第五章

 週明けの月曜日、担当編集者を点心料理店に連れて行った。メールでは伝えきれない思いがあるらしく、顔を出すといわれたからだ。


「これは私見ですが、あなたは物事を体でとらえるときはすごく良いものを書くけれど、頭でとらえるときは自分や世界を狭いものにしてしまうと思うんですよ。本来、頭を体が乗っ取るタイプの書き手だったのに、最近はその逆で、頭に体が乗っ取られてしまい、手も足も出なくなっている印象でした」


 担当編集者はさっきからひっきりなしに話しまくり、合間にプーアル茶を飲みながら、小皿にとった水餃子を摘んでいる。編集者は年齢の近い女性だが、気持ちが先走るときは辛辣で、無礼になる。そんな特徴は理解しているため、万里は細かい作法は気にしない。彼は小籠包を口に詰め込み、顔を前にむけた。編集者は万里の視線など目にも入らない様子で話を続ける。


「本になったものと最近書かれた原稿を比較すると違いは一目瞭然です。自分の変化、ずれ、問題点を正確に意識できる書き手は少なくないですが、あなたはそれが苦手、もしくはご病気のせいで自己把握能力が落ちてしまっているのかもしれません。なので、ご自分の力で問題点を自覚し、乗り越えて貰うために、心を鬼にしてボツにしました。闘病というおつらい体験を題材に、心の弱さとむきあって書いた長編をボツにするのは心苦しいものがありました。でもそれを通してしまうと、あなたの良いところは出ません。こういっては何ですが、弱さを通じて善に目覚めてしまった転向者を描いてほしくはないんです。まだご病気からの回復期にあるとお聞きしてますが、改善すればするほど、きっと本来の姿を取り戻していかれると思います。書き手はブランクが空くと挽回するのに焦りますが、そういう窮屈な心の働きにとらわれないで下さい。わたしが見たいのは、悪に染まらないと生きられない世界で、だれよりも悪目立ちしてぎらぎらした光を放つ主人公の姿です。それと対比的に自分の女性性に戸惑い、苦しむ、等身大な人間の姿です。


 頂いたメールには主人公の容姿について悩んでおられたというくだりがありましたけど、それも弱者を物差しにするから引っかかるのです。あなたの処女作はとりたてて主人公の容姿について言及はなかったと記憶してますが、それでも文章から滲み出る美がありました。強い者は同時に美しいと強烈な自己主張がされていました。読者が見たいのはそこですよ。あなたは弱者のために存在する文学からはみ出た存在でいて貰いたいし、そうする資格のある方です。こういっては何ですが、わたし自身、たくさんの書き手とお仕事をしてきましたが、あなたほど容姿に恵まれた書き手に出会ったことはありません。最初会ったときは芸能人かと思いました。そういった方が月並みな弱さにとらわれてしまうのも確かに人間でしょう。でもこう考えてみて下さい。弱さは沼なんです。その沼が底なしであることに読者は期待します。底に沈んでしまうかもしれないというサスペンスに人は震えるのです。けれどあなたのような人間は、沼に浸かっても沈んでしまうことはないでしょう。どんなことをしても生存するタフさを保持しているからです。でもそれは、沼を舞台にくり広げられるドラマとしては物足りないものになりますよね、絶対に沈むことはないのですから。社会に居場所を喪失しても、その両手にはまだ誇るべきものが残っている。それがあなたの実像です。沼に浸かった両足と両手に残った誇り、どちらに焦点をあてるべきか自明ですよね」


 編集者と会うきっかけになったのは、万里が自分ではなく黒戸をモデルにした主人公を描きたいと伝えたからだ。


 彼を担当している女性編集者は小説を読む力には抜きん出たものがあり、自己探求の道具として小説にむきあいはじめた万里とは出発点の異なる相手だった。万里としても我流で文学を把握していったという自負もあるため、たかだか小説読みごときが偉そうにすることを不快に思っていた。指摘された点が的外れならべつの出版社に移ることも視野に入れたと思う。だが彼の担当になった女性は人並みはずれた情熱があり、それは普段やり取りするメールにおいても顕著だった。実際万里が課題をクリアするとこうしてわざわざ会いに来て、いままで溜めていた鬱憤を晴らすように熱い気持ちをぶつけてくる。

「それにしても、ここの点心はべらぼうに美味しいですね。確か処女作に出てきた店ですよね。良いお店を知っているのは良い書き手の条件ですよ。消費社会における書き手はお店と読者をつなぐハブみたいなものですからね。美味しい点心がちょっと描かれるだけで書き手の背中が垣間見えるし、何より登場人物に彩りを与える。ご病気で引きこもっていたときの原稿だと、コンビニ弁当ばかり食べてニートと変わりませんでした。それではあなたの顔が見えません。ニートはニートでその道のプロがいますから、あなたが戦おうとしてもそうやすやすと勝てる相手ではないのです」


