第10話 神話か、現実か、それが問題だ
「ぐふ、ぐふふふ」
ランチ中に不意にあがった不気味な笑い声に、武羅夫が反応した。
「なあ、悠……」
厄介なことになった、そういう目線を向けられる。
「皆まで言うな。僕が悪いのは理解している」
不気味な笑い声をあげているのはアスタルテである。
「……うっかりオペラのことを話してしまって、今やギリシア神話に乗り込むつもりで一杯らしい」
「ギリシア神話の女神になれたら、あっちこっちのフィクションから引く手あまた……、うふふふ、楽しみね」
本音もだだ漏れてきている。
いや、まだ、ギリシア神話が崩壊すると決まったわけでもないし、仮にそうなったとしてそこに送り込めるという保証もないのだけれど。
とはいえ、本人は完全にその気だし、何も起きていない段階であれこれ邪推して文句を言われるのもご免だから、好きにさせている。
「魔央さん、今日はバシッとやっちゃってくださいねぇ」
「は、はぁ……」
アスタルテが魔央に頼み込む様子は、不良の舎弟とか時代劇の悪役が「あ、兄貴、お願いします」と言っているものとほぼ同じであるが、それを指摘しても怒るだけだから無視している。
今日がいよいよオペラ鑑賞の日。
魔央はもちろんのこと、アスタルテも一緒に出掛けることになった。
『ダナエの愛』というのはギリシア神話に出てくる触れた者を黄金に変える王ミダスと、主神ユピテル(ゼウス)の間で揺れ動く女性ダナエを主役とする話だ。
まあ、ギリシア神話だから、ゼウスが問題事を起こして、それに人間が振り回されて、という展開だけれど、この話はダナエがミダスを選んで、ゼウスは袖にされるというハッピーエンドにはなっている。
しかし、まあ、ゼウスは本当にトラブルメーカーというか何というか。地位やら何やらと引き換えにダナエを諦めろと迫るあたり、どうしようもない女好きだ。
魔央もふるふると震えているし、これはまあ、残念ながらギリシア神話は終わったと思うしかない。アスタルテが受け入れられるかどうかについては何とも言えないけれども。
「何て酷い神様なんでしょう、ゼウスって」
破壊神にダメ出しされる主神もどうかと思うのだが、魔央の言い分は間違ってはいない。
これでギリシア神話も終わりかな……と思った時、アスタルテがとんでもないことを言い出した。
「神様だけじゃないわ。人間というもの自体がこういう身勝手なものなのよ」
「……!」
「私もそうよ。人間の都合で抹消され、人間の都合で馬鹿にされる。薄い本にもされるわ、罵詈雑言の対象となるわ……」
「ひ、酷いです」
「そうよ! ひどすぎるのよ!」
ちょっと! 魔央を煽るんじゃない!
それだけ煽ると矛先が神話の世界から、僕達の世界へと向いてしまう!
「人間の世界、酷すぎます!」
間に合わなかった。
破壊神のゼウスをはじめとする、ギリシア世界への怒りはすさまじかった。その怒りによって、何故かかつてゼウスに滅ぼされたはずのクロノスが蘇った。
蘇ったクロノスは「ゼウスを飲み込んでやるわ!」と世界を丸ごと飲み込んでしまう。
世界はクロノスの胃袋におさまった。
その消化を待って滅亡することになる。
『世界を救いますか?』
『▶はい いいえ』
何てことだ。
異世界を滅ぼすはずだったストックを、僕達の世界救済のために使ってしまった。
とはいえ、この世界の神としてアスタルテを受け入れるべきかというと、ノーだ。そうでなくても大変なこの世界の神が彼女になってしまうと、魔央がどうこう関係なく世界は滅亡してしまう。
だから、ここは何もせずに救うしかない。
『世界を救いますか?』
『▶はい いいえ』
おっと、返事をしないから再度問い掛けられた。
もちろん、救います。救いますよっと。
ポンっとね。
世界は復活したが、貴重なストックを失うことになってしまった。
そして、アスタルテをどうするかという問題が残ってしまった。
「人間どもめぇ……」
世界が復活しても、アスタルテはまだぼやいている。
「奴らに復讐するまで、私は他の世界に行くに行けないわ」
「そうなんだ。じゃあ、ここで精神修行とかすればいいんじゃないかな?」
君子危うきに近寄らず。こういう展開になったら、もう放置するしかない。
「……精神修行。そうね、復讐のためには強くならなければ」
アスタルテは納得したようで、名刺の場所へ行くつもりのようだ。
「これでいいのか?」
と武羅夫が聞いてくる。
「好きにさせるしかないでしょ。魔央の近くにおいておくと、変なネガティヴエネルギーを放出して悪影響を及ぼすかもしれないし」
「……ちなみにどこに行ったんだ?」
「行ったことはないけど、川神家が精神修行の教室を開いているらしいから、そこ」
「……それなら最悪なことにはならないか」
そうだと願いたい。
ただ、教室に先輩がいた場合、いつの間にかボイスターズファンに染められているかもしれないけれど。
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