月の井戸

@east_h

第1話

 水面に映った月に手を伸ばすのは大馬鹿者のすることだと、どこかの席できいたことがある。その時に自分はなんて愚かなことだろうと鼻で笑い飛ばしたのだ。水面の向こう側はただただ暗く、冷たく、恐ろしい世界だと、知っている。

「俺が何したってんだ……」

 己の足下を見下ろす。泥で汚れた靴の下、くしゃりと潰れた落ち葉の色とも違う花がよそよそ吹く夜風に揺られている。そこだけ切り取れば好意的に取れたのだが、生憎と今はその薄黄色すら憎々しい。歩いてきた道を振り返れば、似たような色の花々がずうっと咲いている。魔女の家に連れて行かれた幼い兄弟の話がふと浮かんで思わず道を戻りかけた足を叱咤して踏みとどまる。いったいどこでどんな呪いの類いでも食らったのか分からないが、普通に歩いているだけで自分の足取りが全て明らかになってしまうのはあまり良い心地はしない。いちいち燃やして進むのは億劫だし、そもそもこの森に入った時点で自分のほかには誰もいないのだから好奇の目で見られることもない。戻ったところでどうにもならないのだから、進むしかないのだ。

 自分の吐く息に水分を取られるのも惜しいのに、疲弊した身体は勝手に口呼吸を選んでしまう。

 とにかく、喉が渇いていた。


 付いてくる花びらを踏みつぶして歩いているうちに、少し開けた場所に出たようだった。遠くのほうから人の話し声が聞こえる。たしかこの森を降りてしばらくいくと街があると地図に記載されていたように思う。民家があれば、一晩の宿にでもできるだろう。

 だんだんとしっかり整備されていく道の先にあったのは、古びた井戸だった。このあたりに誰か住んでいるのだろうか、それにしても随分とぼろぼろだ。干からびているのかと近寄って覗き込むと、手入れされていないわけではないようで、透き通った水が凪いでいた。あと少しで手が届きそうなそれを見て急に喉の渇きがぶり返してくる。どくどく流れる血の音が聞こえて、危ないと頭の隅で分かっているのに伸ばした手は冷たさを求めて下へ下へとおりようとする。

「……あ」

 足が浮いたと気付いたときにはもう遅くて、縁を掴もうとした手は空しく苔を撫でるだけに終わった。ふっと身体が軽くなって、ひっくり返った視界の隅に夜空が見えた。なんて間抜けなんだと、衝撃に備えて目を瞑ってしばらくしても水面にたたきつけられる気配がない。死ぬなら痛くないほうがいい。

「ちょっとあなた! 生きてます!?」

 ばたばたと人が走る音と引っ張り上げられる感覚がして、頭に昇っていた血が勢い良く戻っていくのがわかった。どすん、と二人揃って尻餅をついて、ひとまず落ちなかったのだとようやく察する。助かったのだ。

「喋れますか? 怪我とかしてます?」

 目の前でひらひら振られる手をとっさに掴むと、温かい。男はわかりやすく狼狽してそれを振り払った。

「えっ、どうしましたか。ハッ、わ、私は食べても美味しくないですよ!」

 いや食べねえよ。

「みず……」

「水!? あ、喉が渇いてたんですね。待って、ここで寝ないでください!」

 そんなことを言われたって、安心からか単純に疲労からか降り注いでくる眠気から逃れる術なんて持っていない。ぐらりと視界が回る。地面に頭が落下するのも止められずに、起きてからの痛みを覚悟してそのまま、意識を手放した。


 天井だ。天井ということは屋根のある場所にいるということだ。慣れない感覚に当たりを見回すと、どうやらどこかの寝台の上らしい。

「ああ、起きましたか」

「……起きました」

 何か細い瓶のようなものを持っている男は、それを窓際に置くと近くの椅子に腰掛けた。窓の向こうの様子をうかがおうにも分厚い布がかかっていて伺い知ることはできなかった。彼の服装から考えても、朝ではないことは確かなのだが。そうして観察していると、青々とした木々と同じ色の瞳が太陽に透かして見たときと似た色に変わった。

