第8話 よっ子本採用となりました
極獄組総本部事務所の片隅で腕立て伏せをしている
事務所横の畳間の控室では、なにもする事のない男たちが花札をしたり、チュッパチャプスを咥えてエロ本やマンガ本を読んだり、壁にもたれてスマホゲームをしたり、自由にくつろいでいる。仕事をしているよっ子はむしろ滑稽な感じである。よっ子は時々思うことがある。この人達にこの豪華な事務所は勿体ない。と、
「おい!よっ子」
社長室から大介の呼ぶ声がした。
「すみません。今集計中なんです」
大介に届く声量を調整して叫ぶ。普通に声を出しているつもりでも『うるさい!』と怒られる。大介の耳は狂犬らしく鋭敏な聴覚をしているようだ。
「哲さん、代わってやってくれ」
ローテーブルに文庫本を置きソファから立ち上がる姿勢も崩さない、よっ子の椅子の背もたれを引っ張ってよっ子を立たせると自分が椅子に座り札束を数え始める。
「失礼します」
よっ子はきちんと一礼して社長室に入る。
「まあ、そこに座れ」
「はい」
「よっ子、お前、間もなく三ヶ月になるな。どうするか、決めたか?」
「なにをですか?」
「なにを?って転職だ」
「転職ってなんですか、そんな事なにも考えてません。えっ?しないといけませんか?社長!転職を進めてますか」
よっ子の横に座る大介は「声でかいんだよ」とボソッと呟くと静かに立ち上がって事務所の方へ出て行った。よっ子は首をすくめ、社長を見やる。
「私の声、そんなに大きいですか?」
「さあな、普通だと思うぞ。あいつの耳は聞こえ過ぎなんだろうな。よっ子、おめえさんはなにかやりてえ事はねえのか」
「やりたい事」
「成績よかったんだろう。もっと勉強してえなぁとか」
「別に」
「夢はねえのか」
「夢……。夢ですか?夢は母が幸せになればいいかなぐらいで、今とても幸せそうなので満足です」
「そうか、おめえさんの夢を訊いてるんだがな。どうなんだ?」
「私ですか?うーん」
よっ子はしばらく考えた。夢と言われても、大学に行けてたらよかったと思う時はたまにあるけれど今更、勉強して受験しようとは思わない。いろいろ思いを巡らしていると大介が珈琲を淹れて持ってきた。
「あっ!大介さん言ってくれれば、私が淹れましたのに」
「おまえは親父と話してんだろうが」
「そうですけど、すみません」
と自分のスヌーピー柄のカップの取っ手を持ってテーブルに置いた。
「おまえ、まえに転職、考えてただろうが」
「大介さん、それはここに来た時の話です。だってあの時、なにがあったか覚えてますか」
「なにがあった?わしは覚えてねえけどな」
「俺もです」
よっ子が初めてこの事務所に出勤して来たあの日、事件は起きた。
※※※
よっ子は緊張して前夜はほとんど眠れぬまま朝を迎えた。出勤時、自転車に乗ると手が震え前タイヤが左右に揺れる。
「もう!真っ直ぐ走ってよ!」
自転車に文句をつける。アパートの建つ住宅街を抜けて北町商店街の手前を右に曲がって南町に向かって自転車で6分走ると南町銀河通りの歩道に突き当たる。
左に折れて直ぐに、大きな清水南交差点を渡って商店街から一筋向こうのオフィス街へと入ると一棟目に清水商事の大きな電光看板が目に入る。
「はぁぁ」緊張がピークに達して全身が震えている「大きなビルね」震えを止めたくても自分では止める事ができない。
入り口には清水商会本社ビルという表札を確認した。ビルの中に入るとエレベーター横に案内板が掲示してある。本部事務所八階の階数を確認した。ここまで来てまだ躊躇っている。自分の右人差しに命令する。
「押しなさい!」
エレベーターのドアが開いた。
「いざ!出陣」と乗り込む『ドアが閉まります』と声をかけてきた「待って、開けてください」と言ってみたけど、扉は無言で閉まった。すると急にお腹がぐるぐると鳴り始める。お腹を撫でて『ドアが開きます』の言葉と同時に気合を入れてエレベーターを降りた。
「うわっ!なにこれ?」
夢心地の空間、感嘆の息が漏れる。固唾を飲みこんだ。目の前には和モダンな風景が広がる。
「たまげた。たまげたってなに、どんな意味だったっけ」
頭の中が
ずっと先まで続くアプローチは平石が置かれ周りに小石が敷き詰められている。
壁の凹みに備前焼、信楽焼、有田焼、伊万里焼、多種の焼き物が飾られている。
天井には和提灯がぶら下がり仄かな明かりを照らしている。足元にはフロアー和モダン照明が置かれていて和紙を通して溢れる灯りが暖かな雰囲気を醸し出す。その世界観に吸い込まれて行くような感覚になり胸がいっぱいになった。
