第七章

『万里さん、それは勿体ないよ。考え直しましょう』


 電話口で抗弁するのは担当編集者だ。万里は相手に指定された個室居酒屋にむかって歩き、片手にヴィトンのバッグを下げ、体によく馴染んだAラインコートを翻している。


「まだ小説家をやめると決めたわけじゃない。友人のいるシンガポールに行くことになったら、あんたと会えなくなるし、いろいろと不都合だろ。こっちに残れば、原稿はばりばり書くよ」

『シンガポールでも原稿は書けますよ。リモートワークの時代でしょう』

「おれは編集者の顔が生で見えないと嫌なの。そのたびに日本へ帰ってられない」


 万里が強く出ると、担当編集者も負けじと踏ん張るが、すぐに妥協点を見いだせないと思ったのか『この件は一旦保留にしましょう。頭を冷やしてもう一度話しましょう』と強い調子でいった。再考の余地などないのだが、相手の顔を立てて万里は通話を切った。スマートフォンを上着のポケットにしまい、さらに歩速をあげる。


 美緒とのやり取りで、彼女は万里の決めたことを受け入れると答えた。万里は悩みを引き取って、しばし思考を重ねた。タクミにも連絡を入れ、相談した。タクミはシンガポール生活に馴染んでいるせいか、金持ちが暮らすには良い場所だといった。投資の税金も安く、金儲けにうってつけだと。


 万里は覚醒剤が売れたところで一時的に金持ちにはなれても、永続的に金持ちであり続けられる保証はなかった。なので、タクミの誘いは重要な示唆だった。儲けの半分は預金とし、もう半分は投資にまわすなど、何らかの財テクが要る。そのことを意識した万里は、日本で暮らすことへの執着を捨てた。一度答えを決めたら動きは早く、米田を呼び出してマンション管理人業務の引き継ぎをおこない、タクミに物件探しを依頼するなど、シンガポール移住をただちに実行へと移した。担当編集者に連絡したのもその一環だ。


 表向き人付き合いに難のない万里だが、一度決めたら関係を切ることに何のためらいもない。ユミコとの関係はゴミ箱行きだったし、エジルとの関係もそうだろう。日本を出ると教えたら、感傷的な思いを互いにあじわう。そんな気持ちに浸りたくはないし、相手に与えたくもない。特にユミコはあれ以来、電話に出てくれない。やり過ぎを謝りたい万里にとって不可解な対応だった。


 それでも大きな後悔がないのは、美緒とのセックスが、相手の拙さを考慮に入れてもかなり良かったからだ。まだセックスを、特に女どうしのそれを美緒はイメージできない様子だったが、世間に出回る性情報は男女のペアをあまりにも前提にしすぎている。美緒が戸惑う原因はそれだろう。だが慣れと経験がいずれ溝を埋める。ユミコとのセックスを忘れられる日が来るはずだ。


 目的の店は街の奥まったほうにあった。駅に近いエリアは一般人や観光客の利用する場所が多く、飲食店も風俗店もだいたいそんな感じだった。街の爛れた部分はそこからさらに歩いた位置に集中し、チェーン店などはなく、個人経営店が主流だ。教えられた居酒屋も店構えこそ大きいが、見たこともない店名で民家のような佇まいをしていた。忙しなく歩き続けた万里は店の暖簾をくぐってからも、歩を進める速度を落とさず肩で風を切って歩いた。彼が増長しているからではなく、やくざとの取引に怯まないという強い意志の表れだった。


 会計の受け付けで待ち合わせ相手の名前を告げると、店の女将みたいな女性が現れ、万里を案内してくれた。靴を脱いで上がり込んだ店は鄙びた旅館のようなつくりで、外に面した側に日本庭園を臨むガラス窓が、反対は木の壁があり、障子や引き戸のようなものはない。室内で交わされているだろう会話は聞こえず、そもそも他の客と鉢合わせしない構造になっている。そういう特殊な配慮が利いた店の利用者はかぎられるだろう。一部の上流階層か、世間に顔を出さない職業の人間。その筆頭であるやくざと万里は待ち合わせしている。根回しはとっくに済んでおり、相手の名前とアポの場所、時間だけ教えて貰った。


「こちらでございます」と女将がいい、壁の一部を手で引いた。それが扉だったらしく、視界の奥には暗い顔つきの男がいた。部屋が相当暗いのだろう。万里は無言で扉をくぐり、後ろで締まる引き戸の音を聞きながら部屋に真ん中に進み出た。


 そこには年季の入った和風なテーブルが置かれ、ますます旅館のような風情を醸している。天井の灯りは弱く、間接照明がいくつかあった。ゆっくり座布団に腰をおろし、万里はあぐらをかいた。


 対面に座るやくざは津田組若頭を務める神崎の舎弟とのことだが、それがどのくらい偉いのか、万里は大まかに理解している。おそらく紹介された男が、覚醒剤などの裏事業を任されているのだろう。米田の話では神崎はビジネスの面で強みを持ったやくざで、そのため非合法な活動を分けていると思われる。


「何か話に聞いてたのと違うな、あんた。若いし女じゃねぇか。男だって聞いてるぜ」

「男だけど、性癖が普通じゃないんだ」と万里は答えた。その女のものではない低い声を聞き、やくざが戯けた顔をした。スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツに黄色のネクタイを締めている。


