夢を見ない眠りはあっという間に朝が来る。


 万里はついさっきまで古民家にいて、時刻は昼間で、座敷の部屋に座っていた。しかし彼が目覚めたとき、暗いオフィスのような場所におり、外は真っ黒で、完全に夜だった。立ち上がろうとしたものの、脚と体がロックされている。椅子に縛りつけられているようだ。


 万里はそういうめに遭ったことがないから、自分の身に降りかかった災厄の意味をとらえ損ねる。現実感がない。ひょっとしたら自分は、夢のなかにいるのではないか、と万里は考える。だがそれは間違いだった。なぜそうわかったかというと、気持ちが悪かったからだ。もし毒薬を飲んで途中で吐き出したら、こんな苦痛をあじわうのではないか。そんな思いがよぎるほど胃の中が暴れている。せりあがる吐き気を催し、何度か嘔吐した。中身は空だったが、よだれのようなものが垂れ、自分の膝に水滴が落ちてくる。


 金はどうなったんだ、と思った。意識が遮断される前のことを断片的にしか覚えていない。支払いを仮装通貨でやろうといわれたことは覚えている。しかしそこから記憶は混濁しており、万里はかろうじてあることを思い出した。やくざに勧められるまま、日本酒に口をつけたこと。そして相手のやくざは一滴も飲まなかったことも。そこから導かれることは明白だ。日本酒のなかに薬が混ぜられており、そのために彼は昏睡したのだ。


 とはいえしくじりの理由はわかっても、ここにいる理由まではわからない。万里は吐き気にえずき、夜の街を眺めながら咳き込んだ。神崎は表のビジネスも手がけているらしい。そうなるとここは神崎か、彼の手下が居を構えるオフィスというふうに見るのが妥当だ。


 吐き気がひとしきりおさまると、万里はふたたび眠くなった。強力な睡眠導入剤を飲むと、まる一日寝てしまうことはざらだという。彼はそれを精神病院で目にしてきた。同じ病室の患者が強い薬で眠らさせ、翌日まで指一本動かさず横になり続けていたことを。しかし万里が眠りに落ちることはなかった。フロアの扉が開き、何人かの男たちが入室してきたからだ。


「起こせ」と中心に立つ男がいった。万里は暴力を予感して「もう起きてる」と答えた。すると部屋の灯りが半分つき、男たちの容姿が明らかになった。全員で三人いる。一人はこそ泥のようなずる賢い顔つきの男。居酒屋で覚醒剤の取引をした男だ。服は上下とも鼠色のスーツを着ている。右側に立つ男は長髪をなびかし、眉に大きな傷があった。上着に皮のジャケットをはおり、右手に何か所持している。


 それが何かを確認するより、中央に立つ男に目がいった。男は見るからにそれとわかるアルマーニのスーツを着て、ヴェルサーチの眼鏡をかけている。スラックスから伸びる靴はフェラガモだ。万里は一時期金があったので、こういうブランドのたぐいに詳しい。 


 だが問題は高価なファッションではなかった。彼はそれらの一式を身にまとい、メルセデスベンツに乗る男を知っている。記憶に間違いがなければ、管理するマンションに愛人を囲っているやくざだ。もちろん、他人のそら似かもしれないし、断定するだけの材料はなかったが、万里は自分の勘に自信を持っている。全身から発する雰囲気がマンションで会う男に似ていた。先だっては無免許医師まで紹介してくれた。相手はひょっとすると、自分が頻繁に出会うマンションの管理人であることを知っているのではないか。


 しかしその予想は考え過ぎだった。アルマーニを着た男はまったく予期せぬことを口にした。


「姉ちゃんみたいな格好してるけど兄ちゃんで良いんだよな? おれは神崎っていうモンだけどよ、こないだうちの美緒から聞いたんだ、お前がストーカーを撃退してくれたってな。最初は家庭教師ふぜいがよくやると感心したんだけどよ、組に戻ってみれば、撃退されたのはうちの若衆だっていうじゃねぇか。おれはお前が怪しいと踏んでたから、マンションに若いモンを張りつけて尾行させてたんだ、ここしばらくの動きを。もっとも明白な根拠があったわけじゃねぇし、なかなか尻尾を出さねぇから勘違いな気もしてきたんだけどよ、そんなときに米田がヤクの仲介させてくれっていうじゃねぇか。やつに相手がどんな野郎か聞いたら、娘のことを知りたがったオカマだといいやがる。


