第一章

 コンビニから自宅マンションに戻り、鍵を入れて自動ドアをくぐった。そのとき、住人であるインド人とすれ違った。その男は見たことのない顔で、どの部屋の住人か判別ができなかったが、最近彼らの知り合いが頻繁に出入りし、通りすがったインド人も友人のたぐいだろうとあたりをつける。


 万里はわけあってグレーのベンチコートを着込み、金色に輝く髪をポニーテールにまとめていた。思春期を過ぎ、怖いほど美しくなった顔だちもあいまって、女といわれたら十分女に見える容姿だ。もっともその軟弱さは外見だけで、マンションの管理人を務めている彼は通り過ぎようとするインド人を低い声で呼び止めた。理由は新型コロナウイルスが蔓延しているなか、彼がマスクをしてなかったからだ。


 万里は入り口に張り紙をし、マンションに入る者は洩れなくマスクを着用するように呼びかけていた。理由は彼自身が無保険で病気に罹りたくなかったからだが、インド人は万里の要請を無視して平然としている。見たところ肉体労働者らしく、体格はがっちりしているが、万里はまったく怯む様子を見せない。インド人の返答がなく、反抗的態度を見せたことに腹を立て、男の顔面をこぶしで殴りつけた。勢い任せの行動ではなく、二人の力量差を的確に掴んだうえでの暴行で、互いの立場を思い知らせてやる意味もある。彼はインド人に「マスクをして入れ」と注意し、生意気な目つきに苛立ってもう一度殴りつけた。インド人は顔面を押さえ、タイル張りの床に膝を突き、恨み言のようなものを小声で発した。


 もう少し痛めつけてやろうか。

 そう考え、再度鉄拳を固めたとき、道路のほうから「そのへんでやめてやりなよ」という声が聞こえた。後ろを振り返ると顔見知りの男が、見覚えのある若者を連れて険悪な表情をしている。万里はその男の職業を知っている。やくざだ。彼の管理するマンションは繁華街の端に建っていて、住人には水商売の男女や裏稼業の者も少なくない。


 なかでもこのやくざは、最上階に住む愛人の家に通っているらしいが、いつ見ても羽振りが良い。子分である若者に大型のメルセデスベンツを運転させ、アルマーニのスーツを着込み、ヴェルサーチの眼鏡をかけている。靴はフェラガモだ。そんなどぎつい光を放つ男に仲裁されたら首を縦に振るしかない。万里はコンビニ袋を下げたままの姿勢で会釈し、やくざとその連れに道を譲った。彼らを唖然とした表情で見送るインド人に殴打を食らわす気はもう起きない。


 部屋に戻るとユミコが料理をしていた。料理の腕前なら万里のほうが上手いのだが、彼はユミコがつくる炒飯が好物だった。


 ユミコはへらを動かしながら「荷物が届いているよ」といった。宅配の配達員とすれ違った覚えはないから、コンビニから戻る途中にマンションを出たのだろう。


 彼女のいったとおり、平机の脇に段ボールの箱が置かれている。梱包を文房具箱のカッターで解き、緩衝剤の中から数日前に注文した腹筋ローラーを取り出す。プロ仕様というだけあって想像以上にデザインが良く、中国製品にありがちな粗悪品でないことはひと目でわかった。万里は笑みを浮かべ、さっそく試してみた。靴下を脱いで体を尺取り虫のように畳み、伸ばす動作をくり返してみる。腹部にかかる負荷は期待どおりのもので、八回くらいでやめてしまったが、このトレーニングを毎日おこなえば鈍った腹筋をもう一度ベストな状態に鍛え上げられるだろう。


 顔をあげると「どうしてそんなもの買ったの?」とユミコが聞いた。万里は腹筋ローラーを棚の横に片づけ、コンビニ袋から烏龍茶とたばこを取り出す。たばこはユミコに頼まれたもので、烏龍茶は自分のものだ。


「こう見えて毎日腹筋してるんだけど、以前より確実に弱くなってる。根本的にやり方変えないと体を維持できない」


 蓋を開けた烏龍茶を飲みながら万里がぼやく。彼にとって体力とは強さだ。先日、居酒屋で絡んできた中年男に腹を殴られ、思いのほかダメージを受けたのが彼にはショックだった。中年男は肩幅も広く、格闘技経験者だった可能性はあるが、そんなことを考える前に体を鍛え直すのが万里だった。筋トレのメニューを増し、いちばん鍛えにくい筋力強化のために腹筋ローラーを買ったのだ。


 そんな事情を知らないユミコは、できあがった炒飯を皿に盛りながら「筋トレはあとにして、ご飯にしよ」と朗らかにいった。


 むろんそのつもりだった万里は、ここでようやくベンチコートを脱いだ。ベンチコートを着込んでいたのは防寒が目的だが、もう一つ重要な役目があった。それは女装した自分を隠すことだ。


 万里は近所を出歩くとき、女装癖がばれないよう慎重に振る舞っている。べつにばれても困らないのだが、病気をしてから意識が変わった。


 アウターを床に脱ぎ散らかした万里は上に白のセーターを着ており、下に黒いスカートを合わせている。スカートの丈は短く、寒さが苦手な万里はストッキングを穿いている。もともと白い脚をしているが、セーターと合わせるためにストッキングも白を選んでいる。


