第一話 狂った茶番 ④

 医者にてもらったところ、幸いにも大きな怪我は見当たらなかったが、忍が手当を受けて病院から戻ってきたころにはすでに日が暮れかかっていた。

 事情が事情であるために教師に咎められることもなかったが、生徒が熊に襲われたといううわざは校内に広まっていたようだ。好奇心に駆られた生徒が教室の窓から覗いてくるものだから、忍は見世物みせもの小屋に立たされているかのような気分をひとしきり味わうことができた。

 放課後、忍はりることなく茶室に向かっていた。帰宅の準備を終えたところに、三組の教室にずけずけと入ってきた御手洗が「部活の時間だ」と言い放ったのだ。

 結局のところ、熊を仕留めた手柄てがらは猟師のものとなっていた。いや、そのように仕向けられたと言うべきだろう。御手洗が持ち出した猟銃は学校を訪れていた猟師の所有物に違いなかったが、それはあろうことか、駐車中の乗用車に立てかけられていたそうだ。

 かといって、他人のものを勝手に持ち出していいことにはならないのだが、実弾入りの散弾銃を車外に放置するのは保管義務違反だ。

 御手洗は猟師の不始末を問いただして、責任を取るべきだとおどしつけた。そうして、猟師と口裏を合わせるところまで持っていったという。

 結果として、熊に襲われていた梓山の生徒は、一介の猟師に助けられたという物語に捏造ねつぞうされたのだった。

「なあ、掃除は後日で構わないと思うが……そもそも、茶室の修繕は業者にでも頼まないかぎり、どうにもならないんじゃないか……?」

「だろうな。ま、んなことはどうだってい〜さ」

 まさか、忍も熊に襲われた当日に部活動の参加を強要されるとは思っていなかった。

 獣害は基本的に保険の対象外だ。理事長に取り合ったとしても、茶室の修復にはまだ時間を要するはずだった。むしろ、しばらくのあいだは部活動の休止を言い渡されてもおかしくないだろう。

「ん……?」

 忍が違和感に気づいたのは、露地に入ったときだった。

 忍の鼻先に漂ってきたのは苔生した土の匂いではなく、煮立った鍋の匂いだったからだ。

「くだんの猟師が律儀りちぎに届けてきたありったけの熊肉を鍋にブチ込んでやったのさ。奪ったイノチは奪ったモノが食らう。つまりはそいつが諸行無常しょぎょうむじょうを生きるってことじゃねえの」

 調子の良いことを言っているが、御手洗が猟師に手配させたのだろう。あの熊の死体が自治体に報告されると面倒事が起きるのは明らかだった。

「これきよ」

「よう、朝露。あと、忍に御手洗も。なにやら、大変だったみたいだなあ。ちなみにこちらも大変なんだよねえ。さっきからさあ、泣きやんでくれないの、おれたちの部長が」

 荒れ果てた茶室の前では、鍋の火加減を見ている花宮はなみや是清これきよと、首をれて泣いている鹿森しかもり林檎りんごの姿が窺えた。

「どうぢで、どうぢでごんなごどになっぢゃっだの、ねえ、どうぢでっ」

「おおい、泣くなってば、部長ったら。忍が無事だっただけでももうけものだろうに。なんでも、危うく殺されるところだったらしいぜ?」

 林檎は新入生にもかかわらず、茶道部の部長をつとめている。是清とは違って責任の多い立場だ。入学してまだ間もないこの時期に部室が半壊するという憂き目を見たその心情はして知るべしかもしれない。

「茶室の庭で熊鍋を囲むなんて、風情ふぜいもなにもあったものじゃありませんね」

「にいさんだって、茶室を寝床ねどこ代わりに使っていたじゃない。それよりも、わたしはこっち」

 朝露は大ぶりの汁椀しるわんを選んだかと思えば、忍にぐっと押しつける。

「夕飯、入りますかね」

「入るし」

 是清に杓子しゃくしを借りて、忍は熊鍋の具材と出汁だしを椀に手早く流し込むと朝露に差し出した。心なしか量が控えめに抑えられていたせいだろう。朝露は不服そうに手元の椀を見つめていた。

