第一話 狂った茶番 ③

 意識が朦朧もうろうとするなかでその身を起こそうと試みたが、背中を打ちつけた痛みで自由が利かない。先日の雨で多少なりとも地面が柔らかくなっていたことが唯一の救いと言えるだろうか。

 耳元で聞こえてくるのは、荒々しい息遣い。

 牙を剥いた獣の恐ろしさに忍は思わず息を呑む。

 されども、身動きが取れないこの絶望的な状況下で、忍には妙な感慨かんがいが込み上げていた。

 心のどこかでは、それを待ち望んでいたのかもしれない。

 乱暴で、軽率で、雑多な世界を生きるなかで、忍にはいつしか、破れかぶれの三文芝居さんもんしばいに付き合わされているかのような、奇妙な人生観が生まれていた。忍の目に映るこの世界はどうにも作りものめいていて―――どこか他人事のような、まるで夢心地のような―――実感のともなわないものだった。

 世界は〝舞台〟だ。人間は〝演者〟だ。

 下世話な物語には子供だましの幕引きで十分だ。

 喜劇とも悲劇とも付かないこの茶番劇に掻き回されるのはもう飽き飽きだった。

 だからこそ、そこに始末を付けられるのであれば、それはそれで悪くない話だろうと、忍にはそう思えるのだった。


 たとえば、少年は花の都とも謳われる街の外れに生まれた。

 少年の母親は日系の娼婦しょうふだったが、重い病にかかり、とこせった。

 それでも、母親は少年を愛することに残された時間のすべてをついやした。

 やがて、少年は行き倒れていたところを小さな孤児院を営む男に拾われた。

 とある犯罪組織の援助を受けていたその孤児院では、少年にも下請したうけの仕事が回ってきた。

 少年の手際てぎわめられたものではなかったが、従順であることを理由にその存在を認められた。

 あるとき、少年にも大きな案件が流れてきた。

 日本の資産家が連れてきた、その家族と思しき少女の誘拐だった。

 標的の少女は老婆に手を引かれ、下町を所在なげに歩いていた。

 老婆の目を逃れて少女をさらうのは、あまりにも容易な仕事だった。

 少女は必死に藻掻もがいていたが、抵抗もむなしいままに路地裏へと連れていかれた。

 少年は人間が虫けらのように踏みにじられるさまを何度も見てきた。

 権力とは他者をじ伏せる力だ。

 権力とは言葉であり、銃器であり、歴史であると院長は言っていた。

 だが、そこではいかなる言葉も無力だと知っていた。

 少年も、少女も、この世界の暴力的な気まぐれに抗えるだけの力を持つはずもなかったのだ。

 少年は見張りに回されたところで、ふと小腹が空いていることに気づいた。

 そうして、不意に持ち場を離れたかと思えば、葡萄酒ぶどうしゅ煮込みの鹿肉を露店で買った。

 少年は鹿肉を食らいながら路地裏に踵を返すと、少女を取り押さえていた仲間の腹部を拳銃で撃ち抜いた。


 身内を裏切ったものは、大きな代償を支払わなければならない。

 だがそれでも、手垢てあかに塗れたこの物語には、似つかわしい結末だと思えたのだ。


「朝露ッ!」

 獲物の様子を窺うように獣が鼻先を近づけたそのとき、何者かの怒号が響いた。

 それが御手洗の声だと理解した直後、目にも止まらぬ速さで飛んできたまき割り斧が熊の首元を抉っていた。

 そうして、熊が怯み上がったその隙に足元まで滑り込んできた御手洗が、どこで仕入れたのかも分からない猟銃の先端を獲物の顎下あごしたにぐっと捩じ込ませる。

「よう、恨んでくれるなよ」

 間髪入れずに発砲音がとどろいて―――数秒の静寂せいじゃくが訪れた。

 忍がおもむろに身を起こすと、目の前では御手洗が恩着せがましい笑みを浮かべている。

 忍は御手洗の姿を認めるやいなや、問答無用と言わんばかりに蹴り飛ばした。

「よくもまあ、オレのもとまでのこのこと戻ってこられたね」

「いって~なッ! あたしはおまえを助けるためにわざわざ舞い戻ってきた健気けなげな乙女だぞ!」

「乙女の皮を被っているだけで、中身はとんだ腐れ外道だろうが」地面に横たわる熊のそばで、忍は立ちくらみを堪えるようにひざに手を突いた。「たしかに、こうして戻ってくるとは思わなかったよ。おおかた、お嬢さまに言われてきたんだろうが、いったいどんな弱みを握られていたんだ?」

 御手洗は朝露の言うことを黙って聞くような玉ではない。ゆえに、御手洗の行動の理由が忍には分からなかった。

「や、握られていたっつ〜よりも、め上げられていたっつ〜か、め落とされるところだったっつ〜か、ま、あたしも手頃な得物を見つけたんで、ブッぱなしてみたくなったのさ」

「手頃な得物って、アンタは……」

 薪割り斧は納屋なやに仕舞ってあったのだろうが、問題は猟銃だ。

 まさか、猟師のものを掠め取ってきたのだろうか。そもそも、御手洗は猟銃免許を取れる年齢でもないはずだ。

 忍は嫌な予感を覚えて静かに口を閉ざした。面倒事に首を突っ込むような真似は控えておくべきだろう。茶室の後始末のことを考えるだけでも憂鬱ゆううつ極まりないのだ。

「うははっ、見ろよ。ただの獣と見せかけて、とんだ大物だぜ」

 御手洗は薪割り斧を引き抜いたかと思えば、熊の死骸しがいを探るようにかがみ込んだ。

「おい、なにを……」

 御手洗が熊の腹に切れ込みを入れると、忍は思わず目を見張った。毛皮をめくったその下には月輪熊のものとは思えない茶色の毛皮がのぞいていたのだ。

「〝羆が皮を被っていた〟ってわけだ。へへっ、女のかんってのも捨てたもんじゃね〜よな」

「楽しそうでなによりだが、羆が皮を被るだなんて、オレは茶飲み話でも願い下げだね」

「世界はデタラメだ。神話の時代から、ずっとそうさ。人類が月に降り立つような時代でも、神秘は息をひそめて、出し抜けに顔を覗かせる」

「オレがガキのころは神秘や奇跡なんてものは牧師も信じていなかったがな。アンタに付き合っていると頭がどうにかなりそうだ」

 深々と溜息ためいきを吐いたところで、忍は朝露の不安げな眼差しに気が付いた。

「泥だらけ」

「いや、心配を掛けましたね。それもこれも、頭にうじが湧いたこの女のせいですが……」

「いちおう、あたしも命の恩人だってことを忘れんなよっ」

「とりあえず、保健室に行かないと。かおるに連絡して、着替えは持ってきてもらうから」

 たしかに、忍の身なりは酷いありさまだった。内申を考えると忍は授業を休むことに少なからず抵抗を覚えたが、血と泥に塗れたこの格好で授業に出ようものならば笑いごとでは済まされないだろう。

「ねえ、早く」

 ぼんやりと立ち尽くしていた忍を見かねたのか、朝露はその手を握り締めて、校舎まで引っ張ってゆくのだった。

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