 配膳したユミコがこたつ机に座ると、万里は反対側に脚を斜めにして座った。いわゆる女座りというやつだ。普段は堂々とあぐらをかいているが、女装のときはできるだけユミコの所作を真似るようにしている。


「本当に女の子の格好が似合うよね、りーちゃんは。コートで隠さなくても通用するのに」


 山のように盛った炒飯をこたつ机に並べ、ユミコはからかうようにいう。りーちゃんというのは万里の名前からとった愛称だが、彼のことをりーちゃんと呼ぶ人間は結構いる。


 ユミコは女装した客の相手をする風俗店アクアガーデン鹿無木町店の元店員で、店の常連客だった万里と個人的にセックスしている。店が閉鎖したあとずっとだ。金のやり取りは違法になるため、出張で顔を出すたびにユミコは料理を振るまい、万里はそれに対して謝礼を支払っている。同じような元常連客は多いようで、ユミコは風俗店との掛け持ちで生計を立てているという。


 ちなみに女装した客を褒めるのは彼女らの常套手段で、どんなに醜悪な客にもそれ相応の褒め言葉が見つかるものだと以前ユミコはいったことがある。その話を聞いた万里は「お前のいうことはもう二度と信じない」と突っぱねたが、ユミコは快活に笑いながら「りーちゃんは特別だよ」と答えたものだ。


「さぁ、食べよう。いただきます」


 男の家に通い慣れた彼女のような雰囲気を醸し、ユミコはスプーンを片手にいった。万里は挨拶もそこそこに炒飯をかき込み「やっぱ熱いけど美味いな、熱いけど美味い」と連呼した。女装した万里は普段ならもっと上品に食事をとるのだが、ユミコの前では素の自分をさらけ出してしまうときがある。そのへんの切り替えはほとんど無意識だ。


「きょうの炒飯には隠し味を入れたよ。何だかわかる?」


 ユミコは食事をしながら会話ができる器用な人だったが、万里は違うので烏龍茶を流し込んでから答えた。

「どうせ愛情とかいうんだろ。そういう寒いジョーク不要だから」

「がーん、ばれてたか」


 一瞬体の動きをとめ、ユミコはふたたび炒飯を食べ進める。万里もスプーンを動かす手を休めない。だが心の片隅では違和感を覚えている。重要な話をする前にユミコは益体もなくふざけるくせがあったからだ。


「ねぇ、りーちゃん。じつはいっておきたいことがあるんだけどさ」


 案の定、ユミコは畏まったように姿勢を正した。そんな彼女をよそに万里は頬杖を突く。顔を皿にむけ、絶対目を合わせようとしない。


「この間、知り合いを紹介したじゃない、このマンションの入居希望で。その子から連絡貰ったんだけど、管理人に怒られたってへこんでた。何かあったの?」


 口調こそ穏やかで、テンションも変わらないが、明らかなクレームだ。たった数日前の出来事だったので万里は当日の不快さをはっきりと思い出せる。知り合いとユミコの関係はよく知らないが、物件を紹介している間にその女は彼氏を呼び寄せ、二人で長いこと内見し、喧しい会話はとまらなかった。


 万里が激怒したのは、表向き隣室の輸入代行業を営むベトナム人に文句をいわれたことだ。あまりうるさい真似をされるとトラブルになる旨を伝え、入居した際には気をつけて欲しいといったのだが、ユミコの知り合いは突然逆ギレをはじめ、彼氏を名乗る男は万里に対し「軽く騒いだ程度で苦情をいわれる筋合いはねぇだろうが」と罵声を浴びせた。


 男の格好をしていても万里は華奢に見えるため、服の下に鋼の筋肉を隠し持っていることに気づく相手は皆無だ。万里は彼氏の胸ぐらを掴み、そのまま壁に叩きつけた。ついでに女の頬をしたたかにぶった。はずみでぼこぼこにしなかったのは、ユミコの顔を立てたのと、彼氏が警察に通報する恐れがあったからだ。


 しかし万里が本当に怒ったのはべつの理由からだった。もしユミコの知り合いが不細工な女だったら、彼は涼しい顔でお引き取り願っただろう。なまじモデル体型の女がチャラい彼氏を連れていることに万里はとてつもなく腹を立てたのだ。辻褄の合わない行動に見えるが、万里のなかでは整合性がとれている。


「他の住人から注意されたんだよ、もう少し静かに内見してくれって。それを伝えたら彼氏を名乗るやつがおれに暴言を吐いたんだ。悪いのはむこうのほうだよ」


 事実を都合良く切りとり、万里は無罪を主張した。口調が冷徹なのでその言い訳は筋が通っているように聞こえる。ここに第三者がいれば納得しただろうし、相手がユミコならなおさらだった。


「そっか。ならりーちゃんが怒るわけだ」


 万里とユミコの付き合いは数年に及ぶもので、彼女は万里がぶち切れた場面をいくどか目にしている。殴られた男に非があるケースがほとんどだから、ユミコは彼を誤解していると思う。いささか手は早いが根は誠実な人だと。


「ごめんね、何か変な空気にしちゃった。彼女はわたしのほうでなだめとくから、りーちゃんは気に病む必要ないからね」


 事実確認がとれて安心したのか、ユミコは炒飯を口に運び「我ながら良い出来だ」と笑った。こういう後を引かない部分が彼女の美点で、世話焼きだが粘着質ではない女は存在自体がまれだと万里は思っている。そうでなければこれまでにいくどか、手を上げざるを得ない場面が訪れたはずだろう。

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