万里は成人して以降、他人に暴力を振るうとき、往々にしてある既視感を覚える。それは彼の友人であるタクミが子どもの頃見せた不愉快そうな顔だ。高校を出たあと、地元にある警備会社に就職した万里に対し、都内の有名大学に進んだタクミは外資系金融機関の社員となって現在はシンガポールに赴任している。


 タクミは副業で不動産投資をはじめており、保有するマンションの管理を前任者の離職を機に万里に任せ、そこそこ良い給料を支払っている。精神病院を出たばかりの万里にとって彼の依頼は渡りに船で、いうことを聞かない住人には厳しく接して良いと許可も得ていた。タクミのマンションに住む人間の半数近くは外国人で、日本語に不自由な連中も多く、そんな者たちを管理するには実力行使が手っ取り早い。万里はそういったノウハウを、警備会社のあとに勤めた中国料理店で学んだ。料理の腕も良かった万里は、同時に厨房の権力関係を掌握し、副料理長にまで出世したうえでその店も二年前に退職した。趣味で書いていた小説が新人賞をとり、思わぬヒットで依頼が増え、兼業するのが厳しくなったからだ。


 昼ご飯を終えると、急に手持ち無沙汰になる。マンションの管理業務は定められたルーチンさえ片づけば、基本的に暇だ。休日に割り振ったきょうのような日だと、ユミコと他愛もない時間を過ごすよりほかない。


 食器を洗いながらそんなことを思った万里だが、こたつに戻るとそこには謎の箱があった。


「なにこれ?」とこぼした彼に、ユミコがいった。

「サプライズだよ。開けてみて」


 思わせ振りな態度に万里は真顔になったが、こういう流れでユミコから罰ゲームをくらった覚えはない。いわれたとおり箱を開けると、そこには真っ白なホールケーキがあった。サイズは小ぶりだが、一人で食べきるには大きい。


「バレンタインにはちょっと早いけど、りーちゃんの好きなホワイトチョコをあしらったやつだよ。すぐ食べるならキッチンでカットしてこようか?」

「うん、ありがとう。せっかくだからユミコも食べなよ」


 淡白な声で礼をいったが、万里の顔に喜怒哀楽は出づらい。けれど本心では、ユミコのサプライズをありがたく思っている。振り返れば、去年のバレンタインデーも彼女と一緒にレストランを予約した。


 万里自身はバレンタインに頓着はないが、記念日を大事にしようとする人のことは尊重する。精神病院に入院したことや、義父から虐待されたことに記念日なんてないが、それらは他人にとって何の関係もないからだ。


 こたつに脚を突っ込みテレビをつけると、政治家と官僚を巻き込んだ汚職のニュースが特集というかたちで報じられていた。事件の発覚した先週から、ワイドショーはどこも同じ疑惑を扱っている。スポーツと金の話以外に興味のない万里はテレビを消し、ユミコの背中を眺めた。彼女は中くらいの皿に切り分けたケーキを載せ、バランスをとりながら運んできた。


 配膳されたケーキを食べながら万里は烏龍茶を飲む。その様子を見たユミコが「コーヒーを用意したほうが良かった?」と気を利かしたことをいうが「烏龍茶で十分」とぶっきらぼうに答えた万里を見やって自分のケーキに向き直る。恋人でない女とバレンタイン用のケーキを食べ、何気ない会話をかわす。万里はふと、自分にとってユミコとはどういう存在なのか意識した。顧客と売春婦という関係以上ではないのだが、そういう枠を越えた行為を二人はいくども重ねてきた。ともに正月のおせちを食べたこともある。夏には伊豆に日帰り旅行をした。


 万里は女として性愛に向き合いたいという切実な願望を持っており、それらを認めてくれた相手はいまのところユミコしかいない。性欲がある以上どこかで発散しなくてはならないため、月に一度自宅まで出張して貰っている。その重要性を過小評価しているのではないか。以前に彼女との関係を思い悩んだことを想起し、万里はむかむかしてきた。彼の地雷は到るところに埋まっている。


「そういえばさ、りーちゃん」

 自分の思考に気疲れしそうな万里に対し、ユミコが聞いた。

「美緒ちゃんとはうまくやってるの?」

 その問いを受け、万里の頭が切り替わった。テレビのチャンネルみたいだ。

「あの子、すごいな。自分のこと臆面もなく美人って口にする子、はじめて見た」

 呆れた表情だが、万里の言葉に力が入る。感情が乗った証だ。

「そうそう。『わたし、美人なんで、同じ大学の男子にちやほやされて困ってるんです』とか、初対面の頃いわれてびっくりしたよ」


 共感のツボを押してしまったらしく、ユミコが心持ち身を乗り出す。大人がふたり、美緒という女子大生について雑談をはじめた。


 彼女の本名は、神崎美緒。ユミコの母親がジャズダンスに通っていて、そこで出会った友人の子どもだった。作家志望であることをユミコが聞きつけ、曲がりなりにも著書をあらわしている万里にお鉢がまわってきた。他人に教えられるほどノウハウがあるわけでないが、添削と初歩的なアドバイスだけで良いといわれ、渋々引き受けることになった。美緒がとてつもない美人であることは最初の授業で知った。