 そこでいろんな謎が一つに収斂したのよ。尾行してたモンを平然とぶちのめしたのが本当の顔なら、裏稼業に手を出すのは自然なことだ。美緒の家庭教師は一般人じゃねぇ。そう思ってヤクの取引に出向いて監視カメラで確認させたんだよ、さっきいった若い衆によ。すると同一人物だっていうじゃねぇか、美緒の家庭教師とヤクの売り手が。しかも取引に出したヤクは、うちが受けとるはずのブツだとわかった。それを知って準備した罠を仕掛けたのよ。薬の効き目は爽快だったろ? あれは元々猿を黙らすための薬なのよ。なかには割れるほど頭痛がするやつもいるが、見たところ元気そうじゃねぇか。やっぱしぶといな、二年間も逃げ続けただけのことはあるよ。おれはお前のことをずっと探してたんだ、料理人の分際で裏稼業を手がけ、挙句にこの街から消えちまったお前をよ。


 散々やられっ放しで、お前が不在になった途端、中国人どもがヤクの相場をぶっ壊し、うちらに大損こかせやがった。それもお前の差し金なんだろ? 自分がいない間に金貯め込んで、復帰したときの備えをしとけって周りのモンに命令しといたんだろ? そのくせ足取りがさっぱり掴めねぇのには参ったぜ。女装が趣味のオカマ野郎を軸に、怪しい人間を調査する以外に方法がなくなっちまった。そんでもってまともな定職についてないお前をターゲットに絞り、ヤクの件でアシがついたってわけだ。なぁ、マンションの管理人は隠れ蓑なんだろ? 万里ワンリーよ、裏では黒戸って名乗ってたな。その二つがようやく一致したぜ。うちらのシマを荒らしといて逃げられると思うなよ、中国人ふぜいが」


 アルマーニの男、神崎と名乗った男は、彼自身がいったとおり、美緒の父親だとわかった。それ自体はわかっていたが、尾行をされたり、調査の手が及んでいることは確信がなかった。万里は精神病院から戻ったあと、タクミのおかげで街のやくざたちからノーマークな所に居を構えられた。貧乏なのは黒戸として生きた自分に嫌気が差し、かつての仲間と縁を切ったからだ。外を出歩く頻度も低く、相手の思惑をうまくはぐらかせていると思っていた。名が売れた裏の顔を巧妙に隠して。


 ところが欲をかいたことで馬脚を現してしまった。誤配されてきた覚醒剤に手を出してはいけなかったのだ。冴えない家庭教師のままでも、美緒は好意を寄せてくれた。この件に関するかぎり、完全に万里の自滅だ。


「男ってどうしてこんなにバカなんだろう」と彼はいった。小さな声だから相手には聞こえなかった。

「アシは洗ったんだ。自分のせいで何人もの仲間が死んだ。その仇を取るべきか、弔いに罪を償うか、それともすべての責任を脱ぎ捨て逃げるべきか。いろいろ考えて逃げるのがいちばん良いって結論を得た。そんなこといってもあんたらには通用しないだろうけど、おれのことは放っておいてくれないか? ヤクの相場なんて操作してないよ。むかしの仲間とも会ってない。ただこの街に住んでいるだけだ。逆に気に食わないとすれば、おれはどうすれば良い? 殺したら満足するのか?」


 彼の両脚と両腕は粘着テープで縛られ、同じように椅子の背もたれに胴体を巻きつけられている。暴れても手も足も出ない状態だ。半ば開き直るような態度に打って出ると、神崎は首を傾げていった。


「お前さ、罪と罰って知ってるか?」

「……ドストエフスキーの小説だろ」

「違ぇよバカ野郎。犯した罪にはそれ相応の罰があるって話だ。黒戸よ、お前には二つの罪がある。ヤクの取引に新参者として割り込み、うちらの邪魔をしまくったこと。もう一つは何かわかるか?」

