第10話 酔っ払う
「先輩、ありがとうございました。もう、後は大丈夫です」
「おお!そうか、じゃあ、俺も帰ってシャワーでも浴びて時間までのんびりするわ、夜、わかってんな」
「はい」
「哲っさんと
「はい」
「じゃあ、あとでな」
「本当にありがとうございました」
手を上げて部屋を出て行く一輝の背中を見送るとフローリングの床に座り込んだ。
「疲れましたね」
昨夜から今の今まで怒涛のように時が過ぎた。これがたった1日の出来事とは思えない程大変な1日だった。けれど、まだ今日が終わったわけではない。今夜は急遽、時貞主催の飲み会になった。
時貞が昼食時に『よっ子の引越し祝いをするぞ、今夜は飲み会だ』と言った。すると『うーす』と全員が返事する。無論、誰も反論する者などいない。当たり前のこんこんちきである。よっ子はこの3ヶ月間で色んなこと学んだ。
右を向け!と言われたら、右を向く、
左を向け!と言われたら左を向く、
次郎丸時貞の言葉には全て「はい!」と応える。当たり前のこんこんちきである。
よっ子は
大介の説明を聞いて署名した筈がその時多少の勘違いをしたようで、その道を極めるが如く、極道としての道を歩き出したのである。
部屋では段ボールの蓋に貼っていたガムテープを全部、片っ端から剥がした。何から片付ければ良いのか途方に暮れる。
今夜から使うものを出しておこう。よっ子はとりあえず布団袋から布団を取り出してリビングに置いた。
「寝室どこにしようかな」
部屋が狭いのなら考える必要もないのだけれど、玄関、7畳の洋間、トイレ、洗面室と浴室、キッチン、12畳のリビングダイニング、5畳の洋間、2LDK、バルコニー、今まで住んでいたアパートに比べれば広すぎる。
「ここの家賃いくらなんだろう」
大介が5日前に言った『給料天引き、お前ならやれる』どう見ても新築で相当高いと思う。
「なんだかお金持ちになった気分。お金持ちって、こんなところにずっと住んでいられるんでしょ」
よっ子は思わず、今朝まで住んでいたあの古いアパート、和室2間、小さな台所、トイレとお風呂、押入れひとつだけの部屋と比べてしまった。
贅沢過ぎるほど広くて美しい部屋、
「生きてきてよかった」
片付けどころではない、感動し過ぎて身体が動かない、脳内思考停止中だ。
「パジャマはどこだっけ?昨日の夜着ていたのは、紙袋の中だ。とりあえず今夜はこれ着て、歯磨きセット、洗面所に置いてこよ」
なんとなく手にした物を使う場所に置いていくのだが、中々身体が動いてくれない、
「贅沢したらダメかもしれないけど、天蓋の付いたお姫様ベットに寝てみたいな」
部屋が広くなると夢はどんどん広がっていく、そのうち、ソファだの食卓テーブルだのお洒落な飾り棚だのと色んな物を揃えたくなる。
「あっ!カーテン先につけなきゃ」
カーテンを入れた段ボール箱を探して引っ張りだし取り付けてみた。アパートで使っていたカーテンは短かった。
「……」
カーテンを眺めているとまた手が止まる。しばらくよっ子はカーテンを見たままぼーっと立ち尽くす。その短い丈にため息をついた。不釣り合いの部屋は身の丈に合っていない。まるで今の自分のようだ。
「おい!よっ子」
「うわっ!」
よっ子は思わずカーテンに隠れた。
「びっくりした。もう!驚かせないでください。哲也さん、ひどい!心臓バクバクしてるあぁ」
よっ子は胸を押さえてしゃがみ込んだ。
今まで、黒スーツを着ている哲也しか知らない。いまの哲也はジーンズに白シャツの上に黒のテーラードジャケットを着ている。いつもと違う哲也の爽やかさに見惚れてしまった。
「大丈夫か?」
よっ子の傍らに腰を下ろして優しく頭を撫でる。ドキッ!よっ子の心臓はまたもバクバク激しくなる。
「いくら管理人がいるとしても、カギは閉めとかないとな」
「あっ!はい、そうでした。先輩が帰ったあと閉めに行ってませんでした。すみません。以後気をつけます」
哲也は立ち上がると、部屋を見渡してよっ子の背後のカーテンを見た。
「明日、休みもらって、片付けてしまったらどうだ。このままじゃあ、どうにもならないだろ」
「いえ、少しずつ片付けるので大丈夫です。なんだか広すぎて、どう使えばいいのかわからなくて、ちなみに哲也さん、ここの家賃いくらですか?」
「舎弟頭が言ってだろ、大丈夫だって」
