結論からいうと、米田との交渉は首尾よく終わった。万里の完勝だといって良い。


 彼はマンションの管理人を引き継いでくれたら借金をチャラにしてやるといった。そして米田の借金額を確認した。米田はいかにも話しづらそうな顔になったが、店の客が騒がしいので気を取り直し、万里に「全部で二百万近くある」と教えてくれた。ギャンブルでこさえた借金らしく「少しずつ返しているが、なかなか終わらないんだ」と愚痴もこぼした。


 問題の駆け引きはここからだった。万里は「契約金を二百万用意できる。ただし条件がある」といった。米田は美味しい話に目の色を変えたが、不審な点も感じたのか「普通契約金なんてないよな。条件って何だよ?」と半信半疑でいった。万里はしばらく押し黙って烏龍ハイを飲んだ。他の客を見まわし、聞かれてはいけない話をする前準備のようなしぐさを見せた。米田を焦らす意味もあり、実際すぐに「なぁ、教えてくれよ。条件って何だ?」と急き立てるようなことをいわれた。


 万里は獲物に食いついた相手を真顔で見つめ「やばいことなんだけどな。危険なめに遭いたくなければここで断ってくれないか」とつぶやいた。しかし一度食いついた米田は引き下がるわけがない。

「ちょっとくらい危ない橋を渡っても平気だぜ。こう見えていろいろやってきた」と自慢げに胸を張った。


「わかった」と万里はいい、ついに覚醒剤を買い取ってくれる人を紹介して欲しいと願い出た。嫌がるそぶりを見せるかと思いきや、米田は「ふうん、そんなことか」と強がりをいった。裏社会に通じている自分を誇ってみせたのだろう。しかも大金まで貰える。万里に恩を売って良い気分にもなれる。そんな心境が手にとるようにわかり、万里は笑うしかなかった。


 はじめから覚醒剤の密売を持ちかけたら、犯罪の片棒を担ぐことに抵抗感を抱かせたかもしれない。そこは万里の戦略勝ちだった。半分自分のものになった二百万円を手放すほど米田は倫理観のある人間ではなかった。そこは蓋を開けるまで心配な部分でもあったが、杞憂にすぎなかった。万里は首筋に感じていた冷たい感覚を払いのけ、米田の口から詳しい話を聞きだした。


「じつはヤクの取引から手を引いた組が多いんだ。黒戸って野郎がいなくなった中国人が廉価販売をはじめたらしいんだよ。だからここ最近は価格が暴落。まあそれでも、キロ単位の取引をするところはゼロじゃない。津田組って知ってるだろ。この街で幅を利かせてる有名な組織だ。おれはそこの組員から金を借りてこのザマなわけだが、このご時世にもかかわらず金まわりは抜群に良い。そして中国人に負けじとヤクの取引でもめだってる。若頭の神崎さんって人が取引全体を仕切ってる。連絡先を教えるだけじゃ何だから、おれから神崎さんに話をつけといてやるよ。神崎さんの舎弟たちが相手をしてくれると思う。ただし、足元見られるとだいぶ安く買い叩かれるぜ。そのへんは覚悟しときな」


 万里は米田のいったことを信用し、神崎というやくざの携帯番号を手に入れる。一週間後に連絡を入れた頃には根回しは済んでいるといわれた。

 用事が終わると長居は無用とばかりに店を出て、米田と別れた。最後に交わした会話はこんな感じだった。


「ところで米田さん、その神崎って人に子どもはいないか? もし知ってたら教えてくれよ」

「一人娘がいるぜ」

「名前は?」

「美緒ちゃんっていうんだが、そのうち婿養子を貰ってそいつが後を継ぐみたいだな。神崎さんとしても苦渋の選択だろうけど、あの人は表のビジネスも手広いから」


 米田と別れた万里は、すぐに自宅へと戻らなかった。彼は急に美緒と会いたくなった。隣街に住んでいるということ以外、詳しいことは知らないが、美緒の美しい顔が見たくて堪らなくなった。


 大金の獲得はまだ絵に描いた餅のようなもので、有頂天になるわけにはいかない。だが金を手に入れる確信を得たのは間違いなく、そうなるとこれまで引け目を感じていた美緒との関係に変化が現れる。仲を深める勇気が俄然湧いてきたのだ。


 徒歩で行けない距離でもないため、万里は隣街にむかって歩き出す。途中でコンビニに寄り、アルコール度数の高い酎ハイを買い、歩きながら飲んだ。思ったほど酔いがまわらないため、携帯で電話をかけることにする。どちらにしろ万里は緊張と無縁だ。これまで邪魔だったのは劣等感にほかならない。それをどかしたいま、尻込みする余地はなかった。


