第一話 狂った茶番 ②

 購買部で弁当を買ったあと、忍と朝露は校庭を抜けて茶室に向かっていた。閑静かんせいな茶室は落ち着いて昼食を取りたいときに重宝ちょうほうする。

 茶道部に所属するものは教員の許可を取らずとも茶室の利用が認められている。実際、忍が入部を決めたのも茶室の利用権が目当てだった。

「あの、お嬢さまの目を逃れようだなんて考えていませんが……」

「べつに、わたしはにいさんのあとを付いていっているだけ」

 道中、忍は朝露から無言の圧力を感じていた。朝露は言われたことを守っているに過ぎないのだろうが、なんにせよ、忍にとって居心地が良いとは言えない状況だった。

「それにしては、随分ずいぶんと熱い眼差まなざしを感じますがね」

「仮に見られていたとしても、なにか不都合が? もしも、そこに不安を感じるのだとしたら、それはにいさんが後ろめたい気持ちを抱えているからじゃない?」

「ええっと、まあ……」忍は右頬の青痣を摩りながら呟いた。「たしかに、心当たりはいくつか……」

「にいさんの怪我には周りの子も驚いていたみたい。かおるを怒らせるから、ひどい目に遭う」

「あのデタラメなババアに言ってやってもらえませんか、『おかげさまで学校でもすっかりと落ちこぼれてしまいました』って」

「〝ばばあ〟じゃなくて、〝かおる〟。それと、にいさんが落ちこぼれているのは、べつにかおるのせいじゃないから」

 蕪崎かぶらざきかおるは小倉家の家政婦長として使用人を取りまとめている凶悪な老婆だ。小倉家の前々当主とは古くからの友人であり、それゆえか朝露を孫のように溺愛できあいしている。

「しかし、お嬢さまが茶道部に興味を持つとは思いませんでしたよ」

「まあ、退屈だったし」

御手洗みたらし是清これきよは文化部よりも運動部に入りたいと文句を垂れているようでしたが」

「わたしはむしろ、みたらしたちまで一緒の部活に入るつもりだったことに驚いたけれど」

「まあ、惰性のようなものでしょう。アイツらも結局はひまを潰したいだけですからね」

 ふと、忍は露地に入ったところで足を止めた。茶室の木戸が外れていることに気づいたからだ。

「どうも、ダレか来ているようですが……」忍は頭を掻きながら朝露に目を向けた。「乱暴な客人ですね。まさか、御手洗の仕業しわざでしょうか」

「さあ、知らない」

 そうして、忍が玄関に立ち入ると、思いも寄らぬ光景が視界に飛び込んできた。

 茶室の中で乱闘でも繰り広げられたのだろうか。和紙が破れて組子くみこも折れた障子しょうじ、刃物で切り裂かれたかのように傷だらけのふすま、畳には茶器や生花いけばなが無造作に散らばっている。部長が目にすれば、卒倒してもおかしくない光景だ。

「これが俗に言う〝わび・さび〟ってやつでしょうか」

「それって、こういう状況を指して言うんだっけ。〝なに・これ〟って感じだけれど」

 忍の皮肉が通じなかったのか、朝露は首をかしげてつぶやいた。

「いやはや、まさにこの状況を的確に表した言葉です」

 言うやいなや、背中を小突こづかれる。忍に茶化されているとでも思ったのだろう、朝露の透明な瞳にはほのかな怒りが込められていた。

 忍は目を逸らすように視線を落とすと、足元に妙なものが落ちていることに気づいた。

 茶室には不釣り合いな、壊れた弦楽器だ。

「それ、ネックが折れてしまっているけれど、みたらしのフォークギターみたい」

「ってことはやはり、アイツが先客でしたか」忍は気怠けだるげに息を吐いて、ぐるりと周囲を見回した。「建造物・器物の損壊なんて、運が悪ければ退学案件ですが、抜き差しならない事態にでも見舞われたんでしょうかね」

