この街に住んでいると猥雑なことに詳しくなる。賑わっているわりに家賃が安く、多種多様な人間が集まっているところも万里は好きだ。元々は勤務する中国料理店があり、金の貯まった頃近場に住みはじめたが、アクアガーデン鹿無木町店の客が街に点在するバーの常連であることを知り、性的なパートナーを求め一時いろいろな店を漁った。


 その結果わかったのは、ユミコ以上の相手はいないという現実だ。普通に女を愛せないからといって彼はゲイではなく、女装した男に惹かれるわけでもなかった。性欲を抱けるのはあくまで女性なのだが、彼女たちは万里を女として扱うことに戸惑いを示した。心ない反応を返されるたび万里は傷つき、店の備品で彼女たちをぼこぼこに殴った。


 対してユミコは、万里のことを女と見なした。そんなユミコの通う店を万里は紹介された。ミックスバーという業態の店で、どんな性的指向を持つ人間でも入れる敷居の低いバーだった。

 女装バーは女装した男の交流場という雰囲気で、そこで純粋な異性を探すことはできない。これがミックスバーなら、普通の女性も出入りしていた。外見では気がつかないが、同性しか愛せないレズビアンもいるらしい。万里はユミコから教えられたバーでレズの女性に近づき、積極的なアプローチを試みた。だが万里が女装した男性だと知ると彼女らはあからさまに敬遠した。詳しく話を聞いてみると「性別が男だと怖い感じがする」とのことだった。確かに万里は暴力癖があり、退屈すると笑わなくなるため、怖がられても仕方ない。


 さらに調査すると「レズが女装と付き合うとかファンタジー」という意見もあった。店員に相談しても「あまり見ない組み合わせ」との返事がかえってきた。

 こうして彼はレズビアンの女性に近づく気が失せ、手っ取り早くセックスができるユミコに没頭した。バーに通う頻度は下がり、病気になって以降は足がぱったり途絶えた。


 そんな万里だが、彼はスーツが非常に似合う。この日も万里はスーツで外出した。ベストも着用しており、上着はバーバリーのコートだ。念入りに靴までバーバリーを履いている。


 タクミのマンションに住んで以来、彼は繁華街に出かけるときにも女に扮することはあったが、相手が美緒だと正体を明かすわけにいかない。天候は夕方頃から雨に変わり、万里は傘をさしながら大通りを渡って待ち合わせ場所にむかい、駅前交番に佇む美緒を見つけた。


「お疲れ。きょうは大学帰り?」と万里は聞いた。時間はもう七時をまわっていたからだ。

「そうなんですけど、あいにくの雨で」と美緒は答えた。


 彼女によると、大学に折り畳み傘を忘れたのだという。交番の雨避けの下にいた理由が判明した。ちなみにきょうの授業は、美緒が未体験なバーに連れて行くと事前に伝えており、夕食は済ませておいて欲しいと言付けてあった。ついでに確認をとると、美緒は意外に酒はいける口らしく、抵抗感は示さなかった。


「先生がすぐ着てくれて助かりました。そっちの歩道に変な人が立っていて、こちらをじっと見つめていたからちょっと怖かったんです」

「変な人?」

 この街に変な人はかなり多いが、美緒のいうことは引っかかった。

「ベンチコートを着ているわりに居酒屋の客引きにも見えなかったし、すごい勢いで見つめてくるから何か嫌な感じがしたんです」

「確かに少し不穏だね。でも大丈夫、何か起きてもおれが守るから」


 美緒を自分の傘に入れ、ビルの立ち並ぶ大通りを過ぎてから十分ほど奥に歩くと目的の看板が見える。フランスの国旗みたいなデザインをしているが、オーナーにどんな思い入れがあるかは定かではなく、確かめたこともない。


 店に入るとトランスジェンダーの男性が傘立てを用意しているところで「いらっしゃいませ」と挨拶をくれた。店の間取りは広くもなければ狭くもなく、開店したてということもあり、客は万里たちしかいなかった。万里は美緒の脱いだコートを受け取り、自分のものと一緒に店員に預けた。カウンターに店員はいなかったが、すぐに見知った女性が顔を出した。


「あら、久しぶりじゃない、りーちゃん。死んだかと思ったわよ」

 きついジョークを口にした女性はここの経営者であるエジルだ。美緒は軽く頭を下げ、少々緊張しているように見えた。ついでにいうと万里を「りーちゃん」と呼ぶ人々は少なくない。他にバリエーションがないのだろう。