『先生、どうしたの?』

 美緒は少し驚いたような声で電話に出た。

「これからきみの家に行こうと思うんだ。あれからストーカーは?」

『うん、そっちは平気だけど。これから来るって先生どうしたんですか。授業は来週でしょ』

「そうなんだけど、急に会いたくなった。だめかな?」

『だめってことはないですよ。ただそんなそぶりなかったし、あまりに唐突でびっくりしてます』

 言葉どおり、美緒の声は若干震えていた。驚いたというのは嘘ではないのだろう。

「やっぱりタクシー使うわ。きみの住所教えて」

 忙しなくいった万里に、美緒は慌てて答えた。最後に口にした建物はこのあたりでも家賃の高さで知られるタワーマンションだった。

「ご家族で住んでるの?」とタクシーを停車させて万里が聞いた。

『いえ、わたし一人です。生活力を身につけろってお父さんが』


 生活力を養わせるためにタワーマンションを貸し与える親と、それを異常と思わない美緒の疎さに万里は笑った。彼は乗り込んだタクシーの運転手に行き先を告げ、後部座席に沈み込んだ。スマートフォンは手放さずにだ。


「きみの新作短編、良かったよ。面白く読ませて貰った」

『本当ですか?』

 美緒の声色が一変した。相当な力作だったことが窺い知れる。

「お世辞ではないよ。前回は長編でいささか大河ドラマじみたストーリー展開だったけど、利用するモチーフを絞り込んで、性的な違和とセックスの不能性、そして一本通った芯としての就職活動。無駄のない文章も相俟って出来は良かったと思う。きみはしばらく短いものを書いたほうがいいのかもしれない」


『それは自分でも感じました。前は私小説にする要素を満載した結果、窮屈な文章になっていたのかもしれません。書きたいことは変わらないので、先生の助言に従いますね』

「従うなんて受け身にならなくて良いよ。きみはもうしっかりと書くべきことを掴んでいる。あとはどれだけ磨きをかけられるかだと思う。新作短編は新人賞にも送りなよ。〆切が近いやつを選んで」


 長話はあとでもやれるため、万里はそこで通話を切った。彼は美緒の書いた短編を思い出す。その副主人公として登場する男性は間違いなく万里がモデルになっていた。女装しても不十分にしか勃起しない、普通のセックスから疎外された人物。


 しかしそこには勘違いも含まれている。万里は女装をすることで性欲は刺激されるが、それでも勃起に到ることはなく、ユミコを相手にしても女どうしの交わりしかできない。


 これから自宅にむかうことを考えれば、万里が美緒に好意を寄せ、肉体的な関係を結びたがっていると想像するのは難しくない。美緒はそのとき、万里の不能が小説に描いたものより深刻であることを甘受できるだろうか。性に違和を持つ人間でも、べつの違和を持つ相手を受けとめるのは簡単ではない。


 教えられたタワーマンションにはあっという間に着き、タクシーを降車した万里は、マンションの自動ドアをくぐってだだっ広いエントランスを進む。ちょっとした歩道のような空間は間接照明が施されており、大理石のうえに豪勢な花が生けてある。


 施錠されたドアの前に着き、記憶した部屋番号を入力しながら万里はコールボタンを押した。カメラ付きのインターフォンで彼の姿を確認したのか、ドアが静かに開き、万里は四台もあるエレベーターの一つに乗った。


 美緒の部屋は四十六階らしいが、それはこのマンションの最上階だった。話には聞いていたが、彼女の実家はただの金持ちではない。正直なところ、万里の予想をはるかに越えている。


 エレベーターで上昇する間、彼は先ほど読んだ短編をふたたび想起する。あの原稿に出てくる主人公は、最後に特殊な関係を結んだ男性を捨て、彼の弱みだけをつまみ食いしつつ社会から脱落する。そのへんのくだりは小説を面白くさせ、リアリティを増すために採用されたものなのか。それとも美緒の本心に相当するのだろうか。


 万里は教え子と恋愛する障害を取り払ったものの、いざ心を開こうとする段になると不安を覚えはじめた。それはタクシーに乗っているときから感じていた。自分が恋愛感情を告げても相手に裏切られるのではないか。そんな気持ちが拭えない。最初から女装した男を相手にする気でいたユミコとは違うのだ。仕事でないから我慢する必要もないし、気持ちが悪いと感じてしまったらそこで終わりだろう。


 目的のフロアにたどり着き、万里は一つしかないドアの前に立ってアンティークのような金属の呼び鈴を鳴らした。落ち着かないので天井を見上げたが、美緒はすぐに出てきた。

「こんばんは。何もない部屋ですが、上がって下さい」


 万里は靴を脱いで、玄関から廊下を進み、美緒のあとについて行きながらリビングに案内された。玄関だけで万里の仕事部屋より広かったが、リビングは自宅の広さをさらに凌駕していた。度肝を抜かれた彼はどこに落ち着けばいいのかまったくわからなかった。


