第六章
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念入りな女装をし、高価なメイク道具を用いて磨きをかけた。万里がそうする理由は美しくなると自分の強度も向上した気になり、いたく満足するからだ。それは錯覚なのだが、本人が思い込んでいれば、実際に戦闘力は増すだろう。人間は信仰で強くなる。その理屈は十字軍や一向一揆の頃と変わっていない。
風俗店の元店長こと米田イクオをどこに呼び出すか迷った。自宅に招くという手もあったが、女物の服やメイク道具の散乱する部屋に来て、平静を保っていられるのはユミコくらいだろう。中国料理の店も検討したが、ああいう店は料理を食べにいく場所だ。疾しい話をするには不適格だ。もっと騒々しいところが良い。こちらの会話を邪魔するくらい大きな声のする場所が。
そこまで考えたとき、選択肢は一つに絞られた。先日久しぶりの顔を出したエジルの店だ。 ミックスバーなら普通の人間も肩身を狭くすることなく入れるし、あの店には奥にテーブル席がある。客と店員の騒がしいおしゃべりやカラオケの音量にまぎれて秘密の会話をするにはうってつけの場所ではないか。店の込み具合で微妙になる可能性はなくもないが、そのときは他の店をあたれば良い。この街にあの手の店は腐るほどある。
米田とのアポをとった日、万里は約束の三十分前に入店した。エジルは最初、カウンターの奥に引っ込んでいたらしかった。店員の男の子が烏龍ハイをくれたとき、ラメの入った顔をひょっこり現した。
「あら、りーちゃん。きょうは女の子じゃない。やっぱりあんたにはそれよ、それ」
開店早々にはじけるようなテンションを見せるが、これがエジルの通常運転でもある。万里が少し前に着いたのは美緒の書いた短編を読むためだ。臨時で飛び込んできた住人の世話をしているうちに、せっかく届いた新作を読みそびれてしまった。家で読むより、気持ちの切り替えができる外で読むほうが集中力が増すだろう。そんな腹づもりだったが、実際烏龍ハイを入れると頭が研ぎ澄まされたような感じになった。
エジルは社交辞令で彼の女装を褒めたが、半分は本音だったと思う。水色のセーターに襟高なシャツを合わせ、臙脂色のネクタイを締めている。下はきらきらした生地の焦げ茶色なショートパンツだ。毛皮のついたダッフルコートを脇に置き、ひげのない顔でプリントした原稿を読んでいる。ページをめくる手だけが動き、視線は微動だにしない。
少しして次の客たちが入ってくると、二人席を一人で占領する万里に目をむけた。文句があるのではなく、思わず目を奪われたような顔つきだ。
万里は普段のポニーテールをおろし、セミロングの女性みたいな外見になっている。服装の選び方に男性らしさが出ているが、そのためなおさら性別不明に見えたのだろうか。この店で性のあり方に揺らぎのある客は多いが、万里はきわだっていた。小顔なのでおろした髪が目立ち、金色に染めた髪が薄暗い空間によく映える。
前回恐竜展に行ったとき、美緒は自分の小説を書くうえで悩みがあることを告白した。容姿が美しいとリアリティがないため、万里をモデルにできず、自分自身さえ参考にはできない。それどころか、リアリティを出すために不美人に描く必要すらあるような気がする。こうした悩みを聞き、万里はやりたいようにやったら良いと答えた。それはどんな答えを出しても、おれは必ず認めるというメッセージだ。
改稿は一旦棚に上げ、美緒は万里の指導をもとに短編を書いた。原稿用紙にして百枚あるかないかくらいの分量だが、その短編は密度があり、気軽に読みはじめた万里を大きく揺さぶる力を有していた。
筋書きはこんな感じだった。友人に誘われて合コンに出かけた主人公が少し陰のある男性と出会い、ネットの交流サイトを通じて仲良くなる。男性と主人公はともに美人で、周囲からは美男美女と称され、早くも結婚を期待されるまでになる。ところが主人公は腹部に巨大なあざがあり、男性とのセックスに踏み出せずにいた。他方で男性のほうにも問題があり、彼は女装しないと勃起もできない特異体質の持ち主だった。
さわりを読むだけで、自分と美緒がモデルになっていることに気づいた万里は、美緒のテクニックに感心した。美人という設定はそのままに、互いにコンプレックスを付与することで、普通の性愛関係から疎外された登場人物を自然に描けている。
物語の中盤以降、距離を縮めた二人は普通のセックスを試みるが、男性は中途半端にしか勃起せず、主人公は裸になれなかった。挙句、彼らはセックスには踏み込めなかった。
そんな二人は就活という競争に投げ込まれており、現代が弱肉強食というジャングルの掟が支配した時代であることを端的に描いていた。文章の質も高く、社会人という人種になるべく競争を強いられた主人公たちを悲劇的に描いてた。何しろ主人公の親しくなった男性は性的な違和を抱えるだけでなく、他人とコミュニケーションをとるのが苦手で、五十社以上の面接に落ちるという驚異的な過去を持つ人物だったからだ。
