「解決策といってもシンプルなんです。主人公は婿養子を迎えるんですが、付き合っている女性とは不倫というかたちで関係を残すんです。これもまた一つの答えなのかなって」


 美緒は聞き分けの良い生徒のように真面目くさった顔をして語るが、万里は自分が穏やかな表情を維持できているか不安になった。結論からいえば、彼は思ったのだ。美緒はもう自分を必要としなくなったと。なぜなら一方で婿養子に普通の男を迎え、他方で交際する女性が存在するなら、自分のような疎外された人間の入る余地はないからだ。しいていえば女性という立場を手に入れることは可能だろうが、美緒は自分にそれを強いるつもりなのか。さもなければ、先日バーで口走った好意を撤回する気なのではないか。


 万里は美緒との関係を頭痛の種くらいにしか思ってなかったが、間接的にせよ拒絶されるのは結構堪えた。理由も不明である以上、なおさらだ。


 遠回りな会話をしても中心から遠ざかる。万里はカプチーノを飲み、美緒の目を見据えた。


「二つの問題を解離させるというアイデアは、賛否両論あるだろうね。リアリティがあると感じる人がいれば、たんなる逃避と捉える人もいる。おれはどっちの意見もわかる気がするし、きみがいう方向性で改稿するなら止める気はない。ただ一つ気になるのは」


 動かない瞳は不気味なので、万里はわざと目を細めていった。


「気になるのは、いまのアイデアが持つメタ的なメッセージかな。きょうはできることなら踏み込まずにすごそうとしたんだけど、先日のバーできみはおれに対し好意を口にした。勘違いでなければ、それなりに本気だったように感じた。けれどいまの提案では、正常な婿養子と同性愛の女性を両立させるかたちで主人公の人生が再起動する。そこにおれの居場所はないと思っていいのかな?」


 言葉を選んでいったが、万里のなかでは屈辱的な思いが渦巻いている。彼は軽いはずみで暴力を振るえる人間だから、答え方が悪ければ美緒のことを引っ叩いてもおかしくはない。だが彼女は、万里の苛立ちと比較し、やけに平然としていた。


「居場所がないなんてことはないですよ。そうじゃなくて、先生の存在を取り込んで改稿しようとしたんですが、先生が美人すぎてリアリティがないことに気づいたんです。最近の文学ってエンタメ以外で美人は出てこないじゃないですか。これは先生を盛り込んだら明らかに浮いちゃうなと」


 言葉こそ敬語だが、友人と語るような口調で美緒はいった。ストーカーが頭から飛

んでリラックスしはじめたのかもしれない。これに対し万里は、自分の疎外感が考え過ぎだったことに気づく。それはじつに子どもじみた感情で、あらためて考えるに羞恥心が湧いた。


「思い過ごしだったってことかな。でも、もしそうなら、きみが描く主人公もリアリティがないんじゃないか。確か美人って設定だったはずだろ」

「うーん、そこなんですよね。自分をモデルにしていると、どこまで嘘を吐いていいかわからなくなって。ほとんど言及してないはずですが、やはり不美人だと強調すべきなのでしょうか」


 デリケートな話題に触れたばかりだが、小説のことになると意識が切り替わるらしい。万里も怒りが冷めたので美緒との関係はふたたび棚上げできた。そのぶん、彼女の技術的な課題に集中できた。


「美人がなぜだめか、きみはリアリティがないっていったけど、ようするに読者の共感を集めないことが大きいんだ。共感を集めようとしたら、容姿をスキップするか、あるいは偏差値でいうと五十以下に設定するか、どっちかになる。もっともきみと同じで、おれもこの問題を頭でしか理解してない。でも避けられない問題でもある。なぜだと思う?」