「寝ないで、って言ったのに」

「す、すみません」

 まあ、仕方が無いですけど、と彼は続けた。いくらかほっとする。ここを追い出されたとしても行くあてがないのだ。またさっきまでと同じように歩き回るしか道がない。

「ありがとうございます、こんなにしていただいて」

「どういたしまして。あの、もし答えたくなかったら答えなくて良いんだけど」

「はい? 俺が知ってることなら」

 気まずそうに彼は俺の足の方を見た。おそらく見ているのは足跡から生まれた植物についてなのだろう。……あれ、今は咲いてない。

「君のその、足なんだけど」

「俺にも何がなんだか。気付いたら勝手にあんな風になってて……。お陰で身動きとるのも一苦労ですよ。すぐ見付かるし」

 見付かる? 俺は何かから逃げてでもいたのだろうか。もやがかかったように曖昧な記憶はそれ以上の情報を出そうとしない。彼は眉を顰めながらも薄く笑った。

「そう……。まあ、あの花があったからあの時間でも私は君のことを見付けられたんだし、少しは良かったのかもね」

「あの時幽霊かと思いました」

 反転した視界に一瞬移った影は逆行で顔も良く見えなくて、この人のほんの気まぐれで突き落とそうと思えばなんの証拠もなく落とせたんだと今さらながらに偶然に感謝した。誰だって厄介事はごめんだろうに。

「幽霊だったら今ごろ君は井戸の底だよ。どうしてあんな所にいたの? 街の人だって滅多に来ない場所なのに」

「……喉が、とても渇いていて」

「喉が。ううん、なるほど」

「なにか?」

 さっきまで手にしていた瓶のほうを気にしながら彼は口を開いた。

「私は一応病気を治したり……、まあ、そういうことを生業にしているのだけど。君のそれも病気かと思ったんだよ。でもどうやら違ったようだ」

「病気、じゃないのは良かったですけど」

「なんて言ったら良いのかな……。君、体温が高いだろ」

 己の額に手をやる。いつもどおりのあたたかさだ。

「はあ、まあ。平均よりは」

「はじめは風邪でも引いているのかと思ったが、ちょっと調べさせてもらったらそういうわけじゃなさそうだし」

 調べたって何、と聞いても良いんだろうか。知らないほうが良いことだろうか。

「自覚なさそうだけど、倒れてから二日ずっと寝てたんだよ」

「ふつか」

「そう。だから流石におかしいと思ってね。色々試してみたんだけど、さっきようやく見当がついた」

 だから試したって何ですか、と聞いても良いんだろうか。

 怖いから聞かないけど。

「で、なんだったんですか? これのお陰で迷惑してるんですけど」

「どうやら君の体温がちょうど良かったみたいでね、植物がそこで育とうとしてるんだよ」

「植物?」

 書棚にある図鑑のようなものを取り出すと彼はあるページを開いてこちらに向けた。見たことのない花だ。俺の足下に咲いていた花とは違う。

「君のところに咲いていた花はもう少し違うと思うのだけど、あれが育つとこの色になるんだよ。月の色から太陽の色に変わるから、って好んで育てている人も結構いるみたい」

「はあ」

 確かに綺麗な花びらを持っているから好む人もいるのだろう。街角で見たこともないのは俺が気にしていないせいだろうか。彼は続けた。

「それで、きっと君はどこかを歩いているうちにこの花の群生地でも通ったんじゃないかな。地面の下に種子を残して冬を越えようとするんだけど、君があったかくて着いてきちゃったみたい」

「着いてきちゃった、って。そんな簡単なものなんですか? そもそも群生地を通った、って通ったとしてもここまで一緒にっていうのは無理でしょう」

 頷いて、彼はページをめくった。そこに描かれているものは、俺を悩ませていたものと同じ花だ。細かく特徴が書き込まれているのは、彼が書き入れたのだろう。右上がりぎみの、読みやすい文字。