「舎弟頭は大丈夫って言いますけど、どう見ても大丈夫じゃないと思うんですよ。一番大事なのは食費ですし、光熱費が落ちないと困りますから」
「まあな、まあ、とりあえず行こう」
「丈治さんは」
「下で待ってるから」
よっ子はトートバッグを手に持って、哲也と玄関から出るとよっ子は鍵を閉める。
「ちゃんと閉めたか?」
「はい、閉めました」
バッグの中に仕舞った先から仕舞った鍵を確認する。よっ子は哲也をみて微笑むと哲也も優しく微笑む、よっ子は哲也の背中を見ながら『彼女の気分てこんな感じ』などと思いながら人中をぐーんと伸ばす。二人は共にエレベーターで降りて丈治の待つ車の助手席に哲也、よっ子は後部座席に乗り込んだ。
「すみません。お願いします」
「よっ子、いちいち言わなくていい」
丈治が低音の声で呟く、
「はい、車で行って帰りはどうされるんですか?」
「まず俺らは会社まで車で行って、そこから店まで歩く、店は北町の裏通り、帰りはタクシーだ」
哲也が説明してくれた。
「裏通りって言ったら絢音の近くですか?」
「よっ子、絢音さんの店知ってるのか」
「はい、行きつけの店ですよ」
「そうなのか、裏通りの店なんかよく知ってるんだな」
「高校生の時バイトさせてもらってたんです」
「そうなのか?よっ子はバイトして家計助けてたのか?」
「はい、一応」
「俺らも、たまに絢音さんの店行ってだけど、よっ子いたか?丈さん見たことある?」
「ないですね」
そうこう話しているうちに会社に着いて地下駐車場に車を停めると3人は一緒に地上へ出て歩き出した。2人の後ろをよっ子は懸命に着いて行く。歩幅の広い2人について行くのは大変だ。少しずつ間隔が開いて距離が広がる。2人同時に振り向いた。
「よっ子、なにしてる」
「お二人とも歩くの早くて」
哲也と丈治は顔を見合わせて苦笑いをして、よっ子を見やった。
「よっ子、足短えな」
無口な丈治に言われるとなんだか傷つく、
一輝がいうと気にもならない一言が、丈治だとハンマーで殴られたみたいだ。2人はよっ子挟んで歩き始める。
北町商店街に入り丹下薬店の横を入ると裏通りとつながり絢音の前を通り過ぎて三軒目に朱色のドアのスナック雨やどりがある。
今夜の集合場所である。ドアを開けると中はカウンター席があって奥のボックス席は既に組員達が来ていた。
「すみません、組長、遅くなってしまいました」
と哲也が一礼すると、
「よっ子の足が短くて」
と丈治が言った。よっ子は丈治を見上げる。
「おめえは足も短けんだな」
一輝がわざとらしく言うと、
「本当だ短けぇ〜」
と、泰が楽しそうによっ子に駆け寄って脚の長さを確認する「もう!」とよっ子は泰を突き飛ばした。
哲也と丈治は真ん中のボックス席に座った。
よっ子はカウンターの上にトートバッグを置いて大介の横に少しだけお尻を乗せた。
雨やどりはキャバクラと違ってキャバ嬢よりも少し年配のホステスがもてなしてくれる店だ。女の子たちはドレスを着ていて、みんなキラキラしている。よっ子はキャバクラよりもこっちの雰囲気が居心地良くて好きである。
このお店では組員全員が女性目的ではなく、お酒を飲む事を楽しんでいるようで、よっ子はこういう男たちが意外と好きである。
人のことをちっぱいだとか、どっちが前だとかぺちゃんこだとか、色々いうけれど、それがこの頃、腹がたたないのである。
時貞の隣にはママが座って挨拶をした。お酒を乾杯するまでママは一通りの会話をして笑顔を見せる。その後はホステスに任せてよっ子とカウンターに移った。
「烏龍茶でいいの?」
「はい」
「お酒飲めないんだったっけ」
「飲めない訳じゃないんです。前に失敗してしまって、それから飲むの控えてるんです」
「若いんだから、そんな事気にする事ないんじゃない。失敗したっていいんじゃない」
「記憶が飛んでしまうんです」
「まあ、どれだけ飲んで?」
「生ビール二杯かな?」
「コップ、それとも」
「ジョッキです」
「あら、まあ」
「社長!こっちでもビール空けていいかしら?」
時貞は右手を挙げた。
「だけど、女の子があの事務所に入れるなんて驚きよね」
ママはグラスを2個を出してよっ子と自分の前に置いた。よっ子のグラスにビールを注ぎ自分のグラスにも注ぎ瓶を横に置いて、
「よっ子ちゃん、乾杯」
「乾杯です」