「まだ、みたらしが茶室を荒らしたって決まったわけじゃないし」

「まあ、幼いころからの付き合いだからって、かばいたいのは分かりますが、アイツはとんだ悪タレですよ」

「ねえ、にいさんは覚えている? さっき、購買部の前で職員室の場所を聞いてきたひと」

「いや、オレはなんせ、高菜明太子か、西京さいきょう焼きか、どちらの弁当を買おうか頭を悩ませていたところで……」

「そう、わたしもうろ覚えなんだけれど、あのひとが着ていただいだい色の服、たしか、地元猟友会で支給されているものだったはず」

「いちおう、山沿いに建てられた学校ですからね。害獣の目撃情報を受けたときは、猟師が注意喚起に来ることもあるでしょう」

 猟友会は人間同士の誤射を避けるために自然界に存在しないような目立った色の服を身に着ける。猟師の可能性も十分に考えられるだろう。

「だから、鹿や猪が迷い込んできたのかもしれないし」

「冬眠から覚めた熊が獲物を探しに山から下りてきたのかもしれませんね」忍は朝露が踏まないように割れた茶器の破片を素手で拾い集めてゆく。「可能性の話ならば、なんとでも言えます。ひとまずは職員室まで状況の報告に行きましょうか」

「あ、ちょっと待って」

 忍が踵を返したところで、朝露に制服のえりつかまれた。

「あんっ、酷いですっ」

 かと思えば、ぐっと力強く引かれて、為すすべもなく畳に叩きつけられる。

 使用人の態度が気に食わなかったのだろうか。それにしても、さすがに乱暴が過ぎるのではないかと疑念を覚えたその瞬間―――目の前の障子が大きな音を立てて張り裂けた。

 座敷に転がり込んできた人影は痛みをこらえるようにのろのろと立ち上がると、忍たちに気づいたのか、無邪気に顔を綻ばせる。

「うはははっ! な~んだ、おまえらも来ていたのか? 見ろよ、正客しょうきゃくだっ! とんだれものが舞い込んできやがった!」

 茶道部切っての放蕩児ほうとうじ白井しらい御手洗みたらし砂埃すなぼこりまみれた制服のすそを払いながら、山側の露地に目を向けた。

 その手に見えるのは、御手洗がこっそりと茶室に忍ばせていた枯れ尾花の彫刻ちょうこく入りの木刀だ。

「痴れモノってのはまさか、アンタのことを言っているのか?」

 忍は疲れたような目で、御手洗にたずねかける。

「抜かせ。あたしなんてあいつに比べりゃあ、かわいげたっぷりだぞ」

「アイツ……? こんなうらぶれた茶室に客人が来るとは思えないが……って、なんだ……?」

 御手洗が木刀を向けた先では、風景画にすみでも垂らしたかのように、こけした庭に黒い異物がべったりと這いつくばっていた。

 ごうごうと重たいうなり声を上げているそれは、立ち上がれば少女の背丈せたけを遥かに越えるだろう、遠目からでも分かるほどに大きなものだった。

「露地はただ浮世の外の道なるに。ときとして、招かれざる客が訪ねてくることもあるんじゃね〜の」

「そいつはもともと塵芥ちりあくたに等しい無用な雑念を茶の湯の世界に持ち込むべきじゃないという短歌の一節で、怪物との巡り合わせをんだわけじゃないがな」

奇異幻怪きいげんかいなるものはいつだって人間の勘違いから生まれてきたのさ。夢かうつつか、ブン殴って確かめてくりゃあど〜だ?」

「わざわざ、アンタの茶番に付き合ってやるつもりもないが……で、実際に確かめた結果がこのありさまか……?」

 変わり果てた茶室を見渡しながら、忍は淡々と問いかける。

「あたしらの部室を荒らしていやがったんでな。そいつをあいつの脳天に叩き込んでやったときの分厚ぶあつい肉の感触はまぎれもねえ本物だったぜ」

 無惨むざんな姿で転がっているフォークギターを一瞥すると、御手洗は白々しらじらしげに呟いた。

「どうして壊れたのかと思っていたけれど、そういうことだったんだ」朝露は忍の制服の裾をつまみながら、露地に目を向ける。「ねえ、あれってもしかして」

 黒い異物の正体が奇異幻怪のたぐいでないことは忍も気づいていた。

