第四章
1
物それ自体には力がある。とりわけサイズが大きいほど威圧感は圧倒的になる。万里の記憶が正しければ、十センチ四方の緑と一メートル四方の緑は違う色だとある芸術家がいった。同じことがさまざまな物にあてはまる。万里は恐竜というものを図鑑やミニチュアの模型でしか見たことがないし、映画で観たときもフルスクリーンではなかった。したがって体長十メートルに及ぶという情報も実感がともなっていなかったし、人間の五倍くらいのサイズだという理解にとどまっていた。
けれど会場を練り歩きながら見る恐竜の骨格は、数字から得ていた印象とは著しく異なっていた。全長が十三メートルにも達する標本は、動物というより地上三階の建造物に見えたし、現存する生き物のスケールを逸脱している。
万里は動物園でゾウを見たことがあったけど、恐竜に比べたら大人と子ども以上の差がある。ましてや人間と恐竜を比較しようものなら、きっと相手にとって人間は鼠や小鳥と大差ないのではないか。
展示順に沿って何体もの恐竜の骨格標本を目にしたが、やはりティラノサウルスが群を抜いていた。体の大きさだけならアパトサウルスのほうが大きいし、ドラゴンを思わせる幻想的なフォルムをしているのだが、実際戦うなら強いのはティラノサウルスのほうに感じられたし、それは漠然としたイメージではなかった。
「先生は肉食恐竜のほうが好きっぽいですね。写真撮りましょうか?」
会場に入って以来、博物館に不慣れな万里を先導したのは美緒だった。彼は自分の
教え子が恐竜マニアであることを知らなかった。美緒の説明によると、こうした規模の展示会が毎年のように開かれているという。ただ、美緒自身がはじめて恐竜展を見たのはベルリンにある博物館だったらしい。両親にねだって連れて行って貰ったようだが、実家が金持ちという話は既知であり、さほど驚きはなかった。
「強さを論理的に分解すると、三つに分けられるんだよ」と万里は声をひそめていった。
「武器、スピード、感性。このパンフレットによると、ティラノサウルスはそのすべてを兼ね備えている」
独自に感じたポイントを強調した万里だが、美緒は恐竜の話なら何でも食いつく人らしく、万里の唱えた説を興味深そうに聞いている。実際のところ、万里は自分とティラノサウルスを比較していた。攻撃力の高いこぶし、攻守の切り替えを可能にする俊敏性、相手の思考を読みとる研ぎ澄まされた感性。万里に足りないところがあるとすれば、体の大きさだろう。それは奇しくもタクミにあって万里にはないものだ。
彼は無意識に肩を触り、半月前まで割れていた骨を労った。鉄パイプで殴られたわりに負傷の程度は軽く、応急処置が良かったので骨はくっついた。万里に無免許医を紹介してくれたやくざには感謝してもしきれない。あれ以来、顔を見たら挨拶する関係になってしまった。
「わたしはもう断然、ステゴザウルスが好きですね。背中にある骨がかわいいんですよ」
美緒が口にしたステゴザウルスはまだ先にあるようだったが、彼女はいまから楽しみにしているようだ。心の落ち着かない様子が顔に出ている。
恐竜展に足を運ぶことにしたのは、課外授業を美緒に選ばせたからだ。先日ミックスバーで予想だにしない好意を告げられた万里は、美緒の思いを受け入れるべきか、それとも受け入れないべきか、ひとしきり考えた。万里の人間付き合いはきわめて自己中心的なもので、その裏返しで歪なものだった。性的な関係には快楽への奉仕以外求めておらず、粗暴なわりに社会的地位の無さにコンプレックスを覚え、美緒の富裕な実家に引け目を感じている。
答えを一時棚上げにし、そのうえで関係の維持を選んだのは、次回作のモデルに美緒を据えようとしたのが理由だ。私小説のとっかかりは過去ではなく、現在、そして未来にある。美緒と黒戸に設定を借りた男女がいかなる未来を紡いでいくのか。万里が自分以外を主人公にすることを担当編集者は歓迎した。闘病記を却下した思惑には後ろ向きになるな、前向きに描けという叱咤激励がこめられていたことをいまさらだが明かされた。編集者の内諾がとれた以上、次回作を書くために美緒との付き合いは必須だ。彼女のことを知りたい。関係を深め、まだ見ぬ姿を目に収めたい。成人後の万里が付き合ったいちばん親しい異性はユミコだ。風俗嬢しかサンプルがないのであれば、確かに過去しか描けなくなる。