2人はカチンとグラスを合わせた。
「行きがかりじょうだと思います」
「そんな事ないんじゃない」と言いながらお皿に乾物を盛ってよっ子の前に置いた。
「ママって、社長と古いんですか?」
「そうね、なんて言ったらいいかしらね」
ママの目は優しく愛おしいそうに時貞を眺める。
「ねえ、よっ子ちゃん、あの人見てどう思う」
「あの人?社長ですか」
そう言われても、よっ子は時貞の事を目を細めたり広げたりいろんな角度から見ようとしているのだが、どう言えば失礼がないか考えてると、ママは細い綺麗な指先に細いタバコを挟んでライターで火をつけた。紅いマニュキュアが色っぽい、よっ子は自分の切り揃えた爪の先を見やった『全然違う』
「昔、ずっと昔の話、惚れてたの。あの人に」
よっ子はいきなりの告白に目を見開いた。
「ずっと好きだったの。住む世界が違うけど、それでもあの人のためになにかしてあげたくて、そばにいたくてたまらなくて、どうすれば彼に振り向いてもらえるかすごく考えた。若いとなんでもやれるって思ってしまうものでしょ。命懸けで何かしてあげたいって、初めて思わしてくれた人なの、追っかけても、追っかけても、どれだけ追っかけても、振り向いてくれなかったけどね。もう半狂乱、付き合ってくれなきゃ、私、死ぬから!ってナイフの先を自分に突きつけて、泣いたのね。あそこにいる金さんに『いい加減にしねえか』って怒鳴られたけど、振り向いて貰えないなら死んでやる。死ぬ方がマシよ!ってね」
よっ子はママの顔を真剣に見つめていた。
「今でも、好きなんですか」
「好きよ、だからずっと一人できたわ」
「だけど、社長には奥さんが」
「そうなのよね。奥さんがいるのよね。こんなに好きなのに、あの人は他の人のもの」
ママの眼差しがよっ子の胸を熱くした。ママの思い出の事なのに心が切なくなってよっ子は目尻を拭った。ママも目頭をハンカチで抑えた。
「ある日、彼は彼女を連れてきたの」
「ここにですか?」
「そうよ」
「それで!」
よっ子は大人の女がどんな修羅場を繰り広げたのか想像すらできない。
「それで、どうされたんですか」
「えっ、やだわ、私ったらお客さんの話を聞かないで自分の話ばっかりして、ごめんなさい」
よっ子はこんな中途半端に話を終わらされるとかえって気になって眠むれないと思い、
「もしよかったら話してください。聞かせてください」と無理して微笑んだ。
「どうして、こんな事話したくなったのかしら、よっ子ちゃんてそういうタイプなの?」
「わたしって話しやすいって言われます。相談役はまだまだ世間知らずで無知なので、役不足ですけど、なんでも聞きます」
「そう?今の奥さんがここへ来て、こう言ったの『この人のこと好きなら本気で好きなら奪ってもいいわよ。だけど、私も譲らないから』ってすごい自信を持ってる感じだった。私も負けず嫌いだし、彼の事、愛してたから、自意識過剰な女ね!って言ってやったの、『自意識過剰なんかじゃない!自信なんて無いわ!私は貴女よりもずっと前からこの人のこと知ってるし、貴女よりもずっと前からこの人の事好きだった。五歳からずっとこの人見てきたんだから!』って」
「五歳?」
「そう、五歳からだって」
「彼女、弁護士でしょ。彼の為に弁護士になったのよ。彼の身の回りに起きる事、解決してあげる為なんだって、私なんて、こんな店しか持てないホステスだけど、奥さんは弁護士になってあの人を守ってる。足元にも及ばない」
よっ子はボックス席の時貞に目を向けた。誰からも一目置かれるような極道の組長にも五歳の時があった。その5歳から繋がってる幼心の絆はどんなものなのだろう。
興味をそそられる。一輝、曰く、今でも仲睦まじく組員の前でも平気でイチャイチャしてると聞く、よっ子は自分の5歳の時と重ね合わせた。
トートバッグの中のあの2つに引き裂かれてしまった4つ葉のクローバー、片割れを持つ藤井涼平は5歳の時に既にそばにいてくれた。
だけどよっ子と涼平は時貞のように繋がることはできなかった。
よっ子はグラスのビールを飲み干した。
手酌でもう一杯飲み干すと、瓶ビールがいつのまにか、空になっている。
「ママ、もう一本ください」
酒豪、よっ子のお出ましである。
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