「あーすごい、ここビルの中だよね」
よっ子は歩いてきた廊下を振りかえって見た。
「橘さん」
と男の声に振り返ると哲也の姿がそこにあった。
「おはようございます」
「おはよう、こちらへどうぞ」
石畳を一枚一枚踏み締めて歩いた。事務所の入り口は格子作りの引き戸だ。緊張がピークになった。
同時に視界と心を惑わす圧倒的な迫力とその魅力に自分の脳内がざわついている。そしてときめきを覚えた。
事務所の引き戸を開けると、視界に飛び込んできたのは明らかに高級な物ばかりで息のしない物達が私を見てと主張している様だ。
「おはようございます」
若衆達に挨拶をする。
「おーっす」
建具の配置もひとつひとつがお洒落でセンスがいい。その高級な品々の物の間を通り抜けて案内された社長室は、またも見たこともないような、品々でよっ子は度肝を抜かれた。
高級感あふれる社長机、椅子の素材は本牛革仕立て、ソファもローテブルも飾物も掛け軸も全てが高級品である。
「まあ座れ」と時貞に言われ、生まれてからこの方、座ったことのない高級なソファにお尻をゆっくりつけようとしたその時、事務所で方で大きな声がした。
「おい!おめえ誰や!」
「おいおい、そんな物持って危ねえだろ」
「なに?」
よっ子はぽかんとと立ち尽くしていると素早く手を引いたのは哲也だった。そして時貞の座るソファの背後に押された。
事務所にいた屈強な男たちがじわじわと社長室に後ずさってくる。その背中の合間から木刀らしきものがちらりと見えた。
若衆たちの中に腰がひけてる者は一人もいない。あの小柄な森口泰でさえ堂々としている。
誰も声を張り上げたりせず、その男の動向を黙視している。社長は微動たりせずただ泰然と座し、その左隣には大介も悠然とその男を見ているだけだ。
時貞の右隣にはシャツの袖を折り曲げ見える腕はよっ子の腕より三倍ほどの筋肉の丈治が立っている。
「おめえよう。木刀なんか持って押し入ってよ。こういうのカチコミって言うんだけどよ
知ってんのか?」
一輝が投げかける言葉も別段怒っている様子も伺えない。
「ご苦労様だな」
時貞が言うと一輝は直ぐに身を避けた。
「堅気さんが、そんな物騒なもん持っちゃあいけねえな」
「あんたが……悪いんだ!」
押し入った
全身が小刻みに震えている。木刀の先までブルブルと揺れている。男はよっ子と目が合った。
「どうして!あんたみたいな女の子がここにいるんだ!すぐに逃げるんだ!この子もうちの娘と同じように薬漬けにしてあんな、あんな風俗なんかで働かせる気なのか!」
と、泣きながら震える声で叫んだ。
『薬漬け、風俗、なにそれ』よっ子はみんなの顔を見回した。『この人達は、私を薬漬けにして風俗で働かせる気なの、嘘……』
よっ子はリクルートバッグを胸に抱きしめ社長室を見渡すと書類棚の横にドアがある事に気づいた。『あそこから逃げれるかな』
タイミングを測り逃げ出そうと考えていると、
「動くな」
と、大介が冷静に言った。
「よっ子、じっとしてろ」
『どこに目がついてるの?どうしてわかったんだろう。私が逃げようとしていること、ただ思っただけなのに』
よっ子は大介のつむじを見つめた。
『もしかして、第3の目はつむじ』
男は泣きながら木刀の先を
「あんたを殺して!俺も死ぬ。娘をあんな風にして、ただで済むと思うな!」
木刀を頭上に振り翳したとき、よっ子は持っていたリクルートバッグを男に向かって思いっきり投げつけた。バッグは男の顔面にまともに直撃してそのまま木刀は床にぽろりと落ちて男も床に倒れてしまった。
「やだー。当たっちゃった!その人!その人……生きてますか!」
ぶつけたよっ子が一番焦る。
「どうして、皆さん社長様を助けないんですか!あれ、あのままだと社長様の顔面に当たってたでしょ!」
「声でけえつうの!」
よっ子の前のソファに座る大介は左耳の中に指を突っ込んだ。みなも同じように首を傾げながら耳をほじっている。
「だって、そんなこと言ったって」
「おめえさんも酷いことするもんだな。この客人、気を失ってるぞ」
時貞は
「組長、どうしますか、このおっさん」
「誤解を解かなきゃ帰せでねえだろうよ。目を覚ますまで、手だけ縛って畳の間に寝かせてやっといてくれ」
二人の若衆が両方から腕を持って引きずって社長室を出て行った。
「鼻血出てましたね。よっ子、ひでぇことする女」
泰が首を振りながら社長室を出て行くとみんなよっ子を指差してにやけ顔で出て行った。
「哲也、このお嬢さんに珈琲入れてやってくれ」
