最終章

 返り血を浴びた服を脱ぎ、万里は死体から血に汚れていないワイシャツ、スーツをはぎ取ってそれに着替えた。顔についたものは洗面所で水に流した。一部は血痕が残ってしまったが、美緒の部屋まで行けば着替えを貰える。一時的な措置だと割り切れば不安は消え、冷静に対処できた。


 オフィスを出る間に美緒と通話した。これからきみの家までむかうといい、関西国際空港に行くから新幹線に乗る準備をして欲しいと告げた。成田、羽田の便は間に合わないからだ。


 美緒は意味がわからなかったようだが、このチャンスを逃すと万里はシンガポールへ行き、美緒は東京に取り残されるはめになると伝え、いましかないと強調した。『何かあったの?』と聞かれたので「あった。詳しくはいえないが」と答えた。


 そのひと言で事態の深刻さに目覚めたのか、美緒は『必要な荷物をまとめておきます』といった。シンガポール行きの出発時間を考えると、自宅に戻っている暇はない。幸いパスポートは身分証代わりに携帯している。万里はとにかくオフィスを出て、それ自体運が良かったのだろうが、神崎の関係者に見つかることなくビルを出た。


 ここがどこかわからないが、わかる必要はなかった。万里は幹線道路に身を乗り出し、一台のタクシーを止めた。車内に飛び込むと美緒の住むタワーマンションの名前を教えた。それで意図は通じたらしく、タクシーは滑らかな動きで発進した。万里は自分が血の匂いを発していないか気になったが、しばらく経っても運転手は何もいわなかった。付着した血痕は微量で、そもそもこの運転手は無口なタイプと万里は理解した。彼はもう、私物はスマートフォンしか持っていない。そのスマートフォンを取り出し、仮想通貨の取引アプリを立ち上げ、口座を確認した。そこには日本円換算すれば仰天するほどの額が入金されている。


 万里はオフィスを出る前、神崎たちのスマートフォンを確認し、そこに仮想通貨のアプリを見つけた。スマートフォンを見るには指紋認証があったものの、血の付着していない指をあてがうとチェックは無事通過した。あとはそこに万里の口座を入力し、全額振り込むようにすれば良く、たった数回の操作で万里は億万長者になった。もちろんその仮想通貨をただちに現金化する必要はあったが、海外の個人間取引サイトを利用すれば匿名で可能だ。こうして盗み出した仮想通貨の口座から、万里の銀行口座までのトレースは不可能になる。いまのやくざがどれだけテクノロジーで武装していても、この匿名性を破るのはどんな凄腕のハッカーでも手に余る。


 車窓に目をやると、そこは東京の湾岸地帯だった。神崎の組、あるいは傘下のフロント企業は万里の住む街にはなかったのだ。そうなるといま走っているのはレインボーブリッジだろうか。もっともそんな地理は万里にとってはどうでもよく、明日にも顔を合わせるだろうタクミと連絡をとりたくなった。


 美緒に電話をすると、自分が到着するまで不安のどん底に叩き込むことになる。彼女には直に話そう。あっさり結論を出した万里はスマートフォンからタクミの番号を呼び出しコールを入れた。


『よう、どうした?』

 数コール鳴らしただけでタクミは電話に出た。万里は神崎とのトラブルについては伏せ、今夜にも関空を発ち、シンガポールにむかう予定だと告げた。

「物件探しは進んでるんだろ? 金はあるからすぐに確保したい。なるはやで動いてくれないか」

 気持ちに焦りがあるため、万里は一方的だった。タクミは何が何だかわからないという感じだった。

『ちょっと待て。いくら何でも急かしすぎだろうが。突発的な理由でもあったか?』

 戸惑いを隠せない声色だが、タクミの指摘は的を射ていた。


「詳しいことはそっち行ったら話す。あともう一人一緒に同行するから、家が見つかるまではホテル住まいになるだろうし、お薦めを教えといてくれ。何なら予約を頼みたいくらいだ」