「そのへんのソファに座って下さい。お茶を出しますから」


 万里は部屋を見まわすが、ソファは全部で六つあり、それぞれべつの目的に使うためのものに見えた。すべての壁には絵画が飾られ、美術館の一室といわれても違和感はない。一瞬迷いながらではあるが、巨大なテレビに近い場所を選び、困惑した顔で座り込む。


 美緒の用意したお茶はすぐに配膳された。あらかじめ準備がなされていたのだろう。お茶といっても万里がよく飲む烏龍茶ではない。値段の想像もつかないティーカップに注がれた紅茶だ。手短に礼をいって口にすると、高貴な香りがふんわり広がった。高貴な香りなるものをはじめて味わったかもしれない。


 美緒は万里の正面にあるソファに座り、前屈みになった。話したいことがあるのを抑えているように見える。


「何かいいたいことがあるみたいだね。遠慮なく話してくれ」と万里はいった。そして美緒が応じるそぶりを見せる前に、肘掛けに頬杖をついてこう続けた。

「最初にいっておきたいんだけど、心変わりが起きたんだ。きみが好意のようなものを垣間見せてくれたにもかかわらず、おれはその気持ちに応える気はなかった。けれど事情が変わった。父親の財産の一部を生前贈与されることになって、まとまった金が手に入った。呆れるかもしれないが、おれは自分が小説に没頭するあまり、社会的地位を失っていることを恥じていた。だからきみとの距離を縮める気持ちにはなれなかった。男ってそういうものなんだよ。女装はするけど、心は男性のままなんだ。でもさ、それだときみの相手をするには不十分だろう? だから体を完全な女にすれば、心も変わると感じた。おれのたどり着いた答えに同意して貰えるかな」


 万里は瞳を動かさず、美緒の目をじっと見た。彼女は「それ、本気ですか?」と聞いてきた。


「もちろん。ここに来るまで悩んだけど」と万里は答えた。

 美緒は言葉を失ったように黙りこくったが、斜め上を見ていた視線を戻し、くぐもった声でいった。

「わたしは先生が完璧な女性になることまでは望んでいません。問題はむしろべつにあります。先日講評して貰った長編に婿養子を貰うくだりが出てきたのを覚えてますか? あれ本当の話なんです」


 思いつめた表情だが、美緒は目線を逸らさず唇を引き結んだ。万里は米田から美緒の裏話を聞いていたため、「そんな気はしていた」と頷きながら応じた。


「だったら話は早いですね。先生と結ばれてしまったら、わたしはあなたを拘束してしまうことになる。しかもうちの実家は普通の家じゃないんです。そんな事情があるのに先生を好きになったのは軽はずみなことだと理解してますが、気持ちに嘘はつけません。先生に迷惑をかけてしまうかもしれないのに、それでもわたしを好きでいてくれますか?」


 美緒の話は段々核心へと近づいていく。


「勇気が要る気はしていた」と万里は息苦しそうにいう。そしてすぐに次の言葉を継ぐ。

「神崎美緒。きみが津田組の若頭である神崎って男の娘だとついさっき知った。同一人物だとあたりをつけたけど、勘違いでないかどうか教えて欲しい。たとえ本当でもおれの気持ちは変わらない」


 まっすぐ踏み込んだ万里に対し、姿勢を変えずに美緒が答える。

「そのとおりです。だれから聞いたんですか?」

「偶然なんだけど。以前、通いつめていた風俗店の店長が教えてくれた」

「そうなんだ。秘密がバレるときって呆気ないんですね」と美緒はつぶやいた。


 万里にとってその発言は心を揺さぶるものがあった。婿養子になるか否か。心の乱れを感じとりながら、ひりつくような会話を続けた。

「おれも正直、答えが見えてない。考える時間が欲しい。ただ、選択肢は用意してある。やくざになること自体は半分仕方ない。その一方でべつの道もあると思っている。ちょうどシンガポールに友人がいるんだ。彼を頼って国外に逃げるのも悪くない。ほとぼりが冷めた頃に帰国すれば、きみはやくざである父親と縁を切り、自由になれる。もしやくざの娘であることを捨てられないなら、こっちの選択肢はとれないことになるけど」


「先生が真剣に考えて下さっているのはわかりました」と美緒はいった。

「そのうえで本心を明かすと、わたしはどちらでも構いません。先生の決めたことを受け入れたいと思います」

「なるほど、よくわかったよ、きみの気持ちが。幸いなことにおれたちはだいたい同じ方向を見ている。責任を背負う覚悟はついた」


 そこまでいうと万里は立ち上がり、美緒の座るソファに移動した。彼女はろくに性体験を有していないらしく、こわばった顔で怯えるようなしぐさを見せた。万里はそんな美緒と手をつなぎ、落ち着きを取り戻すまで距離を空け、やがて不安げな表情を解いた彼女を自分の体へと引き込んだ。

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