「お、おっ、小倉くんも、食べますよね。だ、だって、この熊肉って、わたしたちの仇っ、のようなもの、なんですよね、ひひっ」

「部長……?」

 涙で目をらした林檎の言葉はなぜだか恨みがましげで、忍は戸惑いを覚える。

「こ、これは、割れた花瓶のぶん……これは、破れた襖のぶん……これは、外れた木戸のぶん……これは、折れた楽器のぶん……」

 破壊された備品の名前を呪詛じゅそのようにとなえながら、林檎は熊肉を盛りつけてゆくが、悲しみのあまり気が狂ってしまったのだろうか、椀には熊鍋の具材のほかにも、顔面より溢れるあれやこれやが投入されていた。

「あの……まるで、オレが責任を問われているように感じるんですが……」

 御手洗が好き勝手に暴れ回らなければ、茶室の被害も軽微けいびなもので済んだかもしれないが、林檎の名伏なふしがたい迫力におくして忍は口をつぐんだ。

「へ、ひひっ、ど、どうぞ、存分に味わって、くださいっ」

「いや、そう言われましても……」

 忍が椀を手に取るまでこの場を動かないのではないかと思えるほどに林檎の目はわっていた。忍は林檎の人柄ひとがらに詳しくない。だが、内気なわりに強情であることは周知の事実だった。

 朝露が不安げな瞳で見つめてくるなかで、忍は恐る恐る椀に手を伸ばした。

 生姜しょうがをふんだんに使用しているためか、口元に寄せても血生臭い獣の匂いは感じられない。

 油脂ゆしからんだ長葱ながねぎくわえれば、独特の甘い風味が口内に広がってゆく。熊肉の引き締まった食感は、野性味に溢れる粗削あらけずりで力強い味わいだった。

「どうだ、林檎の鼻水の味は」

「まあ、悪くないが……」

 御手洗の戯言ざれごとを受け流せるくらいには、熊鍋の味は悪くないものだった。

「きも」

「お嬢さま……?」

 が、朝露の辛辣しんらつな言葉を受けて、忍は反射的に答えてしまったことを悔やんだ。

「ちなみに、野菜は調理部にゆずってもらったぜ。せいぜい、おれの働きに感謝してよねえ」

 是清は男女問わず幅広い交友関係を築いている、茶道部の中では社交的な存在だ。忍とは打って変わって女性にも持てはやされているが、飽き性なのが玉にきずで、相手を取っ替え引っ替えしてばかりの自堕落な生活を送っている。

「部長も落ち着きなよ。ほら、野菜を摂って。栄養が不足していると気分の浮き沈みが出やすいっていうからさあ」

「だ、だって、そもそも、茶道部だって見学に来ていただけなのに、しし、白井さんに捕まって、わ、わたし、こんなっ、限界集落みたいなところで、部長まで無理やり押しつけられて、踏んだり蹴ったりでっ」

 是清は林檎のとめどない言葉に相槌あいづちを打ちながら、その空いた器に出汁の染みた野菜を足していった。

「限界集落とは言ってくれるじゃね〜か、林檎。おまえの後ろの席を陣取っているのがいったいだれだったか思い出させてやるよ」

「ひいぃっ! じゅっ、授業中の悪戯いたずらはもうやめてくださいぃっ!」

 御手洗、林檎、是清は同じ教室の生徒で、一年三組とは又隣またどなりの一年一組だ。どうやら、林檎も御手洗には手を焼かされているようだった。

「たしかに、御手洗みたいなのが部員の時点でとうに限界は迎えているだろうな」

「ったく、死にぞこないが付け上がるんじゃね〜ぞ。おまえはあたしが助けなけりゃあいまごろ、この熊肉の代わりに鍋の中にブチ込まれていたんだ」御手洗は忍をめつけながら、口をとがらせる。「つうか、是清、白菜が足りね~よ。人参にんじん椎茸しいたけも」

「ううん、だからってまた調理部に行くのは気が引けるよねえ。意地汚いっていうかさあ」

「んだよ~! むしり取ってこいっつ〜の!」

「大学の購買部が開いているから、買ってくるかあ? とはいえ、あんまり遅くなってもねえ? おれはこのあと、寮の子に夕飯も誘われているの。腹は減っていないけれど、先約だったからなあ。付き合うだけ付き合っておこうと思って。なんなら、御手洗も一緒に来なよ。おまえのことを話したら、会ってみたいって言っていたぜ」