『本当に急だな。明日着くなら、ひとまず適当なところに泊れ』

「おれはお前と違って英語を話せないんだ」

『グッド・ホテル・プリーズとでもいっておけ。こっちのタクシー運転手が紹介してくれる』

「バカみたいな英語だな」

『話せないんだからバカみたいになるさ。逆にそっちのほうが運転手も気を利かせてくれる』


 タクミのいうとおりなら、到着後の数日は過ごせそうな気がしてきた。問題は美緒を連れて行く都合上、彼女はタワーマンションの一室から突然失踪したことになってしまう。美緒の父親が死に、本人が失踪したとなれば、自分に捜査の手が伸びるかもしれない。


 だが万里の頭では対処法は見つかっている。彼は中国国籍のパスポートを所持しているため、ただでさえ日本警察の捜査はしづらい。長い目で見れば、中国に渡ってそこに居を構えるのも悪くない。いまや大都市は日本と同じかそれ以上に発展している。言葉も話せるし、若い美緒はどんな場所でもじきに慣れる。不自由はないと見て間違いない。


 真っ先に潰すべき危険をクリアできそうだとわかり、心のつかえを吐き出した万里は両目を瞑った。スマートフォンのマイクから呆れたような声が聞こえる。

『金がなくて困ってたのにシンガポール移住を実行に移すとか、お前相当な金を手に入れたな。元々の職業を考えれば不思議はないんだが、おれとお前、どこで人生が入れ替わっちまったんだろうな』


 万里の耳をうつ声は少し感傷的な色彩があった。万里はその問いの答えを知っているが、あえて返事はしなかった。

 タクミがいったとおり、万里と彼はある時点を境に人格が劇変した。まだ子どもの頃、小学生とは思えない悪業のかぎりを尽くしたタクミは勉強熱心な優等生になり、それまでタクミの子分という立ち位置にいた万里は札付きのワルになっていった。励みにしていた合唱部を辞め、そのことを咎めた黒崎という女子児童をぼこぼこに殴って病院送りにした。ほんのり淡い恋慕を抱いていたような気もしたが、頓着しなかった。幼児期に遊んだ玩具に対し、ある日興味を示さなくなるのと同じだ。


 性格の変わった万里は、自分を邪魔する者は全員排除したくなった。どこまでも自由でいたいし、目障りなものは無くしたい。そんな感情にたどり着いた原点は、女子中学生を強姦するタクミの頭を石で殴りつけたときだ。過去の自分を切り離し、タクミに見下される人生を変えたい。強い意志で実行された暴力によってタクミは死線をさまよい、万里は親や教員、何より同級生たちに恐怖を抱かせた。美しいものよりも強いものが正義だ。こうした価値観は人々を完全に見下したときに完成した。


 ところが大人になっていくにつれ、強さの基準が増えた。腕力でねじ伏せなくても、人間は金の力で屈服させられる。学力に劣るため就職した万里を、都内の有名大学に進学したタクミがふたたび追い落とした。金持ちの親を持つ美緒に感じた劣等感。それを最初にあじわわせたのはタクミだった。


 すっかり大人しくなったタクミは、旧友のよしみでいろいろ世話を焼いてくれた。図々しい万里はそれを遠慮なく受け取り、他方でタクミが覚えているであろう優越感に腹を立て続けた。


『小説家なんてならず、中国料理の腕をいかせばよかったのにな。おれがそんなこといっても詮無いか』

 懐かしそうにいったタクミは、万里が人生の節目でどのような決断をしてきたか、だいたい知っている。黒戸として生きた生活についても。だからこそ彼としては理解不能なのだろう、万里が小説家にこだわったことが。


「お前は知らないだろうけど、おれは普通の男じゃないんだ」と万里はいい返した。

「女装をしてようやく女に欲情できる。いや、女にしか欲情できないというべきかな。一緒に連れて行く子はそんなおれをはじめて受け入れてくれた相手なんだ。金を払わなくても無償で、おれのことを愛してくれる」


 世間話のようにいったが、万里はこの話をタクミに語ったことはない。彼は自分の性生活を親しい人間にさえ教えてこなかった。中国人の仲間は彼のことをただの女装マニアだと信じていた。周囲に話すことで承認を得ようとしてこなかったし、金さえ払えばユミコが受けとめてくれた。それ以外のものを万里は欲してこなかった。


