第三章
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万里は男でもあり女でもある微妙な書き手だから、どちらかに振り切った結果支持を得ているマジョリティ文学に嫉妬を覚えている。醜悪なのはわかっているが、彼は自分のままで生きさせて欲しいだけなのだ。しかし性的な違和を生んだものに肉薄すべく小説を書いてきたが、答えはいまだに見つかってない。
これまでに出版した本は男性読者をターゲットにし、まだ小学生の頃、タクミとくり広げた日常的な暴力について書いた。アクセントとして性的違和を盛り込んでいたが、その本を万里自身はは物足りなさが残るものと考え、精神病院を出たあとは執筆するテーマを変えた。心を病んだ男が強さを失い、弱さに転落する姿を描いたのだ。そのプロットは担当編集者によってはねられ、彼は長い迷走期に入っている。
高い視点から見れば、万里は暴力というテーマを煮つめ、男性性なるものさえ突き抜けるべきだったのかもしれない。実際それは可能だったと思う。けれど万里はユミコと接することで保留にしている性的指向を掘り下げたいと思った。普通さから逸脱した性愛が自分を弱くしていると感じていたからだ。
もっとも編集者が難色を示した理由も漠然とではあるが理解している。弱さを自覚したといっても万里は依然、肉体的には強者であり、社会人として破綻してはいるが、貧困化が進むこの日本では、中途半端な弱者はうようよいる。特に精神疾患に苦しむのは通俗的に映る時代になってしまった。
女装趣味があるというのも難点だった。女の服を着飾れるのだから、心の余裕はまだあるし、そんな格好で周囲に溶け込んでいる時点で容姿に問題がないと思われてしまう。容姿が人並み以下で醜悪ですらあること。それも現代の読者が求める主人公像なのだ。しかし万里は、自分が持つたぐいまれな美貌を漂白する気にはどうしてもなれなかった。吐いて良い嘘とそうではない嘘がある。書き手としての彼は容姿の設定は後者にあたると決めつけていた。
カフェで一人飯を食いながら万里は、創作メモに思いついたことを書き込んでいる。イカスミのパスタとカプチーノを頼み、店のざわつきに身を任せ、靴で床を叩いている。服を選ぶのが面倒だったため、スーツの上にゴシックロリータの上着を重ね、男と女を無造作に混ぜた格好をしている。
自作の方向性にここしばらく悩んでいたが、先日エジルから得た情報がある種の転換点をもたらそうとしていた。機嫌が良さそうに見えるのはそのためだろう。
エジルが万里に与えたヒントは黒戸という中国人だ。正体は謎が多いものの、えげつない噂話の多さは小説向きといえる。女装をすることは有名らしいが、黒戸はただの変態ではなく、気に入った女を付け回し、暴行に及ぶばかりか、強姦した女を何人か殺して山に埋めているという風評さえある。さすがにこのへんになるとエジルは眉唾だといったが、万里は使えるネタだと思った。思い返せば、美緒は不審者の存在を指摘していたし、黒戸と彼女を結びつけると色鮮やかなドラマが思い浮かぶ。
自宅に戻り次第、担当編集者に打診してみようと万里は考えはじめた。しいて問題点を挙げるとすれば、黒戸を盛り込むなら彼の容姿を、美緒をモデルにした女性を出すとすれば彼女の容姿をどのように設定するかだ。万里のなかではすでに解決策があった。彼はイカスミの練り込まれたパスタを食べ終え、カプチーノで〆ると、荷物をまとめバッグを持ち、徒歩圏内にある自宅へむかって歩き出した。
万里は彼独自のこだわりはあったものの、黒戸をモデルに小説を書くなら、偏差値でいれば四十程度の容姿と、それに対する激しい屈託を与えようと思った。逆に美緒は、本来の彼女をベースにする。美醜の対比があることで、黒戸の劣等感にリアリティが増すだろう。
マンションに続く歩道に折れ、暗い夜道を歩きながら足取りも軽くなった。アルコールこそ入っていないが、気分はすこぶる良かった。そこから生じるわずかな隙に彼はまったく気がつかなかった。
違和感を覚えたときには足音がして、それは背後から聞こえた。振り返ろうとした瞬間、前方の電柱から人影が飛び出した。視界には入らなかったが、横からも人の足音が聞こえる。そこはかとなく感じた違和感は、だれかが尾行していたからだった。万里のことを。
体が反応したときにはすでに四方を囲まれていた。すべてを視認できないが五人から六人程度の人間が万里に迫ってくる。何が目的かはわからないが、前方の二人は長い棒のようなものを構え、万里にむけて振り下ろしてきた。
それは鉄パイプだったのだろう。一人の攻撃は身をかわしたが、もう一人の攻撃は肩のあたりを直撃した。相手の気迫は相当なものだ。
万里は急に斜め後ろへダッシュして、背後の攻撃にタイムラグをつくった。その狙いはあたり、彼がいた場所に鉄パイプが振り下ろされ、路面とぶつかり火花が散った。