そうした事情の裏で、美緒がどういうつもりなのか定かではない。万里が言及を避けたのと歩調を合わせたように彼女もミックスバーで起きた出来事を持ち出さず、態度を保留したまま、きょうに到っている。美緒がみずから切り出さないかぎり、この件に触れても前進はない。
「どうした?」
先に進もうとして美緒が動かないことに万里は気づいた。立ち止まって他の客を先に行かすと、美緒は後ろを振り返り、周囲をきょろきょろ見まわした。
「だれかいたの?」と万里は聞いた。美緒は彼の背中に張りつき、呼吸を止めている。体の震えが止まらないのか、それとも最初から低体温なのか、彼女のぬくもりは冷ややかに感じた。
「こっちを見ている人がいたんです。男の人かもしれないけど」と美緒はいった。
「服装に見覚えは?」と万里が再度問うた。
「グレーのベンチコートを着ていた気がします。距離が離れていたんですけど、こっちをずっと眺めていて、目線を合わせようとしたら姿が消えました」
「男だと思った根拠は?」
「何となくです。帽子をかぶっていたから、髪の長さもわかりませんでした」
「そっか」
冷淡な反応を洩らすと、万里の腕を美緒が抱きかかえた。育ちが良かったせいか、無駄なボティタッチの少ない子ではあったが、大胆に距離を縮めてきた。それだけ、恐怖をあじわったからだといえなくもない。
「この間もベンチコートを着たやつがきみを観察してた、なんていってたろ。同じやつじゃないか」
「同じやつ?」
「ストーカーだよ。二度同じ服装のやつにつけられたら、まずはそこを疑わないと」
万里は言葉を選ばなかった。危機感を共有するにはストレートにいったほうが良いと感じたからだ。彼は美緒を連れ、トリケラトプスの展示を通り過ぎたとき、こちかからアクションを起こしてみた。足を速めたとき、追いかけてくるかどうか確かめようとしたわけだ。
しかし見物人の列からはみ出すような者はおらず、ベンチコートを着た男は姿を現さない。万里は息を吐き、美緒の頭をあやすように撫でた。視線は後方に張りつけたままだが、不審者のような男は目に入らなかった。
先日も美緒が気にかけ、きょうも彼女が察した。万里は両方とも不審者を目視していないため、錯覚にすぎないと片づけられる立場だ。何でもなければそう考えるのが妥当に思える。とはいえ、万里の住む街は犯罪多発地帯だ。どんなに風変わりな人間でも受け入れる街は、どんなに危険な人間でも受け入れる。そのことを熟知しているからこそ、万里は先日から違和感を抱き、腹の底で飼い馴らしている。
子どもの頃、近所の公民館で、空の箱からお菓子の出てくるマジックを見たことがある。箱は最初のうち空っぽだが、ステッキにノックされた時点で中身が生まれる。いまも、この先も、美緒が感じた箱は空っぽなのかもしれない。だが中身が存在した場合、危害を加えられるのはつねに弱い側だ。
もしこの経緯をエジルに教えたら、万里か美緒が黒戸に尾行されていると忠告したかもしれない。仮に黒戸本人ではないとしても、部下を使えば造作もないと。気に入った女を追跡し、暴行に及ぶばかりか、強姦した女を殺して山に埋めたという噂を立てられるのが黒戸という名の元服役囚だ。エジルは万里の身を案じたが、正直なところ一対一ではどんな喧嘩にも負ける気がしない。組織的な襲撃を受けるか、拳銃で脅されないかぎり、万里は無敵に近いだろう。だとすれば、問題は美緒だ。彼女の感じた気配がストーカーのものであった場合、自分はどう対処すべきなのだろう。腕からはまだ美緒の震えが伝わってくる。体温の低い、不思議と落ち着いた震えが。