「それなんだけど、この花があんまり流通していない原因でもあるんだよね。この花、宿主を決めるとその人の魔力を吸って咲くんだよ」

「……はあ」

 だんだん話がわからなくなってきた。噂に聞いたことはあっても、いざ自分が被害に遭うとかえって現実味はわかないらしい。

「君の体温があたたかいものだから、春と

勘違いしたのかもしれないね。それで、追いかけてきちゃったみたい」

 席を立った彼は小さい器を手に取ってくるとその中身をこちらに見せた。中には細かい種子みたいなものが沢山入っていた。

「これは?」

「君の花から取った種」

「ちょっと語弊のある言い方しないでくれます?」

 ふふ、と笑うと彼の髪が暖炉の光に照らされて揺れた。

「ごめんごめん。それで、さっき君は喉が渇くっていってただろう?」

「ああ、そうですね。……そういえば今は全然渇いた感じしないですが」

「そうそう。花っていうのは水がないと生きていけないだろう? 簡単に言ってしまうと、君のことを栄養タンクみたいにして種子を残してたわけ」

「うわ」

 思わず身を引くと、彼は苦笑した。

「だから君が歩いた場所に毎回花が咲いていたのは、少ない栄養で花を咲かせて種子を残すために成長しきるまえに枯れちゃってたってわけ。君の喉が渇いてたのはそういうこと。もともと魔力が大きいタイプなのかな? こんなになるまで歩いていられたのも信じられないくらいなんだけど。どこで行き倒れてもおかしくなかったんだよ、随分気を張っていたんだね」

 そこまで話し終えると、種子を窓際の瓶の中に落とした。なにかの実験だろうか、色のついた液体のなかにそれは沈んでいく。

 この人がどれだけ正しいことを言っているかはわからないけれど、嘘をつく理由も見当たらない。本当なら俺があの井戸にたどり着けたのも幸運だったのだろう。いったいいつこんなものに目を付けられたのか思い当たる節がまるでないのが少し怖いところだが。

「君、どこか行くところはあるのかい? そのままじゃまた今回と同じようにじり貧になって倒れるのがオチだと思うから、お勧めはできないけれど」

 未だ鈍く回る思考を働かせても、自分がどこに行こうとしていたのかのあてが全くない。何かから逃げようとしていた、という漠然とした焦りに似た感覚が目覚めてからずっと付きまとっている。もしかしたらそれは、あの時井戸に落ちていたら逃げ切れたのかもしれない。焦りだけでなく、あらゆるものからも。

「行く場所は……特に」

「なら、あと少しここにいると良い」

「え、良いんですか?」

 一晩の宿が一晩でなくなるなら、願ったり叶ったりという感じだ。対価になりそうなものをそれほど持っていないのだけれど、黙っていても大丈夫だろうか。

「うん。きっとその花がきちんと……ああ、これは月と同じ色になるまでってことなんだけど。そこまで育ったらその花がついてくるのは止まると思う」

 俺にかけていたブランケット、足の方を捲った。部屋の空気がひやりとまとわりつく。見慣れた自分の足だ。怪我の類いが増えていることもない。

「そうなんですか?」

「そう。それでどうしようもなかったらそれはその時にどうするか考えようよ」

「……どうして、そこまでしてくれるんですか? ただ面倒なだけじゃないですか?」

 ゆるやかな否定をするように彼は首を降った。

「面倒なんてことはないよ。最初に言っただろう? 私は原因がなんであろうと、それを取り除くことを生業にしているんだよ。君がそのままで良いなら構わないけど、違うだろう? 行き倒れられては私が困るし」

「貴方が困るんですか? 自分で言うのもって思うんですけど、ただの他人じゃないですか」

「違うよ、他人だから助けないとか、そういうことじゃないんだ。これは私のエゴだよ。私の目に映るところにいた、それだけが大事で、君にとってそれが良いことか、悪いことかは極論関係ない」

「……お医者さんなんですか?」

 爆ぜた薪が渇いた音を立てた。夜が更けてきている。それでも眠気は訪れなかった。寝すぎてしまったのだ。そうだ、俺は彼のことを何も知らない。

「違うよ、今はもう。昔は色々なところに行っていたけど、今はもうこの家が中心。ここに来た人の相手しかしていないよ。それでも時々頼まれたら下の街に降りて診察みたいなことするけれど」

 下の街、ということはやはりここは森と街の中間にあるのか。井戸の管理でも任されているのかもしれない。そうでもなければあんな時間に出歩いていないだろう。

「ここ、ずっと住んでいるんですか?」

「うーん、この前の大きな戦いが終わったあとからだからそう長くはないよ。あ、きっと君が思っているより私は若いよ。お友達にいてもおかしくないくらい」

 そう言われて思わず彼を見てしまう。俺が驚いたのが伝わったのだろう、彼は子供でもあやすみたいな笑みを浮かべた。

「こういう仕事をしていると勘違いされやすいんだよ。私、って言い出したのも原因みたいだけど。だってちゃんとしてる人に見えるだろう? 今では『私』のほうが自分でもしっくりくるようになってしまった」