事態は恐ろしい速さで動いている。万里は手にしたバッグを構え、衝撃を弛めるような措置をとった。そして目まぐるしく暴れた相手に呼吸を合わせ、たった数秒だが考える時間を得た。彼は自分が襲われることに思いあたる節があった。節だらけといっても良いだろう。万里はマンションの住人にしばしば暴力をくわえ、同じような行為を近隣の男たちにむけてきた。恨みを抱く相手は片手に余るはずだ。
裏を返せば、この襲撃は物取りではなく、万里の帰り道を狙った復讐のたぐいであることがわかる。そこまで考えをめぐらした時点で、心理的な余裕ができた。個人的な恨みが原因なら、相手は素人に近い存在だ。少なくともプロを相手にしていない。敵のやり口には拙さも感じられる。
気持ちが楽になった万里をさらに鉄パイプが襲う。しかし今度の攻撃は腰が入っておらず、自分の武器に振り回されている。万里は踊るように体を翻し、相手の懐に飛び込んだ。それはあまりにも簡単なことで、隙だらけな敵の腹にボディフックをぶちかます。くの字に曲がった腕を叩き込むと相手は地面に沈み、背後の相手には蹴りを入れた。
乱闘は万里のペースで進み、彼はここでようやく首謀者とおぼしき人間の顔を視認した。それは管理するマンションの顔見知りで、先日トイレ詰まりの修理費をふんだくった中国人だ。恨みを抱いた人間に襲われたのは初めてではないが、万里は若い頃からこの調子だったので、ぼこぼこにした連中に復讐され、その度に撃退していた。
万里は相手が取り落とした鉄パイプを掴み上げ、しっくり馴染んだ武器のように軽々と振る。思惑が外れたのか、一人の中国人が甲高い声を発した。恐怖に駆られたひと言は集団に伝播したらしく、何やら激しい文句が飛び交いはじめる。そんな連中に万里は中国語で叫んだ。短い単語だが「ぶっ殺すぞ」という意味の言葉だ。中国料理店で働いている頃、喧嘩になった店員がよく使っていた。
中国人たちはパニックに陥り、だれが万里の相手をするのか押しつけ合いをはじめた。獲物を手にした万里なら全員叩きのめすことさえ可能に思えた。いや、完璧にやってのけるだろう。相手の動きが止まったので、万里は大股で距離をつめ、鉄パイプを振り下ろした。急所は外したが、その一撃は中国人の肋骨にあたり、犬のような鳴き声をあげた男は一目散に逃げ出した。そう、逃げるという手段があったのだ。混乱していた中国人たちは逃走するという選択肢すら頭から吹き飛んでいたようだ。しかしいまのアクションで、連中は逃げれば良いことに気がついた。重荷になると察したのか、彼らは鉄パイプを捨て、路地を駆け出し暗い夜道に消えていった。
万里は彼にしてはいささか興奮していたが、敵がいなくなって気持ちが落ち着いた。彼が真っ先に考えたのは、中国人住人が家に戻らないだろうということだ。のこのこ帰宅したら万里にぶちのめされるため当然だが、そうなると家電、家具、調度品を処分しなければならない。万里はそれらの物品を買い取ってくれる相手を知っており、すぐさま連絡を入れて明日いちばんに来て貰うよう依頼しようと思った。けれどバッグからスマートフォンを取り出そうとしたとき、激痛が走った。彼は肩に打撃を受けている。アドレナリンの分泌が止まった途端、本来あじわうべき痛みが全身を貫いたのだ。
応急措置をすべきだと思った。高確率で肩の骨が折れているだろうが、万里は無保険だ。救急車を呼んで病院に転がり込んだところで、金を払えないのでは意味がない。自分一人では手に余ると踏んだとき、思い浮かんだのはユミコの顔だった。彼女は隣街に住居があり、タクシーを使ってくれば十五分でつくだろう。やるべきことが決まれば行動は早い。万里はユミコの番号を呼び出し、通話ボタンを押した。彼女は特に驚くようなそぶりは見せなかったが、起きた出来事を伝えると慌てだし、すぐに行って看護すると申し出た。その心配ぶりは他人のものとは思えず、決して心地よいものではなかったが、万里は深く考えるのをやめた。
ユミコが来るまでの間、万里は痛みを押してコンビニに入った。応急措置の道具を揃えるためだ。折れてしまった骨は仕方ない。問題は痛みを押さえること、折れた箇所を動かさないことだ。幸いコンビニには包帯が置いており、万里はそれを三つほどかごに入れ、ついで冷却用の氷を二袋買った。出血があるかもしれないのでタオルも購入した。財布は片手で開き、代金を支払った。荷物を持ってマンションの前に戻ると、ちょうどタクシーが止まっており、ユミコが後部座席から顔を覗かせた。
「大丈夫?」といい、ユミコは駆け寄ってきた。街灯から離れた場所だったので、ユミコがメイクをしているか否かは判別できなかった。
万里はマンションの前に戻り、入り口のあたりに腰を下ろした。部屋に帰ってもよかったが、自分でも確認できない傷があると、出血でエントランスや廊下が汚れると考え、ひとまず外で応急措置をしようと考えたのだ。その意向をユミコに伝えると、彼女はタオルで顔の血を拭き取り、万里は自分の顔に見えない傷があることを知った。
