第2話 午後の騒乱@四谷荒木町

「それって教わったパスワードじゃなくて、あんたの頭の方が間違ってたとしか思えないんだけど」

「そんなことはない、確実に覚えてる。qrb600590、ボクの頭の中にちゃんと入ってる」

「ちょっと待って、やっぱ違くない、それ。あの紙切れはあたしも見てたし」

「ど、どこがだよ」

「どこって……そんなこと、今ここで話してる場合じゃないっしょ、とにかく逃げなきゃだし」


 二人が息を切らしながらそんな会話を交わしているうちに目指す児童遊園地が見えてきた。小さな公園に小さな稲荷神社が張り付くように祀られている。その敷地の片隅に江戸時代の土蔵を模したこれまた小さな建物が見えた。それこそがミエルの目指す公衆トイレ、金属製の扉には男女共用を示す赤と青のマークが掲げられていた。

 遠く怒声が聞こえてくるが追っ手はまだここまでは来ていない。夕暮れ時の公衆トイレに二人は急いで身を隠した。


「ミエル、そのノーパソ動かしてみるし」


 晶子しょうこが言うままにミエルがノートPCの電源をオンにすると待機状態から復帰したログイン画面が現れる。ミエルはそこに覚えているパスワードを入力してみるが、やはり結果は同じでエラーになるばかりだった。


「あ――、もう、ちょっと貸して!」


 晶子はミエルからノートPCを取り上げるとすぐさま自分が覚えているパスワードを入力する。qr600059o、すると見事にデスクトップ画面が表示された。


「ほら、やっぱりだし。あんた最初から最後まで間違え過ぎ、何が受験生は記憶力が勝負よ、聞いて呆れちゃうし」

「うわぁ――、マジかぁ――! でも晶子のおかげで助かったよ」

「フンッ、おだてたって何も出ないし」


 二人がパソコン相手に奮闘している間に扉の外から数人の足音と怒鳴り声が聞こえてきた。


「マジで向こうにはいなかったんだな?」

「いねぇっす、マジっす」

「ったく、それじゃどこに消えたってんだ。まさかそこいらの店に潜り込んだんじゃねぇだろうな」

「あのガキどもが組合と関係があるならあり得ますね、結託してそうだし」

「クソッ、組合だか何だか知らねぇけど老いぼれどもがよ……ん、おい、ちょっと待てよ、あれを見ろ、あれを」


 ヒップホップ風ファッションにピアスやタトゥーを入れた若者たちのリーダー格と思しき青年が待ての合図をしながら前方を指さした。


「あれってトイレだっけか。おい、誰か……いや、俺が行こう」


 リーダー格の青年を筆頭に若者たちが小さな土蔵風建物を取り囲む。青年が手下に顎で合図をすると金髪の若者がドアノブに手を掛けた。


「カギがかかってるっす」

「ふふ、やっぱな。オイ、隠れてんのはわかってるんだ、さっさと出てこいよ」


 しかしドアが開くことはなかった。青年はもう一度声を上げる。


「いいぜ、そっちがその気ならこっちは何時間でも待ってやるよ。その間に仲間ぁ呼ぶからよ。覚悟はしておいた方がいいぜ」



 トイレの中ではミエルと晶子が身を潜めていた。抑えた声でミエルがつぶやく。


「足音の感じからすると五人ってところか。ボクがおとりになるから晶子はノートを持って逃げてくれ。なんとか新宿通りまで出られればタクシーも拾えるし、そうなれば晶子だけでもピンチ脱出さ」

「そんなことできるわけないし……」

「できるできないじゃなくて、やるんだよ。今回は完全にボクのミスなんだ。だからボクがヤツらを食い止めるから」

「バカ言うなし。五人相手なんてマジやばいっしょ。あたしも戦うし」

「女の子にそんな危ないこと……」

「フン、メイドの変態女装男子に言われたくないし。それにほら、こんなこともあろうかと、っしょ」


 晶子は制服のスカートをたくし上げて見せた。そこにはガーターベルトに挟んだスタンガンの黒色が彼女の白い足に映えていた。


「やるっきゃないっしょ、こうなったら」


 不敵な笑みを見せる晶子に呆れたため息をつくと、ミエルは彼女が背負う学生カバンにノートPCを押し込んで覚悟を決めた。


「よし、それじゃドアを開けるよ。とにかく先手必勝だからね。それと倒すことより逃げること、いいね?」

「わかってるし」

「行くよ、せ――の!」


 ミエルは思い切ってドアを開けた。

 目の前には両腕にタトゥーを入れたいかつい青年が立っている。乾坤一擲けんこんいってき、まずはそいつにタックル、相手が怯んだ隙に拳を振り上げると見事に顎に命中、青年は天を仰いでその場に倒れた。間髪入れずに金髪の若者の懐に踏み込むと鳩尾に正拳一発、続けざまに二発、三発。これでなんとか活路が見出せそうだ。ミエルはウィッグのツインテールを揺らしながらここぞとばかりに声を上げる。


「今だ、晶子、逃げろ!」


 くぐもったうめき声とともに膝をつく若者をそのままに次の相手に挑もうとしたそのとき、ミエルの目に映ったのは張り飛ばされて地べたに転げる晶子の姿だった。


「晶子――!」


 ミエルが急いで駆け寄ろうとすると別の一人が彼の前に立ちはだかる。不敵な笑みで男はミエルの横面を殴り飛ばした。転げるミエル。しかし彼も必死だった、とにかく晶子を守るんだ。ミエルがかろうじて体勢を立て直したとき、彼の視界に飛び込んで来たのは持ち主を無くしたスタンガンだった。

 まずい、もしあれをヤツらに奪われたらピンチどころじゃない。ミエルは持てる気力を振り絞って立ち上がると、同時にスタンガン目指してスライディング、素早く拾い上げたそれを晶子に向けて放り投げた。


「ッツ――、なんで女子を殴るしぃ」


 唇を噛みしめながら起き上がろうとする晶子の目の前に今さっき取り落としたスタンガンが転がって来た。その方向に目を向けるとミエルが自分に向かって頷くのが見えた。

 晶子は黒いスタンガンを手にするとすぐさま自分を見下ろす男の脇腹にそれを押し当ててボタンを押す。乾いた炸裂音とともに声も上げずに倒れる男。ミエルが二人に晶子が一人、これで残る相手はあと二人となった。


「そこまでだ!」


 身構えるミエルと晶子の耳に聞き覚えのある声が飛び込んで来た。公園の入口に立っていたのは東新宿署の相庵あいあん警部、数名の警察官とともに公園にいる全員を取り囲む。


「お前ら全員そこに並べ、暴行と傷害で現行犯逮捕だ」


 サイレンを鳴らさずに到着したパトカーに五人の若者が次々と連行されていく。その様子を見ながら警部はミエルと晶子に声を荒げた。


「だから何度も言ってるだろ、子どもがスパイごっこなんてやるな、って。まったくあのママにもお灸をすえてやんなくちゃだぜ」


 怒り心頭の相庵警部を前にしてミエルと晶子は二人揃って頬を腫らせながら肩を落とすしかなかった。慌ただしく行き交う警官たちをよそに警部は二人に耳打ちする。


「で、証拠の品は手に入ったのか」

「は、はい、店のノートPCが。今、晶子のカバンに入ってます」

「そうか、ならさっさとここから消えろ。警察がいるうちは連中も手を出して来ないだろう。さ、行け」


 ミエルと晶子は揃って一礼すると騒乱の舞台となった小さな公園を後にした。

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