「じつは精神病院に入っていてさ。こっちの子はおれの教え子。いま小説の書き方を指導しているんだ」

 数年に及ぶ時間差をひと言で埋めると、エジルは大して驚きもせずにいった。


「そういえば小説書いてるなんて話あったわね。ずっと副料理長やってれば今頃お店が持てたのに」

 エジルと万里の会話は美緒が知らない情報が詰まっていた。万里は入院の話題は避けたいと思っていたため、料理人をやっていた頃のことだけに言及した。


「以前は中国料理店で働いていたんだ。小説を書いて本になったのはごく最近」

 最近といってもだいぶ前なのだが、時間感覚が狂っている万里は気にしない。対する美緒は、教え子の鑑のような驚きを湛え、大きな瞳をきらきらさせた。無理やり興味のあるふりをしているようには見えない顔だ。


 万里はとりあえず「営業は時短じゃないよな?」といった。エジルが「したりしなかったり、その日の気分で変えるわ」といたずらっ子のように笑う。それを見た万里は「じゃ、いつもの」と頼んだ。エジルは調子外れな声で応じ、華麗な手つきでハイボールを用意した。


「お酒飲めるっていってたけど、ウイスキーは平気?」と万里は聞いた。

 美緒は「むしろよく飲みます」と答え、酒飲みとは程遠い笑みを浮かべた。意外とこういうタイプが酒豪だったりする。酒はいけるくちだと知った万里は、今夜は美緒を子ども扱いせず、余計な遠慮はしないつもりでいた。幸い精神病院のくだりを美緒はまったく意に介さなかったらしく、一緒に出てきたつまみを口に放り、水でも飲むような勢いでグラスを傾ける。


 万里としては、美緒に異文化体験をして貰いたく、この店に来た。実際彼女は視線を活発に動かし、店員だけでなく入店したばかりの客にも満遍なく注いでいる。そこにはゲイもバイセクシュアルもレズビアンもいる。万里のような性癖を持つ男も。


「先生はどうして作家になったんですか?」と彼女は聞いた。深い意味を持つ問いかけだが、口調はかなりそっけない。

「理由は二つあるかな」と万里はいい、ちゅうちょなく言葉を継いだ。

「一つは自分ですべてを管理する仕事がしたかった。さっきエジルがいってたけど、確かに我慢し続ければ店が持てたかもしれない。でもそういうチャンスはひと握りだし、待っていて転がり込んでくるものじゃない」


 万里の答えに美緒はまっすぐな目をむける。ハイボールを飲み、彼は話を続けた。

「もう一つの理由だけど、小説を書くときは自分でいられる気がしたんだ。普段なら出せない自分を表現できるというか。ひょっとしたらきみにもそういう部分はあるんじゃないか」


 深刻そうな話ではないが、事情を知る者は万里の率直さに驚いたかもしれない。彼は性的なあり方に悩んでおり、性愛と暴力の狭間に埋没してきた。万里はそうした自分のルーツを小説に託し、運良く賞をとった。しかしいまでは、足枷になっている。


 闘病記をボツにされたのはその一例だ。それまでに書いたものを知る担当編集者は、万里が心変わりしたと感じたかもしれない。本人のなかで連続性はあっても、他人は一面しか見ない。小説でも人間関係でもそれは同じだ。


「逆に聞くけど、きみはどうして作家をめざすの? 小耳に挟んだ話では大学を一年間留年するらしいじゃない」

 万里は美緒の動機にあえて踏み込んでこなかった。しかし一緒に酒を飲む場なら、肩の力が抜けると思ったのだ。美緒はしばらく口をつぐんだ。答えを拒否しているというよりも、言葉を選んでいるように見えた。


「わたしも先生と一緒です。自分でいられる、自分を肯定できるから小説を書いている。もし小説がなければ、自分と向き合えなかったかもしれません。しいていえば、日記を書いているのに近いのかな」


 美緒の発言に嘘がなければ、彼女の書く小説は個人的な体験に根ざしているのだろうと万里は思った。だとすれば、と彼は考える。自分が添削のために読んだ小説のなかには美緒自身が刻みつけられているはずだと。


