第二章
1
コンビニで昼飯の弁当を買い、万里は部屋に戻った。原稿に集中していたため、自分で料理をするのがかったるかったからだ。それでも十分美味いものが食えるのだから日本は良い場所だ。悪い部分もありはすれど、良い部分のほうが上まわっている。東南アジアから来た労働者たちが帰化したがるのもわかる気がする。
万里はいま、月に一作の短編、筆が乗れば中編を執筆している。精神病院に入る前、小説を書くことの意義、そのための内省に価値を見いだしてしまった万里は、退院したあと以前勤めていた中国料理店に戻らず、社会復帰の糸口を作家に求めた。
ところが、精神障害を患った経験を下敷きに書いた原稿は担当編集者に却下された。具体的な問題点は教えて貰えず、暗中模索する日々がはじまった。マンションの管理人としてとりあえず生計は立てられているが、タクミはいずれ日本に帰国する。彼とはその頃までに独り立ちするという約束を交わしていた。何年後になるか、そのへんは定かでないものの、万里は今年中に次の本を書き上げ、出版することをおのれに課した。
弁当を食べながら、原稿の文章に頭を悩ませていた万里の部屋でチャイムが鳴った。ドアの隙間から顔を出すと、中国人の男性が「トイレが詰まった」と下手な日本語でいう。口ぶりからするにひどく立腹している様子だった。
水回りのトラブルは、やや築の古いこのマンションでは珍しいことではなく、トイレの詰まりは以前にもあった。とりあえず用具庫からラバーカップを取り出し、中国人が入居する三階の部屋にあがってトイレへ直行した。幸い汚物は途中で詰まったらしく、目視できる部分にはなかった。万里はラバーカップを何度か押しあて、圧力を変化させることで詰まりをとろうとした。しかし水を流しても便器から溢れそうになるばかりで、仕方なく彼は契約している修理業者に電話をかけ、昼までに解決して貰う約束をとりつけた。
事情を説明すると中国人は「小便をするときはどうすれば良いんだ」と不平をいい出し、万里は臨機応変に「おれの部屋のトイレを貸す」と答えて一応の納得を得た。とはいえトラブルへの対処はこれで終わりではなく、彼は住人に加入させている保険会社に問い合わせを入れ、トイレ詰まりの修理費はどうなるのか尋ねた。担当者は外回りに出ているらしく、すぐに対処されないことに万里はイライラを募らせたが、一時間近く経ってから折り返しの電話がかかってきた。
許しがたいことに、その担当者は「トイレ詰まりは本人の責任だ」と述べ、保険の対象外であるといった。目の前にいたらぶちのめしただろうが、電話越しなら手が出せない。
万里は二時間後に到着した業者が詰まりを直したあと、中国人から修理費を徴収しようとした。ところが中国人は嫌な顔をして「マンション側の責任だ」と文句をつけはじめた。もし普通の管理人なら、保険の仕組みやら説得力のある話をして責任の所在をはっきりさせただろう。だが万里は時間のかかることはしたくなかったし、そもそも中断している原稿執筆に早く戻りたかった。
そうなると彼にできることは腕ずくでいうことを聞かせる以外手段はない。万里は中国人に「金を払わないならマンションから出ていけ」といい放ち、相手が不服そうな顔をした途端、例の既視感とともに住人を袋だたきにした。
彼が大胆な暴挙に出られたのは、管理人業務以外にも収入のあてができたからだ。ユミコに紹介された神崎美緒の家庭教師バイトがそれだ。ぼこぼこにした中国人がマンションから出ていってしまっても、トイレの修理費はポケットマネーから出せる。「気に食わなければ退去しろ」と万里は恫喝し、中国人は赤く腫れた顔を押さえ、泣きべそをかいた。男を部屋に連れ戻し、財布から一万円札を抜き取る。問答無用で万里の勝利だった。
彼は待たしていた業者に金を払い、急いで部屋に戻ってすっかり冷めたコンビニ弁当をかき込んだ。スマートフォンの時計を見ると、とっくに昼は過ぎていた。あと五分で美緒が来る時間帯になってしまう。万里が美緒をマンションに呼び寄せているのはわけがある。個人的な密会などではなく、小説を書くための授業を開くためだ。
食べ終えた弁当の箱を洗ってゴミ箱に突っ込み、万里はエレベーターで一階に下りてエントランスを出た。するとそこには先に到着していたとおぼしき美緒の姿があった。気を利かせたのか、彼女はマスクをつけている。新型コロナの感染が落ち着き、最近では何もつけずにいる人も増えてきたのにだ。
「こんにちは、先生」
彼女が来たのはマンション管理業務を実体験するためで、先週以来となる。服装は高校時代に使っていたというジャージとその上にダウンジャケットを着ている。動きやすい格好をして欲しいと助言したが、本格的な装備だ。ジャージでの移動はさぞ目立ったことだろう。