 質問が来るとは思っていなかったのか、美緒は一瞬驚きを見せた。目を丸くする彼女は珍しい。


「理由までは考えたことなかったですね、たんにリアリティがないとしか」

「少し大きな話になるけれど、現代文学の何たるかを考えれば答えはわかる」

 万里は考え込んだ美緒をしばらく見つめ、答えが出なそうだとわかった頃合いに回答を口にした。


「すぐれた現代文学は弱者のためにあるんだよ。容姿に劣る人は現代社会で割を食う運命のもとに生まれてしまった。そんな人間のリアルを追求することには救済の意味があるんだ。少なくとも苦しみの告発ではあるだろう」


 万里は自分が小説というものを突き詰めた結果、会得するに到った知見を語った。大学で文学論を学んだわけではなく、それは彼オリジナルな見解だった。これがもし一方的な授業だったら、師が弟子に答えを教え、それでひと段落つくはずだった。しかし万里の権威はそこまで強くなく、美緒が釈然としないとき、どんなことが起きるか。たとえ師の教えでも反駁に遭う。


「どうなんでしょう。確かにいろいろなかたちで弱者のモチーフが取り入れられているのは理解してますけど、わたしは一応同性愛者です。それもマイノリティの一種という意味では、弱者の一部に含まれる気がするんですけど」

「確かにそのとおりだね。でもきみの実家は裕福で、そこに美人という要素がくわわると強者としての印象が強く出る」


 万里は穏便に切り返すが、美緒は合点がいかなかったようだ。


「わたしが弱者として不十分だから、自分を描けないのは納得がいきません。リアリティがないから不美人に設定すべきという話も、正直腑に落ちません。子どもがごねるみたいになりますけど、弱者として保護されず、弱肉強食の世界に放り込まれた人間、救うべき対象としてカウントされず、自力で救済しないと浮かばれない人間はすぐれた小説の題材になりえないのでしょうか。わたしの意識では、自分もひとりの弱者だと思っています。そんな自分を余すところなく題材にしたい」


 声こそ小さいが、美緒の自己主張はかなり激しいものだった。そのことを彼女自身、自覚しているのか、キャラメルラテに唇をつけ、猫背になった。正論を述べた矢先に申し訳なさを感じている。世間の常識に歯向かうと、人はおうおうにして居たたまれなくなる。だれかがそれを肯定しないかぎり、常識を奉じる多くの人に対し喧嘩を売ることになるわけだから当然だ。さしずめ美緒は万里の反応を恐れている。現代文学の意義を説いた直後、それに反する意見を口にした生徒は叱責されても仕方ない。いくら万里に権威がなくても、それが教師と生徒の関係性だ。


「なるほどね、弱ったな……」と万里は率直な気持ちを洩らした。


 教師はルールやメソッドを教える者だが、それに反することは論理的にありうる。自分の教えにしたがったほうが良い結果を掴めると思えばこそ、万里は自分の小説観を述べた。それは一種の功利主義だが、当然のことながらすべての領域をカバーできるわけではない。一か八か、自分の全存在を投げうって功利に反するのは自由だ。そしてそれが不成功に終わると決まっているわけではない。そこまで含み込んだうえで、万里は美緒の考えを肯定にすることにした。少なくとも、否定しないことにした。


「おれの意見が絶対ってわけじゃない。きみに信念があるなら、やりたいようにやれば良いと思うよ」


 そっけなくいったから鼻であしらわれた気がするかもしれない。だが万里は、その言葉に深い思いを込め、同じような問題に直面した仲間を激励するような気持ちでいった。それが美緒に届くことを信じて。


「最後に書くのはわたしですし。でも挑戦するチャンスがあることを知れたし、先生に話して良かったです」


 美緒は思いつめたような顔だったが、急に清々しい雰囲気を放った。そういう変化ができることに万里は驚いた。ひと言でいえば若さだ。それはもう、彼のなかにはないものだ。


 若さが持つ特権について言及してやろうと思ったときだ。万里は美緒の背中越しにベンチコートを着た人物が見えた。思わず息をのんだし、目は釘づけになった。間違いない、灰色のベンチコートがレジで飲み物を注文している。黒いキャップをかぶっており、背格好も高く見えないため男女の区別はつかないが、ついに敵の尻尾を掴んだ。