 ハイボールを飲むふりをして、グラスの向こう側を見た。美緒の書く小説には明確なテーマとモチーフがあったこと彼は思い出す。


 テーマは自己肯定だ。美緒の小説には、社会からはみ出した若い女性が、周囲の人間関係に翻弄されつつも、自分を貫いて生きていく姿が描かれていた。


 そしてそのためのモチーフが二つあった。一つは女性の同性愛。もう一つは若くして実家の跡継ぎになるという運命だ。それらが同時に描かれていたのが最新作の小説だった。主人公の女性は跡継ぎになるために婿養子を貰うことになるのだが、本当は交際しているべつの女性と結ばれたいと思っていた。しかし相手の女性はそういう保守的な家族観に合致しない人物で、主人公は家のしがらみを振り払うべきか、奔放に生きるパートナーと添い遂げるべきか、深い苦悩にさらされる。


 結末は予想の範囲だった。主人公は自由と束縛の間で答えを出せなかった。いや、出せない自分を肯定するというくだりがラストに示されていた。万里はその終わりをそれなりに悪くないオチだと考えていたが、同時に不満も持っていた。なぜなら自由と束縛という相反するモチーフはどちらか一方を選んだり、選ぶことを放棄するのではなく、両者を弁証法的に昇華するより上位の答えを模索できたはずだと思ったからだ。


 じつはその話はまだ美緒にしていない。最新作は私小説の色を強く感じ、彼女の秘密を垣間見る心苦しさがあったからだ。きょうミックスバーに連れて来たのも本心を告げることが目的だ。酒の力に後押しを得て、微妙にいいづらい小説の感想を。


「ところでさ」と美緒と自分を隔てる壁にナイフを差し込んだ。それがナイフだと気づかれない慎重さで。

「小説に書かれている話はどこまで本当なの?」

 優しく繭で包むように話したが、美緒は会話の転がった方向をいち早く悟ったようだ。一瞬黙ったあと「かなり事実です」と答えた。


 いまの発言ですら美緒は、勇気を振り絞ったに違いない。それなのに万里は、逃げ場を塞ぐような問いを重ねる。


「自分のことを小説に書いて恥ずかしくはない?」

「思ったことないですね」

 今度は即答だった。しかし美緒の声色からは明らかな動揺が見てとれる。万里は空のグラスをエジルに渡し、「もう一杯頂戴」という。そしてすぐさま美緒に向き直る。


「今回の作品を評価するうえで教えて欲しいんだ。同性愛のくだりはどこまで本当なのか。もし同じような答えを現実で出したとしたら、きみ自身はどういう葛藤を経て、いま現在どんな気持ちなのか」


 ナイフはさらに奥深くへ刺さっていく。彼自身経験したことだが、私小説的な要素を文学に昇華させることは難しい。というか、万里でさえ上手くできたとはいいきれない。だが、同じ問題に取り組んだ先達として、何らかの助言は与えられるはずだ。自分が読者として何を欲していたか、書き手と読者の交差点を示唆することで。


「同性愛に関する部分は、ある程度想像で書きました」と美緒はいった。「わたしは好きな相手はいましたが、一度体を許しただけで、それ以上は特に」

「なるほど」と万里は返した。美緒はグラスを見つめ、ため息を吐くように言葉を継いだ。

「事実はむしろ束縛のほうです。あまりいいたくはないことですが、わたしの実家は兄弟がいないので、父親に稼業を継ぐよう期待されてます。いまは作家になることを認められてますが、父が老いたら稼業に専念しないといけません。答えを明示しなかったのは、いまのわたし自身が将来の選択から逃げているから」


 途切れ途切れではあったが、美緒は率直な気持ちを伝えてくれたと思う。万里は「逃げてなんていないよ。小説にするというかたちで向き合ってる。自信を持ったほうが良い」と明るい声でいった。そのうえで彼は自由と束縛の相克について言及した。


「これは小説上のアドバイスに過ぎないんだけど」と万里はいった。

「性自認が身体とずれた男性を婿養子に迎えたらどうだろう。そうすれば同性愛を維持しつつ、稼業による束縛を受け入れられるんじゃないか」


 思いついた助言はどこか即興的で、事実万里は閃きだけで解決策をいった。そして口にしてから気づいた。自分のような人間こそが、彼女にうってつけのパートナーとなりうることに。


「そんな人いますかね」と美緒は仏頂面でいった。酒が入ったことで普段の優等生ぶりは鳴りを潜めた感じがする。

「いるよ。この店でおれは性的違和を抱えた男とたくさん会ってきた。行動する場所を変えれば、人との出会いはがらりと変わるよ。家からそう離れていない場所にこんな空間があるとは思ってもみなかっただろう?」