美緒は挨拶もそこそこに、用具庫から取り出した箒と塵取りを手に、マンション前の歩道を掃除している。いつも気持ちの良い挨拶ができ、礼儀作法のしっかりした子だと思っていたが、ユミコがいったように実家が金持ちなら驚くに値しない。
万里は美緒のゴミ掃除を手伝い、それが終わると転居したネパール人の部屋へと案内した。アルミ工場の外国人リーダーに出世したというその男は、出稼ぎ労働者にしては金があったらしく、古くなった家電をはじめ、面倒なゴミが結構残っていた。業者に頼んで処分する前に、分別をおこなわねばならない。
「ゴミ袋が二種類あるから、適当に突っ込んで。区分けできないものは残しておいて良いから。粗大ごみもあとで業者が取りにくる」
「はい、わかりました」
体を動かして暑くなったのか、美緒はダウンジャケットを脱いで作業を開始する。
「汚れ仕事なのに申し訳ないね」というと、美緒は「わたし美人なんで、ちょっとくらい汚れても平気です」と答えた。
彼女が自分を美人と口にするのは初めてではない。本当にきれいな容姿をしているので、額面どおり受けとるしかないのが実状だ。
万里はネパール人の部屋を美緒に任せ、割れたゴミ箱の注意書きを新調する。あいにく管理人室のようなものはないため、自宅のマジックで百円均一で買ったプラスチックの板に指定の曜日を記入する。一応、英語と中国語の併記とし、住人への配慮もした。
新たな注意書きに穴を開け、ゴミ箱に持っていき、針金で括りつけた。ひと息吐くと万里は近くの自動販売機でホットコーヒーを買い、唇を使って舐めるように飲む。そんなとき彼は、ふと思い出した。美緒が作家になるため大学を一年留年する気だという話を。
自分なんかが彼女の指導をするのは不適格なのではないか、と万里は考える。何しろ彼は、作家になろうとする美緒の原稿を見て、生活臭がしないことを理由に仕事を手伝わし、強引に生の体験をさせようとする人間だ。見当違いな教えである可能性は否定できず、とはいえ彼にはこれ以外に方法がない。
実際、万里が感じていたように、美緒の実家は相当な金持ちらしい。生活感のない原稿を書いていたのはそれが理由だろう。純粋なエンターテインメントなら不要だが、純文学はむき出しの人生というか、ある種の生々しさが求められるジャンルだ。彼女は文学をやりたいと最初の面談でいっており、万里の指導はそれにもとづいている。
「だいたい片づきました、先生」
万里が作業を終えてネパール人のいた部屋に戻ると、美緒は残留したゴミを整頓し、あとは業者が取りにくるだけとなっていた。手際がとても良かったので、万里は「こういう仕事に経験があるの?」と思わず聞いた。
「高校の清掃は全校生徒がやったので」と美緒は答える。じつにコンパクトな回答だった。
「そういえばさ」と万里はまだ話足りないといわんばかりの声でいう。「きみは自分のことを美人だっていうけど、そういう自信はどこから湧くの?」
今度の質問は純粋な興味からだった。その謎が解けないかぎり美緒がリアルに感じられないという思いもある。万里自身の性格だが、彼は好奇心の旺盛な人間だ。
「ああ、そのことですか」と彼女はにこやかに笑った。そして淡々と言葉を継いだ。
「大した理由はないですよ。生まれてからずっときれいだの、美しいだのいわれてくると、どんなに不快でも受け入れるしかないじゃないですか。自分からそう名乗っておけばそれ以降、相手は大抵言及しなくなりますし」
予想以上に理路整然とした答えが返ってきたので万里は驚いた。おかげで言葉を失ってしまった。
彼は業者に連絡を入れ、準備ができたから教えた部屋番号からゴミなどを撤去してくれと伝えた。鍵は開けておくからよろしくと。
これで九割がた終わったも同然だ。万里は美緒を連れて自宅に戻った。ダウンジャケットを小脇に抱え、美緒は「お邪魔します」といって洗い立てのマットにあがった。
彼女を家に入れた万里は、脈絡もなくあることを考えた。彼自身、すでに自覚を持っているが、万里は美人が絡むとなぜか暴力的になる。この間、ユミコの紹介した知り合いにぶち切れたのも、相手の美しさと無関係ではない。
もしかすると男の存在がトリガーになり、他人に暴力を振るっているのかもしれないとおぼろげな仮説を立てた。男は恋人とかだった。ユミコを野放しにしているのは彼女が特定の彼氏を持っていないからだろう。美緒に特定の相手がいた場合、自分は間違いなく彼女をぼこぼこにする。
その物騒な感情は美を独占する男への妬みが中心だが、深層はもう少し複雑だ。万里は女装をしなければセックスができない男で、話がやや捩じれている。だがすべてを言語化するストレスは大きく、苦悩を維持できない万里は頭を切り替えた。
美緒をこたつ机に案内し、お茶を入れる。
「何が飲みたい?」と聞くと「何でも良いなら、ホットミルクで」と美緒は答えた。そういえば前回も同じことをいわれた気がする。病気の後遺症で記憶力に支障が出ているが、漠然とした印象は残っている。