『ふうん、お前が変なやつであることは知ってたけどな、女の影もなかったし。ちょいちょい女みたいな格好してたし、そんな事情があったのか。まあ、おれにとってはいまさらだけどな』

「いまさら?」と万里は聞いた。

『むかし、中学生の女を襲ったことがあったろ。あのとき、お前は一緒にセックスしなかったじゃん。勃起すらしてなかった感じに見えた。普通はするとこだよな。あのときから、そんな予感はしてた。うっすら気づいてたっていうべきかな、おれみたいなやつと生きる世界が違うんだなって』


 目的地に着き、タクシーを降車した万里はタクミとの会話を終わらせようとした。

「それじゃ明日、よろしく頼むわ」

『ああ。ホテルに落ち着いたら電話をくれ』


 万里はタワーマンションの門をくぐってオートロックの前に立ち、通話を切った。インターフォンを鳴らし、美緒を呼び出した。だいぶ時間が経って、彼女の返事が聞こえた。恐ろしく元気がない声だった。その理由を万里は察した。彼は自分の名前を告げ、急な用事ができたといった。


 何もいわずドアが開いた。万里は先日来たときを思い出し、四十六階までエレベーターでむかった。その間、彼は美緒のことを憐れんだ。彼女の身に何が起きているか、だれよりも深く理解していたからだ。最上階にたどり着き、ドアの前に立ち、呼び鈴を鳴らした。反応があるまで時間が過ぎ、万里はスマートフォンを見た。いますぐ出れば新幹線に間に合う。ぎりぎりだが飛行機にも間に合うだろう。


 玄関のドアが開き、美緒が顔を覗かせた。元気がないどころではない、ひどく泣き腫らした顔だ。

「大丈夫?」といい、万里は玄関にあがった。


 美緒は彼を迎え入れると、ふらふら歩き去り、リビングにむかった。その後をついていくと、先日お邪魔した部屋に足を踏み入れる。室内なのに小さな公園のような広さ。何となく感覚の麻痺する部屋だ。


「どうしたの?」と万里は聞いた。美緒がなぜ泣いているのか、彼は理由を知っている。ショックを受けた若い女がどういう反応をするか、万里はよく知らない。ユミコの母親が交通事故に遭ったときは、大した騒ぎにならなかった。ユミコが気丈で、裸になっていた万里をよそに粛々と病院にむかったからだ。彼は美緒の返事がないのを見て、体に触れようとした。絨毯に目線を落としているが、幸い万里を無視しているような感じではなく、どう応えたら良いのかわからない様子だった。


 万里は悲しみに暮れている美緒を見て、その体に近づき、震える肩を抱いた。悲哀を抱えた人間は肩が震えることを、男女の付き合いに疎外されてきた万里は初めて知った。万里はその原理を好きな曲の歌詞でしか認識してこなかったし、その小刻みに動く物体を奇妙に感じた。彼は小説でありきたりな表現を避けており、大衆的な文化の表現をほとんど使わない。だから好きなバンドが歌ういい回しを通俗的なものとして退けてきた。


 しかし肩は震えるものだった。少なくとも震えるのは美緒の後頭部ではない。

「大丈夫か?」とふたたび万里は聞いた。何となくだが、彼女が答えるまで同じ疑問を永遠に聞き続けるべきだと思った。何とかして気持ちを落ち着かせてやるべきとも感じ、彼は美緒をいちばん近くにあるソファへと導き、ゆっくりと座らせて体を抱きしめた。美緒の肩は依然として震えていた。とはいえ新幹線を乗り逃すわけにもいかないので、万里のなかで葛藤が沸く。暴力を司る彼は多少強引でもいいから美緒をすぐさま連れだすべきだと思い、性欲を司る彼はこのまま美緒を抱いてやりたくなった。


 迷いが頭を占領したとき、美緒が目を瞑って声を洩らした。

「いま連絡があったんです、父が死んだって。殺されたらしいって」

 殺された。その事実を万里はとうに知っている。

「お父さん、やくざだったよね?」


 万里が調子を合わせて聞くと、美緒は視線を落としたままいった。

「そうですが、会社も経営してます。社員の方がいうには、そっちのお金をたくさん取られたらしいんです」

 美緒は必死に言葉を吐き出しているが、万里は釈然としないものを覚えた。彼女の父親である神崎は、フロント企業のようなものを動かしているみたいだが、純然たる経営者ではない。美緒もそれを知っているはずだろう。