おそらく何かしらの精神疾患を抱えている男性を尻目に、主人公はついに内定を得る。しかしその会社は離職率の高いブラック企業として有名で、彼女は来年から過酷な労働に従事することを回避したくなった。ここでようやく主人公は察するのだった。関係を深めた男性に感じていたのは相手の容姿に抱く恋心だけでなく、社会の選別から滑り落ちることへの羨望だったことに。
男性のためならコンプレックスを乗り越え、セックスができる。そんな気持ちは嘘だった。男性の示す明らかな社会不適合ぶりに自分を重ね、就活から逃げる口実を欲しがっていたのだ。本当は男性が女装することに嫌悪感を覚えており、腹部のあざはセックスを拒むための言い訳にすぎなかった。
主人公は男性に歪んだ感情を持つ自分を認め、内定を辞退する。競争から脱落する人間が、同類を見下す姿は醜かった。しかし本心を自覚した主人公は、それまでの恋を謳歌する自分をかなぐり捨て、終盤に男性を遠ざける。最後は厳しい社会人生活から逃げるように就職活動を放棄してしまった。もう一度べつの企業を受け直すのか、それともニートになるのか、答えは明かされていない。歪な恋の行方も。
男性を振りまわした身勝手さを考慮に入れると、ろくな結末でないことは自明に思えるが、主人公のモデルが美緒なら依然として勝ち組だ。それだけは判然としている。
短編を読み終えた万里が原稿をクリップでとめ、バッグにしまったとき、カウンターのほうから呼びかけられた。
「りーちゃん、お客さんよ」
顔をあげると、カジュアルな格好の男が万里のほうを見つめ、手を挙げると近づいてきた。米田という名前はこの間知ったが、アクアガーデン鹿無木町店に通いつめていたときはしょっちゅう顔を合わせていた男だ、見間違いようはない。
米田は襟の開いたジャケットを脱ぎ、万里の前に腰を下ろした。不思議な柄が織り込まれた緑のロングシャツを着ている。
「お久しぶり。アクアガーデンの常連だとこんな店も顔なじみなんだね」
米田はエジルに渡されたおしぼりで顔を拭き、爽やかな笑顔を見せた。女装をした万里ならいくども目にしたわけで、その反応は何のわざとらしさもなかった。
「先日は電話ありがとう。風俗店の店長探してるんだって? ありがたい話だね。じつは転職した産廃処理の会社が肌に合わなくてさ。もうただの事務屋さんって感じで四六時中書類つくるのが仕事で参っちゃって。新しいとこ探すにも縛りがあってさ、風俗店の店長なら収入は良いし、こっちにも都合が良い。ほんと助かったよ」
エジルに酒を注文し、米田はべらべらとしゃべりはじめた。ユミコの話が本当なら、その産廃処理会社というのがやくざの系列で、おそらくは借金漬けの米田が出向させられた場所なのだろう。風俗店の店長職に興味があることは電話での会話で掴んでいた。そのため、話はすでについているかのような反応だ。もっとも風俗店の仕事を紹介する話は嘘っぱちだ。本当の提案はここからおこなう。
「米田さん、じつは風俗店の仕事は埋まっちゃったんだ」
万里が烏龍ハイを口にしていうと、米田は顔を曇らせた。
「……埋まった?」
「そうなんだよ。先方が話をつけちゃったらしくて。きっと何人か候補がいたんだ」
「まじかよー」
期待していた仕事が奪われ、米田は両手で顔を覆った。芝居には見えず、心底がっかりした様子だ。
「なんだよ、きょう来た意味ないじゃん」
「まあまあ。落ち着いてよ。わざわざ来て貰ったからにはべつの仕事があるんだ。給料はそこそこ良い」
「べつの仕事?」
新たな提案を切り出したが、米田の反応は鈍かった。確認したわけではないが、米田はやくざに借金を返す手前、彼らの指示した仕事に就くか、歩合の良い仕事に就いて返済を楽にするか、どちらかしかないのだろう。このへんの想像はすでについている。だから、べつの仕事というのは、風俗店の店長に就くより見返りの大きいものでなければいけない。
「仕事っていうのはほかでもない、おれがいま管理しているマンションの業務があるんだけど、そんなに長く続かない事情があって後釜を探してるんだ。給料はこのくらい」
万里は指で金額を示し、米田の目を見つめた。管理人の仕事を譲るような話をはじめたのは、目論みどおりに事が進めば万里は小説家として自由になり、タクミのマンションを管理する者をどのみち探すはめになるからだ。
ちょうど米田に酒が運ばれてきたところだった。店の女の子からグラスを渡された米田は、それをテーブルに置き、渋い表情で万里にいう。
「マンションの管理人にしてはなかなかの額だけど、それじゃ風俗店の店長には及ばない。こういっちゃ何だけど、おれは安い仕事ならいまの仕事から移れないんだ。産廃の事務とかクソつまんねぇ仕事だけど、結構な借金があって簡単にやめられないわけ。美味しい話をくれよ、美味しい話をよ」
あてが外れたという感じに米田の口調が乱れはじめる。失望感から来る愚痴のたぐいだが、万里のほうが年下に見えるのでそんなに礼儀を欠いた言葉遣いではない。むしろ万里のほうが、年上の米田に尊大な態度に出ている。
「まあまあ。話は最後まで聞きなよ」と斜に構えた万里がいった。その瞳は、米田の目を覗き込み爛々と輝いていた。
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