第一話 狂った茶番 ④
医者に
事情が事情であるために教師に咎められることもなかったが、生徒が熊に襲われたという
放課後、忍は
結局のところ、熊を仕留めた
かといって、他人のものを勝手に持ち出していいことにはならないのだが、実弾入りの散弾銃を車外に放置するのは保管義務違反だ。
御手洗は猟師の不始末を問いただして、責任を取るべきだと
結果として、熊に襲われていた梓山の生徒は、一介の猟師に助けられたという物語に
「なあ、掃除は後日で構わないと思うが……そもそも、茶室の修繕は業者にでも頼まないかぎり、どうにもならないんじゃないか……?」
「だろうな。ま、んなことはどうだってい〜さ」
まさか、忍も熊に襲われた当日に部活動の参加を強要されるとは思っていなかった。
獣害は基本的に保険の対象外だ。理事長に取り合ったとしても、茶室の修復にはまだ時間を要するはずだった。むしろ、しばらくのあいだは部活動の休止を言い渡されてもおかしくないだろう。
「ん……?」
忍が違和感に気づいたのは、露地に入ったときだった。
忍の鼻先に漂ってきたのは苔生した土の匂いではなく、煮立った鍋の匂いだったからだ。
「くだんの猟師が
調子の良いことを言っているが、御手洗が猟師に手配させたのだろう。あの熊の死体が自治体に報告されると面倒事が起きるのは明らかだった。
「これきよ」
「よう、朝露。あと、忍に御手洗も。なにやら、大変だったみたいだなあ。ちなみにこちらも大変なんだよねえ。さっきからさあ、泣きやんでくれないの、おれたちの部長が」
荒れ果てた茶室の前では、鍋の火加減を見ている
「どうぢで、どうぢでごんなごどになっぢゃっだの、ねえ、どうぢでっ」
「おおい、泣くなってば、部長ったら。忍が無事だっただけでも
林檎は新入生にもかかわらず、茶道部の部長を
「茶室の庭で熊鍋を囲むなんて、
「にいさんだって、茶室を
朝露は大ぶりの
「夕飯、入りますかね」
「入るし」
是清に
「お、おっ、小倉くんも、食べますよね。だ、だって、この熊肉って、わたしたちの仇っ、のようなもの、なんですよね、ひひっ」
「部長……?」
涙で目を
「こ、これは、割れた花瓶のぶん……これは、破れた襖のぶん……これは、外れた木戸のぶん……これは、折れた楽器のぶん……」
破壊された備品の名前を
「あの……まるで、オレが責任を問われているように感じるんですが……」
御手洗が好き勝手に暴れ回らなければ、茶室の被害も
「へ、ひひっ、ど、どうぞ、存分に味わって、くださいっ」
「いや、そう言われましても……」
忍が椀を手に取るまでこの場を動かないのではないかと思えるほどに林檎の目は
朝露が不安げな瞳で見つめてくるなかで、忍は恐る恐る椀に手を伸ばした。
「どうだ、林檎の鼻水の味は」
「まあ、悪くないが……」
御手洗の
「きも」
「お嬢さま……?」
が、朝露の
「ちなみに、野菜は調理部に
是清は男女問わず幅広い交友関係を築いている、茶道部の中では社交的な存在だ。忍とは打って変わって女性にも持て
「部長も落ち着きなよ。ほら、野菜を摂って。栄養が不足していると気分の浮き沈みが出やすいっていうからさあ」
「だ、だって、そもそも、茶道部だって見学に来ていただけなのに、しし、白井さんに捕まって、わ、わたし、こんなっ、限界集落みたいなところで、部長まで無理やり押しつけられて、踏んだり蹴ったりでっ」
是清は林檎のとめどない言葉に
「限界集落とは言ってくれるじゃね〜か、林檎。おまえの後ろの席を陣取っているのがいったいだれだったか思い出させてやるよ」
「ひいぃっ! じゅっ、授業中の
御手洗、林檎、是清は同じ教室の生徒で、一年三組とは
「たしかに、御手洗みたいなのが部員の時点でとうに限界は迎えているだろうな」
「ったく、死に
「ううん、だからってまた調理部に行くのは気が引けるよねえ。意地汚いっていうかさあ」
「んだよ~!