「それはそうですね」


 言葉は投げやりだが、内に秘めたものを感じさせる顔だ。美緒はすぐさま問い返した。

「わたしの秘密について話したんだから、先生のことも教えて下さいよ。そうじゃないと不公平です」

 その声には、酒に酔った人間特有の粘り着くものがあった。彼女はエジルを呼び、ハイボールのおかわりを頼んだ。万里は自分の話をしたくないため、美緒に「性的指向がわかっているのになんで女性と付き合わないの?」と聞いた。


「女性のどこが好きなのか、自分でもよくわからないんです。というか先生、ずるいですよ。なんでわたしが質問される側なんですか。答えて下さい」


 はぐらかしても食い下がる美緒は、エジルからグラスを受けとるとハイボールをこくこく飲む。万里は自分の性癖くらいならしゃべっても良いと感じた。もし反応が悪ければそれまでだ。美緒に気に入られるために生きているわけじゃない。


 自分が予防線を張っていることに万里は気づいた。しかし彼は、返答だけは正直に答えた。

「おれは女装しないと性欲が刺激されない人間なんだ。そういう性癖を隠している人は少なくない。とあるボクサーは女装写真が出回ってスキャンダルに巻き込まれたけど、たぶんおれと同じで自分が女になり、相手も女性じゃないと性欲を発散できないんだと思う。その欲望はかぎりなくレズビアンに近いよ」


 万里の吐露を美緒はどう聞いただろう。彼女はテーブルに視線を落としたまま、不服そうにいった。

「それってわたしが同性愛者だと知ったから慰めるために教えてくれたんですか。わたし以外にも性的指向がずれた人がいることを示そうとして」

「違うよ、そんな回りくどいことは考えてない」と万里は肩をすくめた。美緒は酒の力を借りたのか、驚くほど大胆なことを口走った。

「だとしたら、最初の相手は先生が良かったな」


 そのひと言が持つ意味は万里にとって明白だった。少なくとも、酒に酔った振りをし、相手を手玉に取る狡猾さから程遠い。関係が壊れる危険を知ってなお口に出したことがその証拠だろう。恋愛経験が浅く、駆け引きをする癖がないため公言できたとみなすべきか。


 次の答えがとてつもなく重要だった。彼は「おれは偽物の人生を生きてきた」といい、話を続けた。

「本来の性に即した本物の人生を求めたい気持ちはずっとあった。けれどおれは、きみが思うよりも子どもで、大人扱いされるほど偉くない。そういう幼稚な人間にできることはかぎりがある」


 万里は無意識に、自分を見捨てる可能性を持った美緒と距離を取ろうとした。しかし真実を隠し通すつもりなら、最初から何も話さないべきだった。万里はすでに性的指向を話している。美緒の告白にあてられるかたちで。


「わたしからしたら先生は十分大人です。しかもさっきの話では、性自認がずれた男性を婿養子に迎えろっていったじゃないですか。そこまで話したうえで自分の秘密を語るってことは、わたしに好意があると深読みされても否定できません」


 今度は美緒がナイフを突き刺す番だった。余計な助言をしたあとでは、簡単に否定できないことを万里は熟知している。彼は仕方なく、比較対象を示した。


「おれは物書きというやくざな職業に就いている。親の仕事を継ぐつもりなら、もっともましな人を婿養子に迎えたら良い。おれはきみに相応しい相手ではないよ」


 万里はもう一度逃げをうった。美緒が好意を寄せていることを踏まえ、遠回しに断ったのだ。しかし秘密を暴露した人間に失うものは何もない。美緒は、これ以上攻めても万里が首を縦に振らないと悟ったのか、カウンターの上に一万円札を置き、飲み慣れた客のように捨て台詞を吐いた。


「わたし、先生のこと諦めませんから」

 そういい残すと、美緒は万里の背中側を通って傘を引き抜き、自分のコートをはおると木製ドアから外へ出ていった。彼女はそれが自分の傘でないことを忘れている。

 万里は自分が失言したという後悔に襲われ、残りわずかになったグラスを差し出し、ハイボールのおかわりを頼んだ。


 エジルはしらばっくれた顔をするが、さほど遠くない距離の会話を聞き逃すほど純粋な人間ではない。万里の想像どおり、エジルはかわりのハイボールを渡し「何か良い感じの話だったじゃない?」と目を細めていった。エジルは万里の性的指向など、秘密の大部分を知っている相手だ。その場の流れで万里が地雷を踏んだことに気づいている。でなければ、こんな思わせ振りな笑顔はつくれない。