「行くか、死ね」

 しばらくのあいだ、御手洗は獣のような目つきで唸り声を上げていたが、いつのまにやら、露地に寝転がって居眠りを始めていた。

 気づけば、林檎と是清が後片づけに取りかかっていた。忍が空っぽの土鍋を洗い場に持っていくと、朝露も汚れた食器を運んできた。

「オレが洗うんで、置いておいてください」

「べつに、いつも洗ってもらっているし」

「だったら、言葉に甘えまして……」

「熊に襲われて、怖かった?」

「いちおう、死ぬところでしたが」

「怖かったんだ」

「まあ、アンタに薪割りを任せるほうが、オレはよっぽど怖いと思いますがね」

「なにが言いたいわけ」

 数時間前、間一髪のところで薪割り斧を投げたのが朝露であることに忍は気づいていた。忍は礼を言うつもりだったが、皮肉が口を衝いて出たのは獣の身に降りかかった災難がけっして他人事ではないように思えたからだろうか。

「いや……」

 言葉を取りつくろおうと朝露に見透かされるだけだと分かっていたので、忍は静かに口を閉ざした。

 ふたりは梅の香りをほのかに含む春の夜風に吹かれながら、蛇口から溢れる冷たい水流に手を浸した。数時間前までは熊に襲われていたというのに、気づいたころには普段とさして変わらぬ長閑のどかな夜が訪れていた。

 日常と非日常が病的な反復を続けるこの茶番のような毎日は、いまとむかしが地続きであることを否が応でも実感させる。

 ふと頭に浮かんだのは、遠い日の記憶だった。


 仲間が撃たれたことで、路地裏の静寂はまたたく間に失われた。手酷い暴行を受けて倒れた少年は、無数の罵声ばせいを浴びながら、亡霊のようにうつろな目で謝罪の言葉を繰り返すばかりだった。

 やがて、銃声を聞きつけた人々が集まってくると、仲間は少年と少女を残して散っていった。

 少年はよろよろと立ち上がり、胸元から刃物を取り出した。そうして、少女の両手首を縛った縄を切りほどくと路地裏をあとにした。

 仲間を裏切ったものは、代償を支払わなければならない。どこに逃げようとも無駄であることは知っていた。それでも、なにもせずに待つことは動物としての本能が許さなかった。

 だがもはや、おのれの物語を前に進めるだけの意思は少年に残されていなかった。

 走って、走って、走り疲れた少年は、いつしかその足を止めていた。

 そうして、路地の隅でうずくまったまま迎えを待っていた―――そのときだった。

 少年の肩を叩いたのは孤児院の人間ではなく、少女と下町を歩いていた老婆だった。

 少年は無言のまま、老婆の顔を見つめていた。敵意は感じられなかったが、孫娘を攫った相手を憎まないはずがない。

 老婆のやや後方では煙管を咥えたその従者と思しきものが少年の様子を静かに窺っていた。

 少年が警戒していることに気づいたのか、老婆は従者に向かってなにかを語りかけた。不思議な響きを持った異国の言葉が、少年には妙に懐かしく感じられた。

 従者が路傍に停めていた車に乗ると、その陰に隠れていた少女が姿を現した。不自然なまでに整然とした風貌ふうぼう白磁はくじの人形を思わせるが、その印象に違わず、少女は硝子細工がらすざいくのように無表情だった。

 下町での一件からどれほどの時間が経ったのか、少年には分からない。だが、少女が恐怖を拭い去るにはまだ多くの時間を要するはずだった。そうにもかかわらず、少女は少年の前で怯えるような素振そぶりをひとつも見せなかった。

 老婆は少女を一瞥して、少年に振り返った。

 そうして、花の都の言葉で小倉高子たかこと名乗ると、そのしわがれた手を少年の頭に置いた。

「おいで」と老婆は言った。

 そこに至るまでにどのような話し合いが行われたのか、少年は知らない。だが、少年が小倉家に拾われたということだけは、疑いようのない事実だった。

 少年の生活は変わった。

 住居に、食事に、服装に、言葉に、名前に―――少女の兄として生きるというただひとつを除いては、いずれも慣れるまでに時間は掛からなかった。周りに媚びへつらい生きるなかでつちわれた順応力が、そこでは大いに役立ってくれた。

 小倉家では自身の手を汚さずとも衣食住が保証されていた。理不尽な暴力も振るわれない。学校に通うことも許された。孤児院での暮らしと比べれば、あまりにも手厚てあつい待遇だった。

 老婆に拾われたことは幸運だったのかもしれない。

 だが、それを手放しに喜べるほどの無垢むくでもない。

 世界は今日も暴力的な気まぐれで回っている。

 ただ、それだけのことだと少年は知っていた。

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