「おれの性別ときょうの取引は無関係だし、放っておいてくれると助かる」と万里はいった。見た目の年齢はやくざのほうが上だったが、万里は敬語を使わなかった。横柄な態度はどんな人間と対峙しても一貫している。

「さっそくだけと、取引をはじめよう。長居する気はないんだ」と万里はいった。やくざは虚を突かれたような顔で「せっかく酒とつまみを用意して貰ったんだ、少しやってけよ」と応じる。


 パッと見たところドスの利いた感じはないが、目許しか笑ってない。万里は「仕方ないな」とため息を吐き、バッグから小包を取り出した。酒に付き合ってやっても良いが、商談も並行して進めたかったのだ。小包をテーブルの脇に置くと「せっつくなよ」とやくざがいった。


「見た目と違ってえらい図太いな。もうちょい自分の身の丈をわきまえようや」

 万里は鼻白んだ様子も見せずに「ぺこぺこしたくないんだよ」といった。そしてすぐに言葉を継いだ。

「この覚醒剤だが、そもそも覚醒剤だと確定したわけじゃない。だいたい二キロほどあるが、確認して貰えるか?」

「こっちもそのつもりだ」


 やくざは銚子を持ち、万里の目許を見た。機嫌を損ねたように見えるが、やくざはおおむねこういう雰囲気を放っている。

 万里は杯を持ち上げ、注がれた日本酒をひと口飲んだ。そしてもう一度差し出し、なみなみとつがれた杯を下に置く。


「ところ兄ちゃん……姉ちゃんのほうが良いか?」

「どっちでも」

「そんなら兄ちゃんで。最初にいっておくが、商品の代金は現金払いじゃない。最近うちらも進んでいてな、仮想通貨って知ってるか? あれを導入してるから専用のアプリを入れてくれ」


 やくざのひと言に万里は驚かなかった。仮想通貨を利用するやくざは多い。理由は流行だからではなく、裏で処理したい金を便利に扱えるからだ。


「アプリは用意してるよ、口座もある」と万里は答えた。彼らの手口は百も承知だったからだ。

「手際が良いな。ひょっとして兄ちゃん、ただの若造じゃないだろ?」

「ただのニートだよ」といい、万里は笑った。やくざもつられて白い歯を見せた。金をかけてメンテナンスしているせいか、歯の白さは驚くほど不自然だった。


 万里は手持ちぶさたなので、テーブルに置かれたつまみを口にした。和食はほとんど食べないので、目の前にある料理が何なのか彼は理解できない。それでも平然と食ったが、なかなか美味く、酒と合いそうな味わいだということはわかった。すぐに日本酒で追いかけたが、やくざは「よっこらせ」といい、黒い鞄から何かを取り出した。薄っぺらい器具に見えたが、それが秤であることに気づいた。やくざは万里の差し出した小包を取りあげ、梱包から白い粉の入ったビニール袋を四つ取り出した。そのうちの一袋にどこからともなく取り出した針を突き刺し、引き抜いた先端をなめ、じっくりと頷く。


「こいつは本物だ」

「良かったよ。偽物だったら発狂するところだった」


 万里がいった冗談にやくざは目尻を下げた。そしてビニール袋を秤に載せ、真面目くさった顔になる。


「二キロ強ってところか。ぎりぎり二キロってことにさせて貰うな」

 大雑把というか、それ以上にケチ臭かった。万里は腹を立てたが、そんな感情はおくびにも出さない。ここでぼこぼこにしても得るものは何もないからだ。

「二キロだといくらになるんだ?」と万里は話題を変えた。

「こんくらいだな」

 やくざは指を一本立てた。それは万里を満足させるには十分な額だった。


「確認は済んだろ。おれの口座に入金してくれ」

 無駄な時間を費やす気のない万里は、やくざを急かすようにいった。

「慌てるなよ、もう少し飲んでいこうぜ。こんな隠れ家で飲める機会は滅多にないんだし」


 銚子を手にしたやくざを前に、迷いが生じたものの、それでも彼の気持ちは変わらなかった。やくざには良い思い出がない。彼らの狡猾さを知っているからこそ、取引をさっさと切り上げたかった。実際、万里はこのとき嫌な予感を覚えた。それはデジャビュのように曖昧だが、なぜか心に突き刺さる。この部屋に来てからのことを想起し、彼は答えに気づけた。目の前にいるやくざは、さっきから一度も杯に口をつけていない。瞬間的に気づいた答えは、万里の体を電流のように走った。


「どうして酒を飲んでないんだ?」

 咄嗟に出た言葉は荒々しいものになったが、やくざはエナメルのように真っ白な歯を見せた。すると先ほど感じた予感は勘違いではなかったことが明らかになる。


 なぜならその次の瞬間、万里は自分の意識が遠のくのを感じたからだ。体が急にだるくなり、その速度はびっくりするほど早かった。もう一度質問を放とうとしたがろれつがまわらない。重くなった瞼が秒速で落ちてくる。


 そんな万里を見つめながら、相好を崩したやくざが大口を開けながらいった。

「素人がヤクを現金化しようとするなんざ、生意気なんだよ。うちらのブツをちょろまかしといて、警察にチクるより痛いめ見せてやる」

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