になっている。それだけである。


「まだ信じてない? 私と愛を育むことに同意してくれたのは嘘だったの?」


 彼女は悲しげに言ってから、くすくすと笑ってみせた。


「ま、今はそれでもいいんだけどさ。重要なのは理解を深めて愛を育てることだから」


 彼女の本音がどこにあるのかはわからない。純粋に星の夢を終わらせたい、だけではないはずなのだ。


 愛を星にぶつけるだけでいいのなら、私と彼女が愛を育む必要などない。

 知り合いのカップルにでも声をかけて、存分にいちゃついてもらえばいいだけなのだから。


 それなのに私を巻き込んで星の夢を終わらせようとするところに、秘密が隠されているような気がする。

 そもそも愛を星にぶつけるというのは、具体的にどのような行為なのだろう。


「だからもっと話そうよ。……そうだ。好きな食べ物とか聞いていい? 今度一緒に食べに行こうよ」


 街灯に照らされた黒い髪に、天使の輪が浮かぶ。黒い髪に不釣り合いな青い瞳は、私を興味深そうに映している。


 彼女の瞳を見ていると、なんだかふわふわした心地になる。

 目の前に立っている春原皐月という人間が、実在する人間なのかが疑わしく思えてしまうのだ。


 彼女の瞳が黒かったら、また違ったのだろうか。それも私には、よくわからない。


「……フルーツサンド。クリーム多めのやつ」


 本当に互いのことを理解したいのであれば、もっと心の深い部分を曝け出す必要がある。だが、きっと誰にも理解されないから、大切なことは全部心の奥底にしまっておくのである。


「そっか。私は甘いもの全般好き。フルーツサンドが美味しい店知ってるからさ、来週にでも行こっか」

「……うん」


 私たちの共通点は、星の夢を知覚できるという点だけだ。だから一緒にいても、大して会話が盛り上がるわけではない。


 家が離れているため、私たちは途中まで電車で一緒に帰り、別れた。

 奇妙な縁によって私たちは結び付けられた。それでも、心の距離は以前と変わっていない。


 私たちは結局住む世界が違うから、愛が育まれることはないのだろう。

 きっと、星の夢は覚めない。

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