「す、すみません」

「いいや、わざと私もそういう風に思ってもらえるようにしているのだし」

「信用されやすいとか、あるんですか」

「うーん。舐められない、の方が強いかも」

 何か飲むかい、と机のほうを見遣った。そろそろ動けるようになっていると思う。頷くと彼は相好を崩した。

「あー、君。お酒飲める?」

「飲めます」

 久しぶりに足を地面につける。相変わらず花は咲いた。思わず溜め息が出る。月色は小さく揺れている。また喉渇いたら困るな、と思ったのが伝わったのか、彼はしゃがむと小さな花を指でつついた。千切られるのかと思ってドキドキしたけど、よく考えたら俺が心配する道理はない。

「ああ、大丈夫。それはその大きさまでしか育たないから、それ以上君の魔力を吸ったりしないよ」

「あ、そうなんですか?」

「うん。ちょっと細工しといたから」

「細工」

「この家の中にいる間はそのままだと思うよ」

「はあ……」

 細工というのが何かは教えてくれないようだ。お医者さんにも企業秘密とかあるのかもれない。机につくと、小さいコップが目の前に置かれる。おだやかに立ち上る湯気が一気に空腹を呼び寄せて腹の虫が鳴った。

「お腹すいてるよね、そうだね」

「ははは……」

 お恥ずかしい。

「ちょっとしたものだったら作れるけど、食べる?」

「食べます!」

彼は楽しそうに笑った。

「分かった、待っててね」

 少ししてから彼は小鉢を持って来た。何かのスープだろうか、優しいにおいが食欲をそそった。

「口に合うなら良いんだけど」

「なんでも美味しいです! 大丈夫です!」

「無理だったら遠慮なく言ってね」

 柔らかく煮込まれている具材が穏やかに喉を通っていく。あたたかさがストンと落ちて広がった。いったいいつぶりだろう、こんな風に食事を取ったのは。まあ、いつからあんなふうに歩いていたのかもよく分かってないのだけれど。

「……おいしい」

「そう? それは良かった」

 彼は自分の前に置かれたマグカップを両の手で包んだ。真似するとじんわりと温かい。指先が冷えていたことにようやく気付く。丸々寝ていたのにまだ冷えているのか、それともあの花のせいだろうか。冷えている感覚を味わうのは随分と久しぶりのことだった。

「おいしいです、本当に。久しぶりで、こんな、温かい食事」

 喉の奥にあたたかさが染み入る感覚も、安心する時間も、何もかもが新鮮に思える。

 俺は、どこにいたのだろう。

 彼はゆるやかに微笑んだ。髪が小さく揺れる。色素の薄い、雲が薄く流れる空に似た色だ。ここに浮かぶ月の色は、足下で咲いているような鮮やかなものではなくて、もっと淡くて、消え入りそうな色がふさわしい。

「…そう、それなら良かったんだけど」

「ほんと、ありがとうございます」

「そう言ってもらえると、やりがいがあるってものだよ」

 その表情に嘘の影は見えなくて、確かに彼が自称した通りに彼は救うことを楽しんでいる人間なのだろう。楽しんでいる、と括ってしまってはいささか聞こえが悪いような気もするが。

 ぽつりぽつりと、水滴が屋根を叩く音がした。窓を開けた彼はこちらを手で招いた。

「おいで、空が綺麗だから」

「雨じゃないんですか?」

「雨だよ、だから綺麗なんだ。空から降る雫が木々を洗ってくれる」

 家のすぐ近くに映えていた樹、その丸みのある葉が雨の雫の重みで大きく揺れた。耐えるように膨らんだ雫は、臨界点を超えて落ちていく。

「……あ」

「ね? 綺麗だろう? これを見るのが好きなんだよ」

 落ちる雫は水晶のように世界を反射していく。あの時の井戸よりもずっと不規則で、短い時間しか見ることができないそれには、窓の内側の明かりや、のったりと浮かんでいる月の光を抱きしめて地面にかえっていった。