 担当編集者はネット越しでもそれとわかるほど生意気な女だったが、実物は拍車がかかっている。だが彼女のいうことはおおむね正しいので、原稿をボツにされたこと以外腹を立てたことはない。


 それでも彼は、自分が著作に出した店と読み手をつなげるハブだと思ったことは一度もない。確かにグルメ雑誌に載らないすぐれた店を知っているのは万里の取り柄だし、登場人物の身につけるブランドに執着する書き手と根本的に変わらない。消費社会に生きている以上、それは逃れられないだろう。ただそれでも、万里が世俗的な価値に関心を払ってこなかったのは否定できない。


 彼がもし名誉や金に固執する人間なら、小説が本になっても料理人は続け、自分の店を持つまでになったことは間違いないだろう。そうすればいま頃、ひと財産築き、美緒と出会っても社会的地位の無さに劣等感を抱くことはなかったはずだ。裏を返せば、万里を小説執筆に追い込んだ性的な違和はそれほどまでに大きかったわけだ。そんなものを追求しようとしなければ、精神を病むこともなく、貧乏になることもなかった。しかし小説を書いていなければ、美緒と出会うことがなかったのもまた事実だ。


「早ければ今月中にもプロット出して下さい。楽しみにしてますんで」


 編集者はそういい残し、トレンチコートを翻して最寄り駅の方角へと消えた。彼女を見送るかたちになった万里は一応礼をして、ぶらぶら歩きながら自宅へと戻った。


 ちなみに彼は、編集者との打ち合わせに女装で臨んでいた。襟の高いグレーの冬用コートで、裾の広がりと手触りの良い生地が気に入っている。編集者は女装を見ても驚かず、指摘もしなかった。これまでの作品でいくども女装を描いてきたため、万里は一風変わった書き手として出版社では有名らしく、それを知っているから彼自身、男物のスーツなどは着てこなかった。


 インナーはお気に入りの白いセーターだった。前は開け、タータンチェックのスカートが見えている。編集者を連れて行った店から自宅までは少し歩く。


 底冷えのする日だった。昼になっても雪でも降り出しそうな曇天が続き、太陽は出てこない。空を覆う分厚い雲から冷気が放射され、地上が冷やさ続けているような一日だ。万里は毛皮のついたダッフルコートを着てくるべきだったと後悔し、それでもインナーを露出させる格好は続け、二十分近く歩き、自宅前の道にたどり着いた。マンションの門をくぐった途端、ドアを開けてエントランスに飛び込む。


 そこで住人と出会った。見知った顔ではない。どこの国の人間かもわからない。浅黒い肌をしていることだけがわかった。住人の知り合いだろうか。万里は少し険しい目をして男の横を通り過ぎる。

 口ひげを弛ませ、その男がいった。


「ヘンタイ」


 聞き間違いだろうか。万里は耳を疑った。変態。男は確かにそういった。他の言葉には変換されない。

「おい待て。いまなんていった?」


 ドアに向かおうとした男の襟首を掴まえ、万里はエントランスに引き入れた。猛烈な力だ。ダウンジャケットが破けそうな勢いで地べたに這いつくばらせた。男は意表を突かれたのか、抵抗する余地はなかった。


 万里は、編集者に次回作の方向性を理解して貰い、第一段階を突破したおかげでそれなりに気分が良かった。少なくともイライラが募り、怒りのはけ口を求める心境ではない。とはいえ女装した姿を愚弄されて平気でいられるわけもない。彼の女装は本気を出せばバレない自信があった。ユミコもそういっていた。だがごく一部に、男と女を嗅覚のようなもので嗅ぎ分ける人間がいるらしい。あまり経験はないが、万里ははっきり覚えている。まだ料理人をしていた頃、店の客に見破られたことがある。精神病院でも同じような目に遭った。退院してからこのマンションに移るとき、日本人の住人に笑われた。どの場面でも一発でバレた。他の連中は余裕で騙し通せているのに。


 屈辱というほど大げさなものではないが、気が済むまでぼこぼこにした。浅黒い男はこぶしを打ち下ろすたび、セックスで喘ぐときのような声を苦しげに発した。気持ちが悪かったので、万里は管理人室から雑巾を持ってきて、男の口に無理やり詰め込んだ。その状態で腹を殴ると、男は雑巾を吐き出し、一緒に昼に食ったものの吐瀉物を廊下に撒き散らした。


 自業自得だが、万里は自分の仕事を増やしてしまった。一応手加減したのと、相手も万里に悪口をいったという自覚があったためか、浅黒い男は恨みがましいことはいわず、マンションから這うように逃げていった。