 御手洗の出方をうかがっているのは、鼻をえぐるような濃い臭気をまとった巨大な月輪熊つきのわぐまだ。

 動物園ではおがめないであろうき出しの野生が、人間の本能的な恐怖心をあおってくる。

「獲物をいまにも食い殺さんとばかりだが……月輪熊が臆病おくびょうだってのは法螺話ほらばなしか……?」

「や、知らん、ひぐまが皮でもかぶっているんじゃね〜の」

 御手洗との争いで気が立っているのか、熊の息遣いは荒々しく、口の隙間から鋭い牙が垣間かいま見える。

「羆は本州に生息していないって、動物園の看板に書いてあった」

「へへっ、だったら、動物園から抜け出してきやがったのかもしれね〜な」

 不意に、御手洗は朝露の正面に回ると身を滑り込ませるように姿勢を落とした。かと思えば、とぼけたような調子で、朝露の華奢きゃしゃな肉体を肩でかつぎ上げる。

「ねえ、みたらし。わたしを担いでいるのは、どうして」

「そりゃあ、おまえ、獲物が一箇所に固まっていたんじゃあ、相手の思う壺だろ〜が」

「オレとアンタで、ふた手にでも分かれようってのか……?」

 御手洗の意地悪げな笑みに釣られて、忍は思わず口を挟む。

「あ〜? いや、忍には熊の気を引いてもらうぜ」

「とりあえず、その舐め腐ったツラを殴り飛ばしても?」

「な〜に、心配しなくても骨は拾ってやるさ。数分だけ時間を稼いでくれりゃあいい」

「笑えない冗談だ。主人の安全を守るのは使用人の役目と相場が決まっているだろうが」

「普段とは打って変わって仕事熱心じゃね~か。主人ならちゃんと守ってやるよ、不甲斐ない使用人に代わってな」

「にいさんはあんまり頼れるようなひとでもないし、置いていくのは危ないんじゃ」

 御手洗の言動を見かねたのか、朝露は居心地が悪そうに身をよじりながら助け舟を出した。

「聞こえたか。小倉の使用人は一日にしてならず。朝露お嬢さまは御手洗にその役目は務まらないと考えているようだ。主従ってのは身も心も深いところで繋がっているのさ。友人を熊の餌に差し出そうとするヤツには分からないだろうがね」

 忍は言いながら、御手洗に視線を傾けるが、どういうわけか、いまのいままでとなりに立っていたはずの少女の姿が見当たらない。

「あれ……」

 代わりに、少女の握っていた木刀がせめてもの情けとも言わんばかりに落ちていた。

 死に物狂いで地を蹴り、木刀を掴み取ろうとしたその瞬間、忍は腹部を抉られるかのような衝撃を受け、仰向あおむけに倒れ込んだ。

 熊の突進を食らったのだと理解したときには、すでに身動きが取れないほどの体重が忍の体にしかかっていた。

 忍は腕を畳にわせながら手頃てごろな得物を探した。そうして、幸いにも手の届く範囲に転がっていた木刀を掴み取ると、熊の顔面を目がけて振り下ろす。

 木刀の軌道きどうれて首元を叩いたが、鼻先をかすめたのか、熊はひるんだかのように後方に下がっていた。

 忍はその隙を突いて露地に出ると、壁を蹴って茶室の屋根まで駆け上がる。

わらにもすがりたいところだが……死んだふりでも試してみるか……?」

 忍の休息もつかの間、熊は露地におどで、器用にも庭木を登り始めていた。

 庭木の枝から茶室の屋根に飛び移ってくるつもりだろう。露地に庭木を植えた職人を恨みがましく思いながら、忍は熊の動きを目で追った。

「いや、こいつでどうにか諦めてほしいところだが……」

 熊が屋根に飛び移ってきた瞬間、忍は迎え撃つようにその顔面を蹴り飛ばした。

 熊は驚いたようなうめき声を上げて、屋根から転がり落ちてゆく―――そのはずだった。

「ん……?」

 だが、熊の鋭い爪が制服の裾に掛かったことで、忍も道連れに引きずり下ろされてゆく。

「あ、はんっ」

 そうして、忍は無防備な体勢のまま、地面に勢いよく叩きつけられた。

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