「仲間に金貸しをやらせた。それ以外にも競合する仕事をどんどん増やした。あんたらの売上を下げたのが罪か?」

「バカ野郎。そんなこと小せぇよ。美緒の心を奪ったことだ。ストーカーをやっつけてくれた話をするあいつの顔を見せてやりてぇよ。恋する女は見慣れてきたが、自分の娘となると怒りしか湧かなかったぜ」

「そんなに腹が立ったなら、いっそひと思いに殺してくれ。恨まれていることはわかってんだ。逃げる準備はしてきたけど、捕まっちまったらお手上げだろ。あんたもおれも」


 椅子に縛りつけられた姿勢で万里がいった。神崎はなぜか退屈そうに視線を交差させた。


「ヤクは取り戻したからな、その意味では少しせいせいしてるんだ。そして積年の恨みが冷めたところはある。美緒はお前にご執心だが、裏を返せば婿養子を貰う良いチャンスだ。使える男はこの世界でもなかなかいねぇし、いたところで美緒が気に入るとはかぎらねぇしな」

「あんた。親バカか?」


 口は自由なので吐き捨てるようにいったが、神崎は振りかぶって万里の顔面を殴りつけた。同時に腹部にも一撃食らわせる。

「おい、それを貸せ」

 神崎は斜め後ろを向き、背後に控えた長髪に声をかけた。その落ち武者のように髪の長い男を見て、万里の頭に閃きが走った。顔の傷が特徴的で、雰囲気はおぼろだが、髪の長さも記憶にある。


 ラフロイグ。勝手にそう呼んだやくざと万里は自宅アパートでトラブルになった。そのとき、発狂寸前になっていた彼はラフロイグをぼこぼこにして入院するはめになった。しかし反応がまったくないことからして、ラフロイグは万里のことを覚えてないのだろう。顔もろくに合わせない関係で、暴行をくわえたときも一方的だったからだ。


 意識を逸らしている間に、神崎がラフロイグから何かを受けとった。よく見るとそれはぎらついた刃を見せるダガーナイフだ。神崎はナイフを万里の頬に密着させた。冷えきった部屋の空気と同じく凍りつくような感触があった。


「なぁ、黒戸。お前を殺してやりたいけどな、迷ってもいるんだよ。美緒を悲しませたくない。人の親ってそういうもんなんだよ。組の利権は三分の一がおれの持ち分なんだ。その半分をうちのやつに、もう半分を美緒に相続させたい。何もかもおれのいうとおりにするなら、美緒と結婚させてやる。生涯おれと美緒に服従して生きろ。そういう罰を受ける気なら、殺さないでおいてやる」


 それが本当に罰か。普通の人間ならそう思ったに違いない。だが万里は感覚がずれていた。彼は美緒が持っていたような自由と束縛の弁証法を不完全なかたちでしか持たない。タクミを殺さなかったのは殺すと呪われるような気がしたからで、ラフロイグに対する暴行を我慢したのはそうすると相手を殺してしまいそうな気がしたからだ。どちらも神が関係している。万里は人間からは自由だが、神の目は気にするのだ。そんな万里が人間である神崎の支配下に入るはずがない。それは自分の死を意味するからだ。


「あんたと美緒に従うってことは、跡継ぎの男児をつくることが仕事ってことか?」と万里は聞いた。神崎は手にしたナイフを彼の肩口に差し込み、高圧的にいった。

「不服そうな顔すんじゃねぇよ。嫌なら殺すまでだ」


 万里は激痛に耐え、能面のような顔を保ったが、神崎はさらに続けた。


「服従っていうのはお前に自由はないってことだ。そんなふうに女装するのも許すわけがねぇ。男が女の格好するとか気持ちが悪いぜ。お前まさか、チンポ取っちまってるんじゃねぇだろうな?」