 万里は自宅で作業着に着替え、吐瀉物を掃除した。はじめての経験ではなかったので、手際は良かった。固形物をべつに集め、残りをモップで拭き、仕上げに雑巾をかけた。


 作業が終わったとき、万里は気分が悪かった。悪いことが一つ起きると、それと無関係なものまで引き出され、不安や怒りがこみ上げてくる。部屋に戻って洗面所で念入りに手洗いし、こたつ机に座り込んだ。ふと見ると、机の上にたばこが置いてあった。ユミコが忘れていったものだろうか。


 何ともいいがたい不快な感情を晴らすため、万里はたばこに手を伸ばした。ライターはなかったので、コンロに火をつける着火器具を用いた。


 たばこをはじめて吸ったのはタクミに勧められたからだが、煙臭いばかりでとうてい人間の嗜むものとは思えなかった。それでも料理人見習いの頃、厳しい修行の最中に当時の先輩に「一本吸えよ」といわれ、貰ったことがある。そのときは確かに、疲労と怒りが入り混じった感情を丸くさせる作用があることを知り、たばこの効用をはじめて理解した。それ以来、気が滅入ったときなど、何となく吸うことがある。普段吸わないのは、たばこを吸う人間の口臭があまり好きではないからだ。ユミコとキスするときも、彼女からたばこの匂いを感じ、気分が萎えるときがある。


 煙を深くまで吸い込み、大きく吐き出す。それだけで気分が落ち着く。女装をバカにされたことも、吐瀉物を掃除させられたことも、それ以外の諸々も、すべて煙となって吐き出す。あとには穏やかな気分が小さく広がり、ミニチュアの世界が晴れ渡る。


 ユミコのために用意した灰皿にたばこを置くと、チャイムが鳴った。万里は大声で応えながら玄関にむかった。インターフォンはついているが、彼は使わない。防犯器具を必要とするほど弱くないし、危険な相手か否かは自分の目で確かめたいからだ。


 万里がもう一度応じると「宅急便です」という声が聞こえた。ドアスコープを覗くと、確かに宅急便会社の制服を着た男がいる。


 ドアを開けると配達員はサインも求めずそそくさと立ち去った。手渡されたのは二十センチ四方程度の小包だ。万里は普段、置き配を指定しているのでそのやり取り自体に何とも思わなかったが、他方で釈然としない顔で小包を見た。


 不可解に思ったのは、ネット通販などを利用した覚えがないことだ。嫌な気持ちがしたのは、彼自身の勘が良いことにくわえ、つねに住人を監視していたせいでもある。ひょっとしたらと思い小包の宛名を見ると、案の定万里の姓名ではなかった。それどころか、受取人の表記は日本語ですらなく、謎の文字が書き連ねてある。だが住所を見ると、末尾には万里の部屋番号がしるしてあった。


 書き間違いではないか、と彼は思った。そうでなければ宛先と受取人が食い違うはずがない。ここで何事もなければ、同じフロアに住む人々に声をかけ、本来の受取人を探すのが筋だろう。しかし万里はそうしようと思わなかった。なぜならその小包の質感に見覚えがあり、なおかつだいぶ重量があったからだ。いちばん似たものは砂糖や塩のパックだ。それくらい小包はずっしりしているし、指で押すとわずかにめりこむ。


 そこまで思考を進めると、頭のなかで警報が鳴った。パトカーのサイレンに近い音だ。いくら勘が良くても普通は開封はためらう。しかし万里は普通の人間ではなかったので、文具箱からカッターを取り出してきて、小包を開きはじめた。本来の受取人に渡してはならない、その是非を確認するためにもなかを調べる必要があると思った。


 小包は厳重に、何重にも梱包がされており、中身にたどり着くまで手間がかかった。その中身は既視感があった。やはり砂糖や塩に似ている。心持ち軽い気もするが、真っ白な粉末が小分けされたビニールに入っていた。何となくだが、五百グラム程度の袋が四つある。どうりで重かったわけだが、塩や砂糖にしては軽い。


 とはいえその重さには異なる意味があった。やや比重の軽い白い粉たち。そういったものを以前、手にしたことがある。


 万里は自分の住むフロアの住人を一人ずつ思い返す。隣にタイ人、その隣に韓国人が住んでいる。もう一つは空き部屋だ。ふたたび小包の宛名を見ると、汚い文字だが、タイ語の綴りといわれたらそう見えるし、崩れたハングルだといわれたらそう見えなくもない。


 覚醒剤の密輸に関わりそうな連中を万里は思い浮かべる。タイ人の密輸も知っているし、韓国人が関与した件も聞いたことがある。どっちでも可能性はありそうだ。問題はそんな代物が管理人である自分の家に誤配されたこと。本来の受取人を調べるべきだが、万里はそう思わなかった。罪悪感と無縁な彼は表情を消し、焦点の合わない目でくすりと笑った。

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