第二話 幽霊と秘密 ①

 世界はデタラメだ。とくに昨今は。

 それはふと思い出したかのようにその悪魔的な本性を表して、現実と呼ばれるものがいかに荒唐無稽こうとうむけいであるか、まざまざと教えてくれる。

 たとえば、夏の夜の夢のように予定調和の乱痴気らんちき騒ぎが待っているのであれば、あるいは満更まんざらではなかったかもしれない。

 だがもしも、それがぎだらけの茶番劇だと知っていたならば、だれも好き好んで演者を務めようとはしないだろう。


 昨日の疲労がたたってか、忍が目を覚ましたときにはすでに朝食の時間を過ぎていた。

 炊事すいじ当番の日であれば問答無用で叩き起こされていただろうが、今日は予定が空いていたおかげで見逃されたのかもしれない。

 支度したくを整えて食堂に向かうと、朝食を終えた朝露が静かに紅茶を飲んでいた。

「あの、申しわけありません……」忍は寝惚ねぼけ頭でふらふらと謝罪の言葉をひねり出す。「つい、寝坊してしまいまして……」

「起こそうか迷ったけれど、疲れているみたいだったから。それよりも、急がないと間に合わないんじゃない」

「ええ、まあ……」

「ケケケ、昨日は熊に食われかけたンだってなァ。テメェにツユちゃんの世話役は務まらねェや、とっととウチと代われ」

 忍が席に着くと、同僚が寝癖ねぐせだらけの金髪を揺らしながら因縁いんねんを付けてくる。

 蕪崎あんず―――家政婦長のめいであり、素行不良の家出少女だ。

 父親との喧嘩に端を発して家を出た杏が小倉家で下働きを始めたのは二年前のことだった。行く当てもないままに街をぶらぶらと歩いていたところを伯母おばの薫が連れてきたのだ。

「躾が足りていないようだが、野良犬とでも間違えて育てられたか……?」

「ダァレが野良犬だァ! ウチが口のきかたってもンを教えてやらァ!」

 杏は忍とひとつ違いの年下に当たる。市街の中学校に通うかたわら、使用人の見習いとして仕事を手伝っている。

 学生の身分である三人は登校時間の関係上、小倉家の食卓にて毎日のように顔を突き合わせていた。

「支度は済んでいるのか」杏が忍に飛びかかろうと席を立った瞬間、薫は冷ややかな口振りで制した。「遅刻するよ、杏」

「わわ、分かっているよォ」

 家政婦長に歯向かうことの愚かさは野良犬でも理解できるようだ、そう思いながら、忍は寝惚け眼で朝食に手を付け始めた。

「昨日の事故だが、なにもなかったのか」

「見てのとおりのありさまですがね。アンタの部下が傷だらけで、なにもなかったってことはないでしょう」

 忍は薫の言葉の意味を分かっていたが、惚けて返した。

 あの時間、あの場所に現れたものは確かに常軌じょうきいっしていた。

「あの子も交じっていたと聞いているが、環境省に目を付けられていることを忘れたわけでもあるまい」

「みたらしは平気。かおるは詮索せんさくが過ぎるし、今日はもう口を利かない」

「いやはやそれは」薫は血がにじむほどに唇をみ締める。「あんまりにもあんまりでございます、朝露さま」

「あの……そろそろ、行きましょうか……」

「にいさんって食べるの早いけれど、ちゃんと味わっている?」

 忍が食べ終えたことであせりを覚えたのか、杏は「遅刻は嫌だ嫌だァ!」と泣きわめきながら、口の中いっぱいに料理を詰め込んでゆく。忍は杏が窒息ちっそくするまえに水を手渡したあと、朝露と並んで学校に向かうのだった。


 昨日、忍を襲ったのは月輪熊の皮を被った羆だった。神秘とも奇跡とも怪奇とも霊異とも呼ばれるあのような超自然現象は人間の手に及ばない理不尽さに畏怖いふを込めて災害にたとえられる。

 およそ十年前に起きた〝伊根いね神隠し事件〟以来、近代合理主義的な理性を根底から揺るがすような神秘の存在が、今日まで人々のあいだで認知されてきた。

 つまるところ、自然界には道理の通らない領分が存在するということだ。

 事件当時の定点観測映像は、京都府与謝よさ郡伊根町の住人が突如として町全体をおおった黄金色の霧の中で消えてゆくさまを、はっきりと目に見えるかたちでとらえていた。行方不明者の名簿には、偶然にも伊根の舟屋ふなやを訪れていた朝露の母親の名前も入っていたという。

 調査にはあらゆる手が尽くされたが、進展は得られないままだ。事件以降、日本各地で奇怪な事件が相次いだことで、人々の記憶からも風化しつつあった。

 環境省自然環境局特殊災害課―――伊根の神隠しで発生した黄金色の霧の調査を進めるなかで新設されたその防災機関には、当時の内閣が特設した災害対策本部の業務が移管された。活動実態の不透明さと年々ふくれ上がる概算要求には疑問の声も聞かれるが、過去に類を見ない現象を前に有効な手立てを持たない現状では試行錯誤を繰り返すほかないのかもしれない。

 いつだったか、特殊災害課の職員を名乗るものが御手洗のもとを訪ねてきたことを忍は覚えている。なぜならばそのとき、御手洗が仮住まいに使っていたのは小倉家の所有する山のっ建て小屋で、〝秘密基地〟と称されるその場所までの道案内を任されたのは忍だった。

 しかし、御手洗は虫の居どころが悪かったのか、来客の言葉に聞く耳を持たなかった。それゆえに、忍が代わりに話し相手を務めたのだ。

 いわく、因果関係は不明だが、超自然現象に巻き込まれる危険性の高い人間が―――少なくとも統計的な事実として―――存在している。

 御手洗が過去、中規模以上の超自然現象に巻き込まれたのは、公的な記録だけでも十三回。驚くべきなのは、十三回もの生還を果たしてきた悪運の強さではないかと忍は思ったが、口には出さなかった。

 環境省は御手洗に身柄みがらの保護を申し出たが、本人は首を横に振った。人権的な制約に阻まれなければ、環境省は御手洗を拘束してでも管理下に置きたいところなのだろう。

 とはいえ、御手洗の存在が超自然の発生と関係しているのかどうか、確かなことは分からない。いずれにしても、未然に防げるようなものではないということも分かっていた。

 忍は話を聞くなかで、取り留めのないことを考えていた。

 ローマ・カトリック教会は列聖れっせいの条件に奇跡の証明を定めているが、御手洗の場合、認可は下りるのだろうか。神秘も奇跡もかつてのような啓示けいじ性を失ってしまったいまでは難しいかもしれない。もとより、聖人と呼べるような心を持ち合わせていないのは言うまでもなく、忍の頭の中に思い浮かぶのは魔女裁判に掛けられた御手洗の姿ばかりだった。

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