腐れ乙女の茶話拾遺

赤樫いつき

第一話 狂った茶番 ①

 あやしくもいかめしい幾何学きかがく的な意匠いしょうほどこされた広間、無数のはり蜘蛛くもの巣のように張り巡る天井、外壁の脇に所狭ところせましと並び立つ尖塔せんとう群。

 小倉おぐらしのぶが幼いころに見てきた欧州の建造物は、恐怖を覚えるほどに異様な力強さをたたえていた。

 巨大であることは純粋に支配者の権威を象徴する。それは長い歴史のなかで育まれてきた民族の精神性が色濃く表れた形質だ。

 一方で、梓山あずさやま女学院高等学校茶道部の部室は飾り気の欠片もない簡素な六畳敷き。座敷・縁側・露地ろじの織り成す閑寂かんじゃくな空間に物質的な豊かさを見出すことはできないだろう。自然環境に寄り添うように建てられた草庵そうあん茶室は物質よりも精神の充足に重きを置かれているがゆえに生まれたものだと部長が話していたことを忍は印象深く覚えている。

 天下人てんかびとも茶室に入れば、只人ただびとに過ぎないという。そこはまさしく、浮世の些末さまつとは無縁むえんの世界だった。

 忍は茶室が気に入っていた。校舎から離れているおかげで、そこは周囲の喧騒けんそうに飲まれることがない。縁側で茶をすすりながら、ひなたぼっこにふけっていられるのは茶道部の特権とも言えるだろう。昼休みに足を運ぼうものならば、五限目の授業まで寝過ごしてしまうこともしばしば。さしずめ、茶室の中は黄金の昼下がりのように穏やかな時間が流れている。

 だがそれゆえか、忍は現在、昼休みの自由を剥奪はくだつされかねない状況に立たされていた。

 入学からまだ間もないというのに茶室で昼寝に耽ってばかりいた忍の内申ないしんは当然ながらかんばしいものではなく、授業を寝過ごした回数も通算ふたけたに足を踏み込んだところだ。

 なかでも、忍が通っているのは〝お嬢さま学校〟の名門で知られる梓山女学院大学の附属学校。いちおう、高等学校までは男女共学制を取っているものの、入学者は女性比率が高く、親御が箱入りの娘を安心して預けられるような規律に正しい学び舎をうたっている。わざわざ、校風に泥を塗りかねないものを学校側が見過ごすはずもなかった。

 忍の素行を見かねた学校から小倉家に状況の改善を求める連絡が届いたのは昨晩のことだった。同僚いわく、受話器を握っていた家政婦長は悪鬼羅刹あっきらせつもかくやとばかりの形相ぎょうそうであったという。

 現在、一年三組の教室では四限目の数学の授業が行われている。

 忍は隣席の女生徒から奇異の目で見られていることにわずかばかりの居心地の悪さを感じていたが、無関心を装いながら数式の書かれた黒板をぼんやりと眺めていた。

 今朝がた、家政婦長に道場まで呼び出され、稽古けいこもといさ晴らしに付き合わされた忍の肉体は生傷だらけだ。他人の青痣あおあざなど見ていて気分の良いものではない。周囲の反応も当然と言えるだろう。

 右頬に触れてみれば、にぶい痛みがじわりと染みる。よわい七十の老体から繰り出されたとは思えない強烈な殴打の記憶を振り返りながら、忍は感傷を払うように机に突っ伏した。


「昼の時間、しばらくは一緒だから」

 授業を終えて、購買部に向かおうと教室の引き戸に手を伸ばしたところだった。

 唐突に背後から掛けられた言葉はかすみのように消え入りそうな声色で、雑音に満たされた教室の中ではとりわけて異質に聞こえる。

 声を掛けてきた女生徒の名は小倉朝露あさつゆ―――忍の〝義妹〟にして〝主人〟だ。その手には、同僚が丹精たんせいを込めて作ったのであろう弁当の包みがげられていた。

「ああ……いや、わざわざ、お嬢さまの手をわずらわせるわけには……」

「でも、にいさんのことをちゃんと見ているようにって、かおるが」

 忍は数年前、小倉家に養子として拾われた。

 迎えられたのではなく、拾われたというのは、実際に異国の路地で野垂のたれ死にかけていたところを小倉家の前々当主の気まぐれで助けてもらったからだ。

 小倉家は町では名の知れた名家だった。いまでは財界から身を引いているが、かつての小倉家は旧財閥ざいばつの創業家を古くから支えてきた支流の一族だったという。

 されども、忍は朝露の使用人―――小倉の姓を名乗っているものの、跡目を継ぐような立場ではない。

 朝露と比べれば、忍の立場など気楽なものだ。とはいっても、身勝手な振る舞いはひかえなければならない。忍の失態は朝露の失態としても見られるからだ。使用人が主人に恥をかせることなどあってはならない。だからこそ、使用人の浅はかな行動の代償を、家政婦長は腹いせ混じりに教えてくれたのだろう。

「はあ、そいつは頭が上がりませんね。普段は友人と昼食を取っているようですが、今日は断ってきたんですか……?」

「うん、まあ。もしかして、いまさら気遣いの心が芽生えてきた?」

「やはり、暴力に勝る教育はありませんよ。持てるものにびへつらうことが路傍ろぼう乞食こじきの処世術だったと今朝の仕打ちで思い出しました」

「ふうん、元気そうでなにより。ねえ、購買部に寄るつもりなら、早く行かないと。にいさんの目当てのもの、取られてしまうんじゃない」

 忍の軽口を朝露はとがめるどころか、気に留めてもいないようだった。なにせ、度重たびかさなる失態を犯してきた出来の悪い使用人だ。もはや、主人も諦めてしまったのかもしれない。

「ああ、行きましょうか。それはそれとして、オレは名前で呼んでもらえるほうが……」

 義理の兄妹とはいっても、同年代の男女であることに変わりはない。なにより、忍と朝露は主従関係を結んでいる。忍は自身が兄のように扱われることに違和感をぬぐえなかった。

 朝露は忍を一瞥いちべつすると、きびすを返して廊下を歩いてゆく。

 忍は無言で朝露のとなりに並ぶ。自身の立場をわきまえなかったおかげで痛い目にってきたばかりだ。余計な発言は控えておくべきだろうと忍は本能的に理解していた。

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