「はい、社長」
「よっ子、お前ここに座れ」
よっ子はリクルートバッグを拾って高級なソファにどかっと座った。
※※※
「そういやあ、そんなこともあったな」
社長は笑った。普段笑ったりしない大介もにやりと笑う。
「あの時、あの人が言った事、娘を薬漬けにして風俗に入れたみたいな。あの時は、まさか私もそうなるのって思ったんですよ。全然誤解でしたけどね」
「そうだったな。あの客人を大人しくさせて話を聞ける状態にもっていったのは、よっ子お前だったな。よっ子はこのまま、ここにいるんだな」
「はい!居たいです。ここで働かせてください」
事務所の方では泰が畳間の皆に声をかけ社長室のドアの前に集まって会話を聞いている。
「なにか困った事はねえか」
「困ったこと、困ってることは別にないんですけど、社長、私、アパートを借りたいんです」
「アパート?ああ、おめえさんの母親は男と暮らすから、今住んでるアパートを退去するって話しか」
「えっ?どうして、その事知ってられるんですか、私、誰にも話してない……のに」
「よっ子、この街のことで、親父の知らねえ事はねえんだよ」
と、大介が言った。
「どう言う事?」
「アパートか、女ひとりで暮らすなら、オートロックは必要だな」
「大丈夫です。社長、オートロックのマンションは家賃高いので給料から払えるくらいのアパートじゃないと」
「いつ引越しするつもりだ」
「9月24日です」
「はあ?」
時貞はカレンダーに目を向けて、
「おめえ、まさか今月のか?」
「はい」
「すぐじゃあねえか」
「お前さあ、どれだけ暢気なんだ。ちゃんとアパート探してたのか?」
大介はカレンダーを見やった。
「一応、休みの時ここの系列の不動産屋さんには行ってました」
「で、もう契約してきたのか?」
「まだです。すぐに借りれるかと思って」
「ああ、そうか不動産屋に勤務してたから融通がきくこと知ってたんだな」
「はあ、一応」
「だけどよ。後、四日でどうするんだ?」
時貞は顎を摘んで頭を傾げた。
「四日じゃあ無理……ですか?一応引越しセンターは予約してるんですけど、大介さんどうしましょうか」
「どうしましょうって、お前な引越し業者に頼むのって順番が違うだろが、あと四日で、どうするんだ」
時貞も大介も事務所の連中もみな呆れてしまった。
「大介、お前の所には空室はないのか」
「はい、春に入った新入社員2名が住み始めたもんで、満杯です」
「だったら、あそこしかねえのか」
「自分と哲也さんの部屋の間なら空いてますけど」
丈治が入り口に顔を覗かせて言った。
「サイレンスか」
時貞はよっ子顔を見つめる。
「サイレンス?」
「住宅地にあるマンションでな。近隣の民家の住人が特殊な奴らが多くて日中だろうがなんだろうが、音を出して音楽なんか聴けやしねえし、夜、窓を開けて話し声も出せねえが、お前、そこでも大丈夫か?音出し禁止マンション。よっ子の仕事は深夜に帰宅だからなひとりで帰すわけにはいかねえから、大介、そこ手続きしてやってくれ」
「そうですね。サイレンスなら哲さんや丈治と一緒だから安心ですね」
「夜中の帰宅は危険な事この上ねえしな、そこに一輝はいるか」
「はい」
時貞の目の前に膝をついて目線の高さを合わせた。
「お前の相棒の引越し手伝ってやれよ」
「えっ!あっ、はい」
一輝はよっ子に目線を向けると、
「おめえは、まったく計画性のねえ女なんだな」
「えっ、計画的ですよ」
「どこが!」
「その、サイレンスは家賃はいくらですか」
「おめえ人が話してる途中で話し変えんなよ」
一輝はよっ子のあごを掴んだ。大介は優しく微笑みながら、
「心配しなくても大丈夫、天引きだ。三ヶ月経ったから正社員扱い、給料アップ、気にしなくてもお前なら十分やれるよ」
『えっ、兄貴が笑ってる?嘘だろ』大介が社長室を出て行く姿を目で追い続け、ぽかんとしている一輝の横顔を見て、
「どうした。一輝」
時貞が一輝の鼻先を指で弾いた。
「痛っ!」
「おめえどうした?」
「兄貴が笑ってた」
「そうか、笑ってたか」
時貞はにやりと微笑み珈琲を啜った。大介が正式な書類を持ってきて机の上に並べる。
最近は詳細に書類の手続きが行われる。よっ子は大介に説明を受けながら丁寧に署名をおこなった。
これで、本採用の手続きが無事に完了し、正社員となった。引越し先も決まり、一輝が加勢してくれることになって、不安が一気に解消された。
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