第一話 狂った茶番 ③
意識が
耳元で聞こえてくるのは、荒々しい息遣い。
牙を剥いた獣の恐ろしさに忍は思わず息を呑む。
されども、身動きが取れないこの絶望的な状況下で、忍には妙な
心のどこかでは、それを待ち望んでいたのかもしれない。
乱暴で、軽率で、雑多な世界を生きるなかで、忍にはいつしか、破れかぶれの
世界は〝舞台〟だ。人間は〝演者〟だ。
下世話な物語には子供
喜劇とも悲劇とも付かないこの茶番劇に掻き回されるのはもう飽き飽きだった。
だからこそ、そこに始末を付けられるのであれば、それはそれで悪くない話だろうと、忍にはそう思えるのだった。
たとえば、少年は花の都とも謳われる街の外れに生まれた。
少年の母親は日系の
それでも、母親は少年を愛することに残された時間のすべてを
やがて、少年は行き倒れていたところを小さな孤児院を営む男に拾われた。
とある犯罪組織の援助を受けていたその孤児院では、少年にも
少年の
あるとき、少年にも大きな案件が流れてきた。
日本の資産家が連れてきた、その家族と思しき少女の誘拐だった。
標的の少女は老婆に手を引かれ、下町を所在なげに歩いていた。
老婆の目を逃れて少女を
少女は必死に
少年は人間が虫けらのように踏みにじられるさまを何度も見てきた。
権力とは他者を
権力とは言葉であり、銃器であり、歴史であると院長は言っていた。
だが、そこではいかなる言葉も無力だと知っていた。
少年も、少女も、この世界の暴力的な気まぐれに抗えるだけの力を持つはずもなかったのだ。
少年は見張りに回されたところで、ふと小腹が空いていることに気づいた。
そうして、不意に持ち場を離れたかと思えば、
少年は鹿肉を食らいながら路地裏に踵を返すと、少女を取り押さえていた仲間の腹部を拳銃で撃ち抜いた。
身内を裏切ったものは、大きな代償を支払わなければならない。
だがそれでも、
「朝露ッ!」
獲物の様子を窺うように獣が鼻先を近づけたそのとき、何者かの怒号が響いた。
それが御手洗の声だと理解した直後、目にも止まらぬ速さで飛んできた
そうして、熊が怯み上がったその隙に足元まで滑り込んできた御手洗が、どこで仕入れたのかも分からない猟銃の先端を獲物の
「よう、恨んでくれるなよ」
間髪入れずに発砲音が
忍がおもむろに身を起こすと、目の前では御手洗が恩着せがましい笑みを浮かべている。
忍は御手洗の姿を認めるやいなや、問答無用と言わんばかりに蹴り飛ばした。
「よくもまあ、オレのもとまでのこのこと戻ってこられたね」
「いって~なッ! あたしはおまえを助けるためにわざわざ舞い戻ってきた
「乙女の皮を被っているだけで、中身はとんだ腐れ外道だろうが」地面に横たわる熊のそばで、忍は立ちくらみを堪えるように
御手洗は朝露の言うことを黙って聞くような玉ではない。ゆえに、御手洗の行動の理由が忍には分からなかった。
「や、握られていたっつ〜よりも、
「手頃な得物って、アンタは……」
薪割り斧は
まさか、猟師のものを掠め取ってきたのだろうか。そもそも、御手洗は猟銃免許を取れる年齢でもないはずだ。
忍は嫌な予感を覚えて静かに口を閉ざした。面倒事に首を突っ込むような真似は控えておくべきだろう。茶室の後始末のことを考えるだけでも
「うははっ、見ろよ。ただの獣と見せかけて、とんだ大物だぜ」
御手洗は薪割り斧を引き抜いたかと思えば、熊の
「おい、なにを……」
御手洗が熊の腹に切れ込みを入れると、忍は思わず目を見張った。毛皮を
「〝羆が皮を被っていた〟ってわけだ。へへっ、女の
「楽しそうでなによりだが、羆が皮を被るだなんて、オレは茶飲み話でも願い下げだね」
「世界はデタラメだ。神話の時代から、ずっとそうさ。人類が月に降り立つような時代でも、神秘は息を
「オレがガキのころは神秘や奇跡なんてものは牧師も信じていなかったがな。アンタに付き合っていると頭がどうにかなりそうだ」
深々と
「泥だらけ」
「いや、心配を掛けましたね。それもこれも、頭に
「いちおう、あたしも命の恩人だってことを忘れんなよっ」
「とりあえず、保健室に行かないと。かおるに連絡して、着替えは持ってきてもらうから」
たしかに、忍の身なりは酷いありさまだった。内申を考えると忍は授業を休むことに少なからず抵抗を覚えたが、血と泥に塗れたこの格好で授業に出ようものならば笑いごとでは済まされないだろう。
「ねえ、早く」
ぼんやりと立ち尽くしていた忍を見かねたのか、朝露はその手を握り締めて、校舎まで引っ張ってゆくのだった。
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