「先生、次の授業は海外に行きませんか? わたしパスポート持ってますし、韓国とか台湾なら日帰りでも行けるし」


 重苦しい空気が晴れた途端、いまどきの女子大生みたいなことをいいはじめる美緒をよそに、万里は立ち上がってレジにむかった。事態の急変に気づいたのか、美緒が振り返った。ベンチコートを着た人間はレジの注文に手間取っているようだったが、万里が接近してきたのを見て体をのけぞらせた。異様な殺気に気づいたのだ。


「お前、さっきおれたちのことじろじろ見てたよな。日本語話せるんだろ、何とかいえよ」


 万里は相手が中国人か日本人か判別するために絡んだ。ベンチコートは彼の迫力に押され、レジでの注文どころではなくなったのか、数歩後退ってカフェの自動ドアから外に出た。その様子を見た万里は相手を逃すまいと、すぐに距離をつめてベンチコートの襟に手をかけた。相手がストーカーではなく、ベンチコートを着ているだけの無関係な人物だったら、万里のとった行動は暴行になる。


 しかし彼には確信があった。掴んだ襟をひねり、そのまま体重をかけて近くの壁に押しつけた。万里は威圧のために顔を近づけるが、この段になってようやく相手の性別がわかった。骨張った顔の若い男だ。


「お前、さっき恐竜展でおれたちのこと見てたよな。答えないとストーカーとして警察に突き出すぞ」

 万里は八百屋でトマトを買うような口調で話しかけたが、ベンチコートの男は首を横に振り、自分に非がないと懸命にアピールした。

「だれかの差し金か?」と万里は聞いた。

「ち、違えよ」


 男の返事はきれいな発音で、中国人と断定するには材料に乏しかった。在留経験が長かったり、もともと日本出身の中国人は現地人と遜色ない日本語を操る。


「なぁ、黒戸って野郎を知ってるか?」


 万里が軽くこぶしをぶつけて脅しつけると、ベンチコートの男は首を振った。しかしその見え透いた反応から、黒戸については知っているように見えた。街の裏社会を知りうる立場にいるわけだ。


「日本人なら手を挙げろ。中国人なら回れ右だ」

 こぶしをあごにぶつけ、なおも脅迫を続ける万里だったが、すでに抵抗の意志を失ったのか、ベンチコートの男は片手を挙げた。


「あっちにいた子を付け回していたらしいじゃないか、何が目的だ?」

 追及を美緒に対するストーキングに絞ると、男は首を激しく振りながらいった。

「べつにあんたらを付け回す気なんてねぇんだ。信じてくれ」

「ストーカーしといてそれはないだろ」

「悪気はねぇんだ」


 弱気一辺倒になる相手に対し、万里は恐怖を煽らなかった。言葉にしないだけで、ベンチコートの男が何者かあたりをつけたからだ。


 しばらくすると男は命の危機を覚えて全力で逃げ出した。だがそれまでは、物静かな万里に騙されて嘘をつかなければ助かると悠長に構えていたようだ。そんなわけがないのだった。どんなつもりがあろうと、美緒を恐怖に陥れたのは許される行為ではない。気持ちの問題がどうであれ、先日から美緒のことを追い回していた。罪は償わねばならない。


「あっちの子を付け狙ったのはどんな理由だ? ごまかしたらぶちのめすぞ」


 害意を語ったそばから万里は男の鼻面を殴った。その威力を思い知ったのか、ベンチコートの男は怯えた顔をひるがえし、駆け出していった。博物館の出口へと水に溺れる羊のように。


「おい待て!」と叫んだが、男の脚は驚くほど速く、万里はそのあとを追う気が一気に失せた。

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