「こんな風に見たこと、なかったです」

「じゃあ、これから雨の日は良く見てみるといい。場所によって全然違うんだよ」

「は、い」

 彼の方が背が高いから、少しかがんでいるお陰でようやく同じ目線になれる。

「貴方の色が」

 うん? と彼が此方を向いた。やっぱり、知っているような色をしている。それは彼自身の瞳かもしれないし、穏やかな日暮れの草原かもしれないし、うだる暑さの新緑かもしれない。ただ、そんな色が今目の前にあることはどうしようもなく事実だった。

「貴方の映った雫が、淡くていちばん綺麗ですね」

 落ちそうな雫に負けないくらいに、その瞳を揺らした彼は手で顔を覆った。くるりと踵を返して先に座っていた場所まで戻る。

「は、恥ずかしいことを言わないでくれるかな」

 ぱたぱたと手で顔を仰ぐ様子をぼうっと見ていると、だんだん自分が何を言ったのか理解が追いついてきた。とりあえず窓を閉めよう。

「いや、そういう、わけではなく! ……そういうわけではなく? ん? どういうわけだ? ちょっと待ってくださいね、今整理します」

「良いよしなくて! 余計照れるだけだろ!」

「そうですか?」

「そう!」

 遅れて席に戻ると、まだうっすらと耳が赤いのが分かった。案外表情に出る人なのか、単純に照れ屋なのか、恐らく後者だろうが。はーあ、と大きく息を吐いてじとりと俺を睨んだ。瞳の色が濃くなる。もしかして俺もこんな感じに色が変わってたりするのかな。

「君あれだろ、知り合った人にすぐそういうこと言うんだろ」

「言わないですよ。……たぶん」

「たぶんじゃないか!」

「だってわかんないんですもん!」

 まあ、完全に否定はしない。意図的なものではないから見逃してほしい。これまでそんな話で問題になったことはなかった、はず。何も覚えていないけど。

「まったく……油断も隙もない。もしかしてその花も、どこかで呪いでももらって来たんじゃないだろうね。それは私にはどうしようもできないよ」

「それはないですよ、人為的なものなら確実に気付きます」

 今回のような事故まがいでなければ、ほぼ避けられていたに違いないとは確信がある。

「そう、なら良いけど。呪いの類いはしっかり対価が発生するから。それを崩したんじゃどうなるか分からないし」

「呪いでも治すって言うかと思いました」

「失望でもした? 私は私のためにしか死ぬつもりはないよ。そもそも目的のために死ぬなんて愚かなことだ。死ぬこと自体が目的なら話は少し変わってくるけどね」

 陰った瞳は、そのままゆっくりと伏せられた。雨の音が大きくなっている。それに背中押されたみたいに、彼は口を開いた。口調はあくまでも優しく、俺に対しての言葉なのか、己に課した楔なのかの判別はつかない。

「自分の身が可愛いだけ、臆病者だと言われてしまえばそれまでだけれど。僕は死ぬわけにはいかないんだ。僕は思うんだよ、無謀と勇敢は違う。僕は、僕は最後まで全てを見届けないといけない、だって僕が死んでしまったら誰が友人を、家族を、大切な人を、赤の他人を救うんだい。僕は傲慢なんだ、手が届く全てを救いたい。彼や彼女にとっての救いではなかったとしても、破滅を選ぶなら僕の目が届かないところにしてほしい。見てしまったら、僕は嘆くだろうから。……結局のところ、僕は臆病なのかもしれないね。どんなものであったって、悲しみを、後悔を、感じたくない」

 ごめんね、変な話を聞かせたね。そう言って彼は言葉を締めくくった。気付けば、とっくに器の中は空だ。時間が勢い良く進んでいく感覚にくらくらしそうだ。思わず見下ろした花は俺の気分にでも繋がっているのか、少しばかり元気がないように思えた。

「傲慢でも、良いんじゃないですか」

 ゆっくりと、時を待って花がひらくような、すぐにかき消えそうな微笑みだ。

「君は優しいんだね」

「いえ、そういうんじゃなくて」

 ああ、もどかしい。今ここで考えていること全てが伝えられたら良いのに。陳腐な言葉しか出てこない。もっと何か、何かを伝えたかったのに、浮かんでくるのはどこにでもありふれた台詞ばかりだ。笑む彼には、伝えたいことの半分も伝わっていないに違いない。