「思い返せば、先生と会っているときだけ、だれかがいる気がするんです。ひょっとしてわたしじゃなくて、先生を尾行しているのかも」
美緒と万里は恐竜展を見終え、博物館に併設したカフェに入った。ここにいれば、怪しい人物のチェックはほぼ自動的にできる。温かいものを飲むことで、気持ちも安らぐだろう。店内はコロナ対策で透明な仕切りがあるものの、客は少なく物静かな感じで、最初のうちは周囲をきょろきょろ見まわしていた美緒も、段々大人しくなった。
「ストーカーの特定はできないけど、この間行ったミックスバーの経営者が怪しいのは中国人だといってた」
「中国人?」と美緒がおうむ返しにいった。
万里はしかたなく
「黒戸という犯罪者で、最近刑務所から仮釈放されたらしい」と話した。気に入った女性や変態を襲うから、この間の店に通うような連中もびくびくしているだろうと。そんなやつが美緒に目をつけたとすれば、端的にきれいだからだろうと。
「美人だと狙われちゃうんですか。そういうデメリットは想像したことなかったな」
美緒が自分を美人と呼ぶのは自己防衛のネタだと理解したが、いまのひと言はジョークには聞こえなかった。美緒はキャラメルラテに口をつけ、万里はカプチーノを飲む。烏龍茶が飲めないときの定番だ。
「黒戸が怪しい理由は女装癖があるからだ。ベンチコートはそれを隠す絶好の隠れ蓑って感じだと思う」
「先生の同類なんだ」
美緒は性の揺らぎに寛容だから、黒戸にむけるべき嫌悪のレベルが下がった気がした。もっとも万里としてはそんな相手に共感されても困る。
「たぶん理解して貰えたと思うけど、きみが懸念するストーカー被害はちょっと複雑だと思う。リスクも高い。授業はべつの街でやるべきかもしれない。さすがにきょうはここで良いが」
「次は先生の家にお邪魔しても良いんですけどね」
「途中で襲われたどうする」
「はぁい」
気だるい返事をよこし、美緒はノートを取り出した。彼女につけさせている創作ノートだ。
「まずきみが書いた最新作だけど、きょうは改稿の方向性をしっかり見つけよう」
万里はそういい、話を続けた。
「友人の女性に恋し、思いを告げられないまま卒業したってことになっている。だがこれではトラウマとしての存在感が弱い。思いを告げたが拒まれた。そこまで踏み込んでみたらどうだろう。数年後、べつの街で出会ったときの後味の悪さ。それと同時に、相手の拒絶も真意ではなかった。こんなふうに設定し直せば、よりドラマチックになると思わないか?」
メリハリのある物語を万里は好む。美緒に特定の意図があればべつだが、そうでなければ大胆な改稿を促すつもりだ。経験だけを根拠にいちから書きはじめたら、何年経っても新人賞は受からない。万里の気迫は美緒に伝わったらしく、彼女は頷きながらノートにペンを走らせる。
「いまいった点を除けば、最新作の出来は良い。この前いったように自由と束縛を弁証法的に乗り越えることができれば、受賞に値するレベルまで持っていけると思うよ」
「あ、その件なんですけど」
美緒は小さく挙手し、万里に発言を求めた。頷き返すと美緒はいった。
「あれから考えて、弁証法を機能させないやり方もある気がしたんです。先生は性自認のずれた男性を婿養子に迎えたらどうかといわれましたけど、答えを解離させたらどうかなと思ったんです」
「解離?」
「はい、統合させないで分けたままにするんです」
「どういう解決策になるの?」
万里はここで首筋にひやりとしたものを感じた。前回の授業で彼は性自認のずれた男性を婿養子にするという助言をし、それは図らずも万里を受け入れたら良いのでは、という提案になっていること気づいた。美緒はそれを理解したうえで万里のことを諦めないといい残してバーから立ち去った。
そのやり取りの続きは宙に浮いたままだが、美緒の提案は二人の交差した関係を蒸し返すものに見えた。
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