 その問いかけに答えるまで思いのほか時間がかかった。


「美緒は、こういうおれが好きだといってた」

「子どもの教育に悪いだろうが。どの世界に母親が二人いるガキがいんだ。寝言ぬかしてるとぶっ殺すぞ」

「殺してくれよ」


 万里は一切のちゅうちょなく即答した。問題は、そのひと言に神崎がどう反応するかだった。好条件を出したのに拒む人間を、たとえやくざでなくても奇異に感じるだろう。神崎もそうだった。万里が何に抵抗を覚え、どんな思考回路でそういう答えに到ったのか理解できない感じだった。


「もう一度いう、殺せよ。おれは男じゃないんだ。オカマでもない。女装をしないと性欲を抱けない、性欲を覚えても勃起すらしない。そういう人間がこの世にはいるんだ」


 すべてを悟ったかのように万里は淡々といった。達観というのだろうか。表情に迷いがない。

「そこまでいうんじゃ仕方ねぇな。望みどおり山に埋めてやる」

 神崎の対応もあっさりしたものだった。たった数秒のやり取りで人の命が決まり、何の葛藤もなく物事が進んでいく。万里の頭のなか以外で。


 神崎にとって間違いだったのは、たとえ一瞬でも、背後の部下を振り返り隙をつくったことだ。何やら指示を出し、視線が外れた。それを引き金に、万里は目前にあるナイフの柄に噛みつき、神崎の手から武器を奪った。もちろん体は椅子に縛りつけられているが、粘着テープを切れば拘束は解ける。口からナイフを落とし、両手で握った。瞬きする間もなく起きた出来事だったので、神崎が顔を戻したとき、万里の手にしたナイフは彼の胸部に深々と突き刺さっていた。


 万里はそれをすぐさま太ももにあてがい、肉を切る要領で粘着テープを切断した。体はさらに自由を取り戻し、縛られた足首を解放すると彼は歩くことができた。神崎は胸部を押さえ、ずり落ちた眼鏡の奥から万里のことを鬼の表情でにらんでいる。後ろにいた彼の部下は懐から何かを取り出したが、それを使う前に万里が突進した。彼はラフロイグの腹部にナイフを埋め、同時に彼を盾にした。もう一人のやくざは勢い良く迫る仲間に狼狽し、攻撃をくり出さない。同士討ちを恐れたのだろうが、万里を倒す最後のチャンスを逸したのは明らかだった。


「てめぇ!」

 だれかがそう叫んだ。声の主は特定できない。万里はラフロイグの首筋を斬りつけ、盛大に返り血を浴びた。血は温かかった。正確には生温く、かなり臭い。ラフロイグを退けた勢いで、もう一人のやくざに飛びかかる。万里のジャンプ力に目を見張った敵は、両手に拳銃を持っていた。しかしそれを使うまでもなく倒された。ナイフを手にしたままの万里にぼこぼこにされ、その顔はたちまち原型を失った。


 信じがたい速度で二人を殲滅した万里が見ると、神崎は胸を押さえ呻いていた。依然として覇気は残すが、呼吸は苦しそうで、まるで手負いのライオンだ。


「なぁ、神崎」と万里はいった。

「おれの女装を許してくれたら殺すのやめといてやるよ。あと二度とおれのことをオカマって呼ぶな」

「うるせぇ」と神崎が答えた。それは命を分つ決定的なひと言だった。


 万里は目を見開き、ナイフを遠くに捨て、やくざの落とした拳銃を拾い上げた。彼は黒戸として中国人界隈を仕切っていた頃、銃を使ったことがある。だから操作方法も知っていたし、命中させるコツも覚えていた。素人ではないのだ。何年も使っていないが、その程度で万里の記憶は錆つかない。


「撃たれると思ったろ? でもこいつで殴るとバカみたいに効くんだ」

 への字口だった万里がにたりと笑った。神崎は最後の力を振り絞り、万里の体めがけて肉薄してきた。拳銃を握った万里は、それを神崎の鼻骨に叩きつけた。神崎は万里を押し倒し、振り上げたこぶしをぶつけてくる。だが万里はその姿勢を容易く反転させ、神崎の体に馬乗りになった。


「安心しな、美緒は大事にしてやるから」

 そう吐き捨て、万里は神崎を死ぬまでぼこぼこにした。

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