第3話 その夜の出来事

 その時、確かにうめき声が聞こえたような気がした。

同時に、背中に冷たい氷を当てられたようなショックを感じ、立っていられなくなり、彩子はその場にしゃがみこんだ。

 またうめき声が聞こえる。男の声だ。しかも側に誰かいる。

 同時に、頭痛と体が強張るような感覚に襲われた。うめき声と人の気配はあっても、側には誰もいない。

 何が起こったのか、彩子は冷静になろうとした。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。これは子供の頃、祖母の家で暮らしていた時に、おばあちゃんが教えてくれた心を落ち着かせる方法だ。ゆっくり呼吸を繰り返すうちに、背筋が冷えるような感じが薄らいでいった。

「大丈夫ですか」

 後方から女性の声がした。足音が近づいて来る。

 声を掛けられたと同時に、頭痛が消えて、体に力が戻って来た。ゆっくりと頭を上げると、塾帰りの子供とその母親らしい女性が、心配そうに彩子を覗き込んでいた。

「救急車呼びましょうか」

「大丈夫です。ありがとうございます」と答えて彩子は立ち上がった。全身の強張りも消えている。

 心配してくれた親子に礼を言うと、彩子は歩き出した。親子はその後も心配そうに前を歩きながら振り返っていたが、彩子の回復した様子を見ると交差点を曲がっていった。

 それにしても、さっきの声は何の声だろう。思い出しただけで、強張る感覚が蘇りそうになる。

 交差点にあるコンビニエンスストアに逃げ込むように入ると、普通に買いものをするカップルや、明るい店内ラジオが流れていてホッとする。めったに使わない買い物かごを手に取り、普段はコンビニで買わない発泡酒とお菓子を買って、しばらくファッション誌を眺めて、恐怖心が消えるまで時間を潰した。


 自宅マンションのエレベーターホールでは付近を観察し、自宅までの廊下を歩く際も他に人が居ないことを確認しながら、部屋まで帰った。ドアの鍵を閉めて、1DKの部屋のライトをつけ、ベッドに倒れ込む。コンビニで買ってきたビール飲料を飲むとようやく落ち着いてきた。シャワーを浴びて、ベッドに横になったときには、午前二時近くになっていた。


 こんなに遅くなったのも、副支店長が年度末の点数稼ぎの為に、全員に目標到達計画を作らせた為、さらに一回作ったものを、課長が忖度した目標での作り直しの作業を課長が請け負って来たからだ。こんなこといくらしても、不景気な時期で成績があがる訳がない。愚か者が言い出して、愚か者が考えた、無駄な作業の巻き添え被害だ。サービス残業禁止などと口では言いながらも、人員は削られて補充は無く。業務量は明らかにオーバーしているのに、仕事の効率化と号令を下におろしてくるだけ。出来ないのは個人の技量が低いからと毎年、査定する量産型課長の姿。自分さえ良ければ、銀行をよくする皆が良くなることを一切考えないおじさん達への怒りが、頭の中をグルグル回りだして、眠れなくなってきた。

 水でも飲もうと照明を点けた時、いきなり目の前に黒いスーツを着た男が立っていた。

 彩子は咄嗟に後ろに後ずさりして、悲鳴を出そうとしたが声がでない。

 目のまえの痩せた背の高い男も、驚いたような顔で後ずさりする。

「俺のこと見えんのか?」

 男がしゃべった。

「ちょっと落ち着いてくれ、俺もわからんのやけど、お前に勝手に連れてこられたみたいやねん」

 って、何、ストーカー? 強盗? とにかく、警察に電話しないと。

 彩子は携帯電話を探した

「待ってくれ、ちょっと早まるな。俺はな、もう死んでるんや多分。ここにはおらへんなぁ。信じてくれ」

 男はなぜかえらく怯えていて、しかも関西弁で話しかけて来た。

 彩子は男の隙を見て、部屋を出ると生まれて初めて110番に電話した。


「すいません。警察ですか、家に変な男が居ます。住所は……」

 話しているうちに、彩子は頭がはっきりしてきた。

 男は目の前から姿を消していた。どこに隠れたのか、怖くなった彩子はパジャマのジャージで、1階のエレベーターホールまで降りた。

 やがて5分程で、パトカーと自転車に乗った警察官が到着した。

「大丈夫ですか? まだ部屋の中に居ますか?」

「はい、多分いると思います」

「では、中に入って確認しますのでご同行下さい」

 警察官とエレベーターに乗ると、不思議な感覚がして来た。私はこのまま事件に巻き込まれるのか? 明日、ワイドショーとかに出るのか? 夜中なので頭も混乱してきた。

 

 二人の警官が彩子の部屋を確認するが1DKだ。寝室とキッチンを見て、ベランダ、バスルームを見ると、もう他に見る所がない。玄関もベランダも鍵がかかったままで、何者かが出入りした様子はないという。

「暴力を振るわれたり、部屋の物を物色していたような気配はありませんでしたか」

「それはないんですが」

「その男に見覚えとか無かったですか? お知り合いとか鍵を渡したとか?」

「そんなことありません。背が凄く高い、黒い服を着た男でした」

 落ち着いてくると発泡酒の酔いが戻って来た。

 狭い部屋の中で、彩子と警察官三人がいると、それだけで一杯だ。

「あの、その人物は何処から侵入して、どこに逃げたと思いますか? 窓から逃亡した可能性は高さから言ってないですね」

 あの大きな男がどこに逃げたのか、そもそもどこから入って来たのか彩子にとっても謎だらけだ。

「いや、そのはっきりしないんですが、さっきまでここに居たんですが、電話をかけると居なくなったようで」

 警察官は顔を見合わせた。

「念の為、管理会社と連絡して防犯カメラを確認します。もしまたその男が現れたら、絶対に部屋に入れずに110番お願いします」

「はい」

「この後、署にお越しいただいて、被害届けや、似顔絵のご協力をお願いできないでしょうか? 付近を警戒するようにします」

「いや、ちょっとそれは、明日仕事が早いのでそこまでは……」

 警察官の持っている無線に連絡が入った。無線を聞きながら警官の顔に緊張が走った。

「えっはい……急行します」

 警察官は小声で、会話した。「東口に変死体」という単語だけ聞き取れた。

「もし、問題ないようでしたら私達はこれで、戸締まりは充分注意して下さい。もし何か有りましたら川口署に直接かけて下さい」

 警察官三名は、名刺を置いて急いで出ていった。

「何で急に皆いなくなる、酒飲んでたのが悪かったのか」

 部屋に残された彩子はテレビを付けたまま、ベッドに座って、さっき起きた事を考えていると、現実味が薄い夢の中での出来事のように思えてきた。

「三時間でも寝た方がましだ」と彩子は睡眠導入剤を飲んで寝た。

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