「りーちゃん、知ってる? 美緒ちゃん、大学留年するんだって、一年間だけ。その間、小説の執筆に集中するらしいよ。すごいね、本気だね」


 万里はユミコの話を聞き、複雑な気持ちになった。留年する意向を持っていることはたったいま知ったからだ。


 美緒は無口ではないが余計なことは話さないようで、身の上話を聞いたことは数えるほどしかない。会えば小説の話ばかりしている。それはそれで悪いことではないのだろうが、授業の内容を練る立場としてはもっと事情を話して欲しい。年齢はだいぶ下でまだ社会人でもないし、小言をいいたくない万里は注意をためらう。今度会ったときはもう少し胸を開いて貰えるよう働きかける必要がありそうだ。


「ねぇ、美緒ちゃんに興味あるの?」

 万里が視線を合わせると、彼の瞳を覗き込むようにユミコがいった。どんな意図のある疑問なのか、即座に理解できない。色恋沙汰という点では意識したこともなかった。

「おれを女として扱わない人間に関心は抱けないよ」

 妥当な返事を述べたが、ユミコは深く気にかけなかったようだ。

「りーちゃん一貫してるねぇ。わたしとしてはありがたいけど、せっかくお近づきになったんだから、これを機に距離を縮めてみると思わぬ発見があるかもよ。美緒ちゃんの実家とんでもないお金持ちらしいし」


 最後のひと言に万里は聞き耳を立てた。タクミの恩情で生活こそできているが、精神病院に入っている間、貯金は医療費に消えた。金という単語に過剰反応したのはそのせいだ。


「教え子に手を出す趣味はないよ。彼氏がいたらバカを見るだろ?」

 ユミコにはいわないが、もし美緒に彼氏がいたら、彼女の顔をぶん殴り、気が済むまでぼこぼこにしてしまうだろう。相手が美人であるほど暴力の衝動は大きく膨らむからだ。そうした後ろ暗い感情を腹の内に隠し、万里は心にもないことをいった。

「まあ、相手次第で好奇心が刺激されることはあるかも。いまのところ気が合う相手がユミコしかいないだけで」


 何も考えずにいったが、ユミコはまんざらでもない顔でケーキを口に運んだ。実際のところ、彼女には感謝している。セックスの謝礼を値引きしてくれたのをはじめ、世話になった覚えは枚挙に遑がない。これでもし、セックスが無料になればヒモの完成だ。選択次第ではユミコに養われる可能性も十分にありえた。


 しかしそれは本意ではない。とにかく金が欲しい、と万里は思った。他人の世話にならず、自立した生活を一刻も早く築きたい。そのためにはふたたび小説を世に送り出し、印税で稼がねばならない。

「ねぇ、りーちゃん」とユミコが聞いた。万里は「なに?」と問い返した。

「もう一度する? きょうは夕方まで暇なんだ」


 ユミコの誘いに悪意はない。むしろ万里を思いやっており、人間性は申し分ない。とはいえそれは表面的な見方で、本当は心の底で気づいている。ユミコの優しさの裏には万里の自由を束縛する支配欲が隠れていることを。


 それが理由ではないものの、彼はユミコとのセックスでペニスを勃起させられない。万里はセーターとスカートを脱ぎ、下着姿になってベッドに横たわった。そこでは同じく下着をまとうだけになったユミコが彼の上に覆い被さる。


 二人は女どうしがするようなセックスをし、万里はそれで満足感を得る。射精などいらない。ユミコの唇を激しく貪りながら、彼女に胸を揉まれ、喘ぎ声を出す。炒飯を食べたばかりだし香味野菜の匂いを感じたが、ふいに頭がみしみしと軋む。こめかみの辺りが痛み、体がだるくなった。空咳のようなものまで出る。


 コロナに感染していたらどうしよう、と反射的に思った。万里はユミコに断ってキッチンに行き、ドラッグストアで買える漢方薬を飲み干した。頭痛はすぐには消えないが、気が楽になった彼はユミコの隣に寝そべり、股ぐらに手を押し込む。そして勃起しないペニスを視界の隅におさめながら彼女の豆粒大な突起を指の腹で撫でまわす。

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