「殺されたってことは後ろ暗いことがあったんじゃないの? おれはきみの父親をよく知らないけど」

 万里は礼を欠いた発言をしたが、美緒は気にする余裕もないようだった。

「わたしが知るかぎり父は恨みを買うような人ではないです。身内に義理堅くて、外には敵をつくらない人でした」


 外に敵をつくらないという発言はどうだろう。確かに神崎が武闘派なら、黒戸として鹿無木町に君臨していた頃、もっと激しい報復を食らっていた。それでも身の潔白なやくざなどこの世に存在しない。

 いまのやり取りで美緒が神崎の職業をきちんと理解していないのは明白に思えた。その自覚がないからこそ、宮殿の一室を思わせる部屋で安穏とした暮らしを送ってこられたのだろう。暴力とビジネスを両輪で動かし、あらゆる憎しみを一身に浴びてきたからこそなしえる貴族の生活を。しかし万里は気がついていなかった。自分の体が発する濃厚な血の匂いを。


「先生、あの、すごく臭いんですけど」

 タクシーの運転手は特に何もいわなかった。それは気づいていておきながら、黙っていたのだろう。

「これ、何の匂いですか?」と美緒が体を離していった。万里は答えられなかった。

「悪いけど、着替えを貸してくれないか。それとこの間、シンガポールに逃げる話をしたよね。やっぱりおれはやくざにはなれない。きみの父親が死んだとなれば、組の関係者が後継すると思うし、跡目を継ぐのはさらに難しくなるだろう。関空で発つから、すぐに出ないと新幹線に間に合わない。身の回りの荷物はまとめてあるよね?」


 万里としては予定を告げて美緒の追及を逃れる格好になった。彼は美緒にトラブルの発生を示唆しており、それを理由にいうことを聞かせられると思っていた。しかし美緒は、親の死にショックを受け、取り乱したわりに妙な落ち着きを発揮した。


「父が死んだいま、シンガポールに行く理由はなくないですか? わたしと先生の仲を咎める人はもういないのだから」

 万里は言葉に詰まった。計画をかき乱すことが起きたせいで、彼の言動は整合性を保てなくなっていた。


 そんな万里をよそに、美緒は続ける。

「先生がやくざになれないなら、わたしは組のだれかを婿養子に貰います」

 どうしてそんな話になるのか、万里にはわからなかった。

「ちょっと待ってくれ。きみはおれの意向に沿うといったじゃないか」

「事情が変わったんです。というより、父が死んだと聞かされて、気持ちが変わったというのが正解かもしれません」


「何だよ、それ」と万里は少し腹を立てた声でいった。これ以上不確定要素が増えて欲しくないのだ。不快に染まった彼は、無理やり美緒を連れて行くことに決めた。ソファのそばにあるテーブルには彼女のスマートフォンと財布、身の回りのものをまとめたであろうポーチが置かれてある。薄茶色の毛皮コートが隅のラックに掛けてあった。急いで掴み取り、美緒のほうに放り投げた。早く着ろという合図だ。

「先生、ちょっと乱暴です」と美緒は初めて苛立ったようにいい、ソファから立ち上がった。

「いまはおれのいうことを聞いてくれ。シンガポールに着いたらすべてを説明する。頼むよ、おれはきみが好きだ。やくざにはなれないが、きみを幸せにする自信はある。一緒に出よう。早く支度して」


 万里としては限界まで優しくいった。しかし美緒の態度は変わらなかった。

「父が死んでわたしは自由になりました。これまで小説に書いたような実家の束縛はもうありません」

「だったら逃げても平気だろ」

「違うんです」


 美緒は斬りつけるような声を万里にむけた。それは叫び声ではないが、同じくらいの威力があった。

「自由を手にして、はじめて理解したんです、自分の置かれた立場を。自由と束縛の間で揺れ動いていた。そんなふうに思っていたのは勘違いだったんです。本当は最初から自由しかありませんでした。それにもかかわらず、わたしは父の跡継ぎを心配して、何とか力になりたいと思っていたんです。束縛はわたしの願望だったんです。本当は父の跡を継ぎたかった。先生がわたしと一緒にいたいなら、やくざになると約束して下さい」