「とりあえずこの氷で冷やすね。痛かったらいってね」
コンビニで買った氷を袋ごと肩に押し当て、ユミコは万里の上着をその上から掛ける。真冬なのに氷で冷やせば体は芯から凍えそうだが、実際のところ万里の体は周囲に熱を放つほど火照っており、体感が狂っているため寒気は感じなかった。それでもユミコはコンビニへむかい、温かい飲み物を買ってきた。万里は熱いコーンポタージュを飲み、ユミコは「そろそろ包帯で縛ったほうがいいかな?」と聞いた。
氷で痛みが麻痺してきた部分はあれど、時間が経つほど痛覚は刺激され、万里は顔をしかめた。街灯にあたったその姿は痛々しく見えたのか、ユミコは悲しい顔をしている。万里は彼女を悲しませていることに気分を害したが、謝るときりがないと考え、無言を貫いた。
このまま一時間でも二時間でも我慢を強いられるのかもしれないと思ったとき、状況が変化した。マンションの入り口を占領した万里の近くに一台の車両がとまったのだ。マンションに愛人がいるやくざのメルセデスベンツだった。静かなエンジン音で滑り込むその車を見た途端、万里のなかでマンション管理人としての意識が目覚めた。
入り口を塞ぐかたちでユミコと座っていたが、さすがにこのままでは無礼だろう。万里は体を揺らさないように立ち上がり、エントランスにむかう道をあけた。やくざは運転手に付き添われ、万里のすぐ横を通り過ぎた。特に会釈などはせず、普段の対応をとった。ユミコと一緒にしゃがみ込んだが、後ろからこう呼び止められた。
「怪我してんのかい?」
意外な反応だが、万里は「ええ、中国人にやられて」と答えてしまう。やくざと関わり合いになりたくない彼にとっては不用意な発言だった。案の定、やくざは足を止め、首を傾げながらいう。
「兄ちゃん、ここの住人をしょっちゅう痛めつけてたろ。この間から中国人たちがざわついているから、殺気立った野郎に巻き込まれたんじゃないか」
万里は上にゴスロリ服をはおった状態だったが、何度か顔を見られているせいか性別は間違われなかった。
そんな彼に対し、やくざは話を続けた。
「黒戸って野郎が戻ってきたらしい。自分をムショに送り込んだ日本人を恨んでる。日本人とのトラブルは強気に行けって命令してるのかもな」
見立ての正しさは判然としないが、街に巣くったやくざの視点に立てば筋の通った意見なのかもしれない。住人の中国人が裏社会とつながっていたという考えも、街の事情を考えるなら妥当性がある。そうでなければ五、六人のごろつきを集めることは難しい。素人のとった手口にしては、いまさらだが手慣れ過ぎている。
万里が押し黙っていると、やくざはなぜ救急車を呼ばないのか不思議そうに聞いてきた。無保険であると答えたが、やくざは言葉を止め、運転手に何事か告げた。その様子を怪訝そうに見た万里に対し、やくざは思いがけないことをいった。
「知り合いの医者を紹介してやるよ。無免許だから金は安い。込み入ったことはできないが、見たところ骨が折れたくらいだろ。痛み止めを出して貰えばだいぶ楽になるはずだ。どうする?」
滑らかに提案を述べたやくざを見つめ、万里は考えた。借りをつくるのはまずい気はしたが、応急措置が不十分なら完治まで時間がかかる。そうするといろんなことに支障が出る。原稿を書けなくなるのは困るし、そもそも弱みを握られるほど親しくもない。
隣ににはユミコがいて、万里のほうを見つめている。「本当に良いのか?」と問い返したが、やくざは「人助けは借りのうちに入んないよ、お互い様だろ?」といった。人体以外は杳として知れない相手だったが、なかなかの人情家だったと受けとめるべきかもしれない。普通の人間はそう考えて終わりだったはずだが、万里は猛烈な不快感を覚えた。その感情は怒りにも惨めさにも似ている。
頭を下げずに万里が黙りこくっていると、どうやら話をつけたらしい運転手がやくざに対し耳打ちをした。
「ちょうど暇してるらしい。いま住所を書いてやるよ。そいつをタクシーの運転手に見せな」
何から何まで行き届いた配慮に万里は本物の殺意を覚えた。世間をなめ腐ったところのある彼だが、一応まともな神経も持っている。ここでやくざを殺して得るものはない。自尊心を保つこと以外には。
無免許の医者という話から、万里は手塚治虫の描いたブラック・ジャックみたいな男を想像した。しかしそれは根本的に的外れだった。
「若い女医だが腕は確かだ」
やくざが洩らしたことによると、その女医はわけあって国立医大を辞め、知り合いのコネで無免許営業をはじめたのだという。
なかなか珍しい話だが、万里は平然と受け流す。いまにも暴れだしそうな殺意をもみ消した彼は、ユミコに頼んで流しの個人タクシーを配車させた。
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