それにしても美緒は美しい、とあらためて万里は思う。彼は自信過剰にも、女装した自分より美しい女はそうざらにはいないと思っていた。しかし美緒はそんな自分より圧倒的に美しく、まったく勝負にならない。トップクラスの俳優ならようやく五分五分か。
電子レンジのミルクが温まると、彼の淹れたコーヒーもできあがり、二つのマグカップを手にこたつへとむかった。配膳すると美緒は礼をいってから口をつけ、こちらを見た。その唇が小さく動き、彼女はかわいらしい声を発した。
「ゴミ掃除はまだ続きますか?」と美緒は問いかけた。
「嫌なら次は取りやめるけど」と万里は答えた。もとより無理強いさせる気はなかったからだ。聞き分けの良さそうな美緒も、清掃員の真似をさせられて良い気分はしなかったに違いない。ユミコがいったとおり、金持ちの家の娘ならなおさら腑に落ちる。しかし詳しく掘り下げると、美緒のやる気を削いだのはべつの理由だった。
「怖い雰囲気の外国の方が多くて、ちょっと不安になりました。過敏かもしれませんが、顔を覚えられると犯罪に巻き込まれるような気がして」
万里はその恐れに共感することはできないが、金持ちの娘なら出入りする場所を制限されたり、何かしら箱入り娘のような育ち方をしていてもおかしくない。正体不明の外国人がたむろする場所は、美緒が親から許された行動範囲に含まれていないのだろう。
「それは悪かった。生の体験をするときみが書くものにリアリティが増すと思ったんだけど」
少し残念そうな声色でいうと、美緒は申し訳なげに首をすくめた。
「先生の方針には賛成なんです。ありがたいと思っています。これまで実体験の不足が小説に深い影響を与えているなんて考えたこともなかったので。読者は生の体験を求める。わたしが小説を読むときのことを振り返っても、先生の考えは正しいと思います」
そこで美緒は言葉を区切った。万里は自分の教えが浸透していることに満足感を得た。
彼は美緒に、リアルとリアリティの違いを説いた。リアルはまさに書き手の実体験、生の経験だ。これに対してリアリティは、小説が本物らしく感じられる理由だ。
文学の書き手は、前者をベースに自分の書きたいものを構築していくことが多いのは事実だ。しかし小説においてはそれだけでは不十分で、なぜなら読者が読みたいものはそれとはべつに存在しているからだ。自分の書きたい物と読者の読みたい物の交差点を探す。万里は小説を書く作業はそうした試みのなかにあると思っている。だから偽物でも良いからリアリティを持たせるコツを体感しようと美緒にいった。
その意味では、彼女が外国人に恐怖を抱いたことなどは、得がたい感情の記憶となるだろう。
「あと先生。きょうは渡したいものがあって」
ホットミルクを下に置き、美緒がこちらを見た。渡したいものとは何か、上の空だった万里は気づかない。美緒はダウンジャケットのポケットに手を入れ、たばこを二つ並べたサイズの箱を取り出した。
「それは?」と万里は聞いた。
「バレンタインチョコです。大学の友達に配ったのですが、先生にもと思って」
美緒はそういうと、両手に掴んだ箱を差し出してきた。
「ひょっとして手作り?」と聞きながら受けとると、美緒は「そうです」と答えた。万里は急に動揺を覚えた。この箱にこめられた気持ちをどう受けとって良いのか。そもそも何が込められているのか、彼は即断できない。
「ありがとう。手作りチョコなんてはじめて貰ったよ」と嘘をいい、万里は箱の包みを解いた。箱のなかには、ハート形のホワイトチョコが四つ入っていた。表面に何かキラキラしたものが散りばめられており、店で売っている高価そうな代物に見えなくもない。
「先生、この間の散歩でホワイトチョコのケーキが好きだといってたし、たぶん気に入って貰えると思います」
美緒がいったのは、先日おこなった実体験の授業で少し離れた街にくり出した日のことだ。彼女は自宅のマンションと大学を行き来するだけで、普段はどこにも出かけないのだという。そんなインドアではリアリティのある嘘を書けないため、万里は美緒を外に連れだした。昼にビジネスマンが通う居酒屋ランチを食べ、帰りに知る人ぞ知る洋菓子店に寄り、お土産を買わせた。万里の好みはそのときの会話で知ったらしい。
万里はもう一度礼をいってチョコレートを口に含んだ。苦みの一切ないまろやかなホワイトチョコの味が口一杯に広がり、それを美緒が作ったという事実の重みで気分は高揚した。
「これは美味しいな。手作りとは思えない出来だ」と万里は驚嘆したようにいった。
「先生のリアクションも勉強になりますね。褒められて嬉しいという気持ちも」
どんなことでも学びになる、という話は万里がした。美緒はその文言をくり返し「次はどこに連れていってくれますか?」と上品に笑った。
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