 とんでもないことになった、と万里は思った。先日のやり取りと違い、万里はすでに神崎を殺している。その様子は防犯カメラのようなもので録画されているに違いない。そんなものが存在していなかったとしても、神崎を含めた三人がどんな理由で死亡したか、仲間のやくざが気づかないわけがない。つまり美緒の願望は受け入れられないのだ。神崎の手下が親分の仇を跡継ぎに据えるわけがない。


「きっとわたしには責任があるんです。たった一人の子どもとして父の名を支え続ける責任が」

 決然としていう彼女には、平均的な女子大生の雰囲気はなかった。いわくいいがたい迫力が感じられる。万里はもう逃げられなかった。美緒を説得するには真実を話すしかない。

「くり返しいうがおれはやくざにはなれない。なぜなら神崎を、きみの父親を殺してしまったからだ。仲間にバレるのは時間の問題だ。東京をうろついてるとじきに殺される」


 病気のせいで以前ほど覇気はないが、万里の語気も強かった。ここで引き下がったら美緒を失う。それは何としても避けたいと彼は自覚していたのだ。

「きみの父親を殺したことを偽る気はない。けど本当のことをいえば、おれも神崎に殺される寸前だった。こういうのはイーブンなんだよ、どっちが悪いという話じゃない。それでも白黒つけたければ、おれを取るか神崎を取るか、選んでくれ」


「そんな選択肢はありえません」と美緒はいった。そして上目遣いで吐き捨てた。

「先生は逃げて下さい、どこか遠くまで。顔を整形して、万里という名前も捨て、別人として現れて下さい。そうすればわたしの婚約者として父の同僚にも紹介できます」

「なにいってんだ、おれはこの容姿を失いたくないぞ」と万里は即答した。彼はすでに完成された容姿を持っているのだから、整形などをしたらむしろ不細工になるだろう。しかも万里にとって容姿は、女装をするうえで必要不可欠な要素だ。男とも女とも取れる中性的な顔だちをなくしたら彼は女でいられなくなる。


 しかし美緒は万里の抵抗を勘違いした。

「いまの顔にこだわるなんて、先生はナルシストですか? わたしはあなたの容姿がどんなに変化しても愛し続けられます。自分に酔うのはやめて下さい」

「ふざけるな!」


 万里はついに怒りをぶちまけ、美緒の胸を思いきり突いた。力の加減ができなかったので、美緒はソファまで吹っ飛び、肘掛けに後頭部をぶつけた。自分が振るった暴力に万里は驚き、一瞬動きをとめた。これまで多くの人間を容赦なく殴ってきたが、美緒は特別なはずだった。金を払わなくても万里を受け入れ、小説家志望ということもあって価値観も近く、話も合っていた。つまり相性は良かったわけだ。それがどうして、こんなことになる?


 自問自答する万里だが、答えはとっくのむかしに出ていた。タクミを殺しかけたとき、彼と人格が入れ替わったようになり、粗暴な悪人に生まれ変わった。そしてその人格をもとにして、中国人のごろつきとつるみ、みずからを黒戸と名乗った。


 黒戸とは中国語で戸籍を持たない子どものことを指す。万里は母国で黒戸として生まれ落ち、日本に移住した親戚に養子として貰われた。そんな複雑な出自を持つ万里は、だれと付き合っても居心地の悪い思いをあじわう自分を黒戸と名乗ることで自虐的に扱った。表の自分は万里、裏の顔は黒戸。そういう棲み分けを施し、怒りが頂点に達すると容易く黒戸に切り替わった。相手がだれであろうとぼこぼこにする。腕っ節の強いやくざでも、非力なユミコでも関係ない。本気の愛を覚えた美緒も例外ではなかった。


 万里はソファに横たわった美緒に跨がり、こぶしを交互に打ち下ろした。次第に顔が腫れ、美緒の美しい顔が血だらけになる。それでも万里の暴行はとまらなかった。ナルシスト。そうひと言いわれただけで、倫理の壁を超えた。きっと本人にも自覚があったからだ。美緒という存在と出会うまで、彼は自分を慰めるようにしかセックスできなかった。美しい自分を愛していた。だから同じくらい美人の美緒に惹かれた。彼女は自分の一部にほかならない。