「なに? 整理する?」

「……いじめないでください」

「ふふ、ごめんよ、拗ねないで。……ありがとう」

「拗ねてないです」

 もう、寝ようか。彼の一言が、不毛な夜を終わらせる唯一のきっかけだった。


 夢だ。夢だとすぐに分かったのは、世界に色がついていなかったからだ。そこにはあの時見た水面の月も、輝く星も雫も、みんな黙り込んでいる。夢ならば放っておけばいつか覚める。もとより身体に自由はきかないのだし、だったら夢と気付かないままのほうが楽だろうに、どうしてこんなときばかり眠りは深く、現実に浮かぶのに時間がかかってしまうのだろう。なぜだか無性に、色鮮やかな世界が恋しくなった。あの色を、綺麗だと思ったからだろうか。

 視界が揺らぐ。目覚めの時間が近づいていた。

 きっと、誰かに呼ばれている。


「おはよう」

 俺を覗き込む彼はすっかり支度を終えていた。といっても俺に分かるのは寝間着ではないということくらいだ。

「おはよう、ございます」

「あれだけ寝たのに、随分と眠っていたね。まだ本調子じゃないのかと思ってそのままにしておいたけど、普段から眠りは長い方なの? それともチャージに時間がかかっているのかな」

 だんだんと意識が冴えてくる。どうやらかなり眠っていたらしい。

「あー、眠れると思った時はずっと寝てます。そうじゃないときは、すぐに起きます」

「そう、じゃあ少しは気を許してくれたってことなのかな。だったら嬉しいけれど」

 これだけ寝るんだからちょっとどころではないです、という訂正はしないことにした。こっちのほうが照れくさいし。

「今日は空が青いよ、とても」

 夜見た時は深く暗かった空は、確かに色濃く世界を染めている。落書きみたいに浮いている雲ものんびりと流れていって、どこまでも続く快晴だ。

「ほんとだ」

「これだけあたたかいと外に出ないと勿体ないかもしれないね。散歩がてら、街のほうへ買い物に行こうか」

「はい。ああ、でも……」

 また花が咲いてしまう。昨夜の彼の言い方から考えれば外に出ればまた今までと同じようになってしまうのだろうと思っていたのだが。

「じゃじゃーん。そんなこともあろうかと、君が寝ている間にこんなものを作ってみました」

 示されたテーブルの上に置いてあるのは小さな石ころだった。彼の髪の色と同じ、薄青に鈍く光を反射している。こんな感じのものを商店でみたことがあった。持っているといくらか道中が安全になる、子供のお使いのお守り代わりにもされる小さな宝石たち。便利なものではあるのだけれど、その時の手持ちが心許なかったから見送ったんだった。もし買っていたらこんなことにはなっていなかったかもしれないな。

「魔除けですか?」

「それに近いね。私の近くにいるときにしか効果がないから、そんなにきちんとしたものじゃないんだけど。花の成長を一時的に止める式を入れてみたんだ、初めて作ったものだからどのくらい効果があるのかは明言できないのが痛いところ。だから喉が渇いたり、少しでも怠さがあったらすぐに言ってね。君のことを抱えてここまで昇ってくるのは流石に避けたいから」

「作ってみた、ってそんな簡単にできてしまうんですか?」

 俺が寝ていた丸二日があったとしても、調べるのに時間がかかっていたようだし、こんなものをこしらえる時間は何処から捻出したのだろう。こういったものには詳しくないが、売られている時の値段から考えたらそれなり以上の手間をかけて、相応の能力がなければ試作品とはいえ作成できないのではないだろうか。見遣った彼は待ってましたと言わんばかりだ。

 無邪気な子供のように歯をのぞかせて得意げな表情をして、立てた指を小さく振る。勿体ぶった否定のあとに続くのは芝居がかった口調だ。

「簡単にできたのは私だからだよ」

「はあ……」

「ちょっと、引かないでくれるかな」

 窓の外の鮮やかな空を見ても、今までの焦燥感は落ち着いたままだった。拠点になりそうな場所があるだけでここまで変わるとは、我ながら分かりやすい。彼も昨夜のあの会話なんてなかったような様子だし、俺が気にしすぎていたのかもしれない。

「拗ねないでくださいよ」

「あ、君結構根に持つタイプだろ!」

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