「ものは考えようでしょう? りーちゃんの性癖知っても引かない相手は稀少よ。絶滅危惧種だわ」

 本来なら自問自答する場面で、エジルは「もう一人の自分」を演じてくれることがあった。その優しさを万里は懐かしんだ。


「苦悩したって答えは出ないわよ。りーちゃんの考えるべきことは、いまの子に対してちゃんと勃起できるかどうか。あんたの場合、精神的な勃起を。性は頭で考えても答えの出ることじゃないわ」


 エジルのひと言は万里の心に一石を投じた。恋愛を観念で考えても体はそれを平気で裏切る。ユミコのいる店に通いつめ、いまだに彼女とセックスしているのは、性欲第一に考えて出た結論だ。物理的に勃起はできなくても、ユミコには欲情できる。それが精神的な勃起だ。


「ありがとう。お前のいうとおりだな」

 グラスを呷り、万里は自分と美緒が裸で抱き合う場面を想像した。ユミコとセックスするとき同様、女物の服を脱ぎ、下着姿になって、あられもない格好になった二人をだ。その想像は万里に鮮烈な衝動をもたらし、性的な興奮を呼び起こす。だが下半身の疼きはすぐさま消え、彼は頭で事態を把握した。


 病気でキャリアを棒に振り、生活の不安定な物書きに身を窶してしまった結果、いまの自分はタクミの支援とユミコの世話になっているのが実状だ。そんな人間に金持ちの親を持つ美緒と交際するイメージが少しも湧かない。仮に好意を受けとっても、遠くない将来、美緒は万里に幻滅するだろう。


 屈折した感情を持て余していると、カウンター越しにエジルがいった。

「そういえばりーちゃん、知ってる?」

 ワイングラスホルダーからグラスを取り、エジルは封を開けた白ワインを注ぐ。酒の入った万里が、素面の人間に興ざめする癖を覚えていたのだ。


「知ってるって何を?」と万里は問い返した。エジルはカウンターに頬杖を突いていった。

「りーちゃん、むかしストーカー被害に遭ってたじゃない? その犯人だった黒戸ヘイフーがこの街に戻ってきたらしいのよ。仮釈放されてとんぼ返りしたって」


 エジルは顔をしかめ、ものすごく深刻そうにいった。万里のことを心配してくれているのはわかるが、それ以上の思いがこもっている顔だ。ひと言でいえば恐れおののいている。

「いたな、黒戸って野郎が。変態を襲う中国人で、本人も女装癖があるやつだっけ」


 万里はあまり驚かないのか、淡々と受け答えた。

「他人事みたいなこといってちゃだめよ。黒戸はノンケだろうがレズだろうが片っ端に襲ってなかには死にかけた子もいたのよ。りーちゃんみたいな美人は今度も真っ先に狙われるわ」


 エジルは、万里が四六時中暴力を振るっていることを知らない。彼は自分のテリトリーとそれ以外を厳密に分けている。テリトリーの外では粗暴な自分を隠している。

「女装して出歩くのは控えるよ」と万里は答えた。

「そうね、そうしなさい」といい、エジルは話を続けた。

「でも黒戸が出所していちばん騒いでいるのは中国人界隈ね。噂だと街に住む中国人に上納金を払わせようとして、反対する人たちをぼこぼこにしたって話だから。津田組のやくざにチクられなきゃ、中国人街を乗っ取ったとまでいわれていたわね」


 エジルは当事者だから、恐怖もひとしおなのだろう。だが万里が思ったのは、自分が襲撃されるリスクではなかった。駅で待ち合わせしたとき、美緒がベンチコートを着た不審者の存在を指摘した。変態とはいってないが、変な人とはいっていた。奇しくも万里は女装して出歩くときにベンチコートを愛用しているため、同じように女装を隠す変態に目をつけられた可能性はゼロではないと感じた。


 エジルに話したら、そいつが黒戸だと騒ぎはじめるだろう。憶測の話を嫌う万里は、美緒から貰った情報を共有しないことにした。


「尾行された気がしたら、警察に通報しなさい」と何も知らないエジルがいった。「わたしにいってくれたら、津田組の人を紹介してあげてもいいわ」

「やくざに借りをつくるのはまずいよ」

「大丈夫。ものすごく親切な人がいるの」


 折りをみてこの話がしたくて堪らなかったのだろう、エジルは饒舌に津田組にいるという知り合いについて語り、万里の身を案じてくれた。彼はハイボールを片手に苦笑いを浮かべ、旧友の温情にほとほと困り果てた。

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