「どこまでも優しい顔してると思ったら大間違いだぞ?」

 万里は身勝手な怒りを発し、美緒をぼこぼこにした。気が済むまで殴り続け、これ以上殴打を続けると相手を殺してしまうと感じたとき、ようやく手が止まった。美緒は気を失っているようだったが、首筋を触るとまだ脈はあり、呼吸もしていることがわかった。


 万里は崖っぷちで感情を抑え込めた自分を褒め、リビングを出てクローゼットを見つけた。また返り血を浴びてしまったため、とりあえずスーツの袖で顔を拭い、半裸になる。美緒の服は種類が豊富だったが、黒いロングスカートと同色のブラウス、スカンジナビア柄のセーターを着た。肝心のコートは肩幅が狭くてサイズが合わず、万里は仕方なくそのまま玄関にむかい、美緒の部屋を出た。


 きっと数十年くらい経った頃、万里は美緒をぶちのめしたことを後悔する日がくるだろう。

 エレベータで階下に降りる途中、万里はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。相手は担当編集者だ。

『連絡が来ると待ってました!』と編集者は通話に出た途端、大声で叫んだ。

 万里はすでに心を固めており、「考えが変わった。シンガポールに行っても小説を書く」と手短にいった。


 人を殺してしまった以上、日本にはいられない。美緒が助言したように、整形をして逃げ延びることもたぶん不可能だろう。裏社会に潜るしか対応策はない。しかし万里は、もう二度と黒戸に戻りたくはなかった。いっけん機械のように傷つける万里だが、実際は蓄積する心労にうんざりしていた。


 他人をぼこぼこにしても楽しくない。それならば、たとえ遠くの国でも、小説を書いているほうがまだましだ。金は唸るほどある。リモートワークができるなら、どの国に逃げても仕事ができる。念願が叶い、傑作が書けたときには、黒戸として生きた人生をやり直せるだろう。片手間に中国料理店で働くのも良い。おれはいまかぎりなく自由だ。万里はそう思い、軽薄な笑みを浮かべながらマンションを後にした。


「主人公のモデルだが、もう少し強いやつに設定する。一度あんたがボツにしたのは堪えてるんだ。しばらくの間に自己洞察が進んで、いままでのやり方を反省した」

『それは良かった。あなたの小説に備わっていた美点は、少年期の暴力に集約されています。あの少年が真っすぐ成長した姿が見たい。助言すると惑わしてしまう気がして直にいえませんでしたが』

「べつに良いよ。他人がどういおうとゴールは見通せているから」


 万里が笑いながら応えると、担当編集は『頼もしいですね。そういうふてぶてしいあなたが見たかった』と持ち上げた。

 東京駅にむかうべく、国道沿いを歩いてタクシーが来るのを待った。夜風はそれほどでもなかったが、万里はコートを着ていない。美緒に借りたセーターを身にまとい、寒さに震えている。スマートフォンを切ると、急に自動車の行き交う音が聞こえた。苛立ちを覚えるほど騒々しく、タクシーが来ないこともあいまって万里は性懲りもなく腹を立てた。このぶんでは停車した運転手をぼこぼこにするのではなかろうか。


 おのれを制御できないためにいろんなものを失ったが、前向きに考えれば失ったものは必ず取り戻せる。精神が壊れたときに失った金はやくざから奪い返した。ユミコのかわりに美緒と関係を持った。代わりはいるはずだ。無いなんていわさない。


 遠くからタクシーをおぼしき車が見え、万里は片手を挙げる。眩いヘッドライトが彼を照らし、車は急ブレーキをかけた。道路脇のツツジを押しのけて停まったタクシーは、後部座席のドアを自動で開く。

 見たところ若い雰囲気の女性が仏頂面でハンドルを握っている。忙しなく体を滑り込ませた万里を、運転手は寡黙に迎え入れた。


「東京駅八重洲口まで」

 そういい放った彼は、無言で応じる運転席を不機嫌そうに蹴飛ばした。

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昼夜行動 影山ろここ @Lelouch_0424

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