「大学の購買部が開いているから、買ってくるかあ? とはいえ、あんまり遅くなってもねえ? おれはこのあと、寮の子に夕飯も誘われているの。腹は減っていないけれど、先約だったからなあ。付き合うだけ付き合っておこうと思って。なんなら、御手洗も一緒に来なよ。おまえのことを話したら、会ってみたいって言っていたぜ」
「行くか、死ね」
しばらくのあいだ、御手洗は獣のような目つきで唸り声を上げていたが、いつのまにやら、露地に寝転がって居眠りを始めていた。
気づけば、林檎と是清が後片づけに取りかかっていた。忍が空っぽの土鍋を洗い場に持っていくと、朝露も汚れた食器を運んできた。
「オレが洗うんで、置いておいてください」
「べつに、いつも洗ってもらっているし」
「だったら、言葉に甘えまして……」
「熊に襲われて、怖かった?」
「いちおう、死ぬところでしたが」
「怖かったんだ」
「まあ、アンタに薪割りを任せるほうが、オレはよっぽど怖いと思いますがね」
「なにが言いたいわけ」
数時間前、間一髪のところで薪割り斧を投げたのが朝露であることに忍は気づいていた。忍は礼を言うつもりだったが、皮肉が口を衝いて出たのは獣の身に降りかかった災難がけっして他人事ではないように思えたからだろうか。
「いや……」
言葉を取りつくろおうと朝露に見透かされるだけだと分かっていたので、忍は静かに口を閉ざした。
ふたりは梅の香りをほのかに含む春の夜風に吹かれながら、蛇口から溢れる冷たい水流に手を浸した。数時間前までは熊に襲われていたというのに、気づいたころには普段とさして変わらぬ
日常と非日常が病的な反復を続けるこの茶番のような毎日は、いまとむかしが地続きであることを否が応でも実感させる。
ふと頭に浮かんだのは、遠い日の記憶だった。
仲間が撃たれたことで、路地裏の静寂は
やがて、銃声を聞きつけた人々が集まってくると、仲間は少年と少女を残して散っていった。
少年はよろよろと立ち上がり、胸元から刃物を取り出した。そうして、少女の両手首を縛った縄を切り
仲間を裏切ったものは、代償を支払わなければならない。どこに逃げようとも無駄であることは知っていた。それでも、なにもせずに待つことは動物としての本能が許さなかった。
だがもはや、おのれの物語を前に進めるだけの意思は少年に残されていなかった。
走って、走って、走り疲れた少年は、いつしかその足を止めていた。
そうして、路地の隅で
少年の肩を叩いたのは孤児院の人間ではなく、少女と下町を歩いていた老婆だった。
少年は無言のまま、老婆の顔を見つめていた。敵意は感じられなかったが、孫娘を攫った相手を憎まないはずがない。
老婆のやや後方では煙管を咥えたその従者と思しきものが少年の様子を静かに窺っていた。
少年が警戒していることに気づいたのか、老婆は従者に向かってなにかを語りかけた。不思議な響きを持った異国の言葉が、少年には妙に懐かしく感じられた。
従者が路傍に停めていた車に乗ると、その陰に隠れていた少女が姿を現した。不自然なまでに整然とした
下町での一件からどれほどの時間が経ったのか、少年には分からない。だが、少女が恐怖を拭い去るにはまだ多くの時間を要するはずだった。そうにもかかわらず、少女は少年の前で怯えるような
老婆は少女を一瞥して、少年に振り返った。
そうして、花の都の言葉で小倉
「おいで」と老婆は言った。
そこに至るまでにどのような話し合いが行われたのか、少年は知らない。だが、少年が小倉家に拾われたということだけは、疑いようのない事実だった。
少年の生活は変わった。
住居に、食事に、服装に、言葉に、名前に―――少女の兄として生きるというただひとつを除いては、いずれも慣れるまでに時間は掛からなかった。周りに媚びへつらい生きるなかで
小倉家では自身の手を汚さずとも衣食住が保証されていた。理不尽な暴力も振るわれない。学校に通うことも許された。孤児院での暮らしと比べれば、あまりにも
老婆に拾われたことは幸運だったのかもしれない。
だが、それを手放しに喜べるほどの
世界は今日も暴力的な気まぐれで回っている。
ただ、それだけのことだと少年は知っていた。
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