君が消えゆくその前に……
レニィ
第1話
“悪魔に魂を売ってまで”なんて言葉がある。
キリスト教の聖書に書かれていたとか、有名な海外の小説なんかに出きたとかいう、その悪魔という存在に魂を売ることで、力を得る。
と、言うのがよくある話だ。
ただし、代償に自らの死を持って、魂は悪魔の所有物となる。
それを悲劇と取るか、それでも力を得たいと考えるかはその人の自由だと思うが、俺は、前者だと思う。
例えそれが、どんな理由であろうとも。
例えそれが、大切なものを守るためであろうとも。
あいつは、悪魔なんかに魂を売っちゃ、ならなかったんだ。
〇
真夏の蒸し暑い風が吹いている。息苦しくて、嫌になる。
空調の効いている電車の車内から一歩出れば、この通り、息も詰まる世界が広がる。
まったく、この国の夏はどうにかしている。高校に行くまでの道のりで全身が蒸されて、茶碗蒸しになるんじゃないだろうか。
「いや、待て。この蒸し暑さは異常だ。異常すぎる。つまりこの異常気象は世界の危機。そして、それに気がついているのは、おそらく俺だけ。つまり、この異常に気がついているこの俺に、世界の危機を救うためのアイテムが、異世界から降ってくるかもしれ……」
「なーにまた頭が沸いたような独り言口走ってんの?えーたろう」
振り向くとそこには、まさに馬の尻尾のようなポニーテールを風になびかせている女子高生が、無い胸を張って、仁王立ちでニヤニヤと笑いながら俺を見ていた。
「……
「よっ!おはよう。えーたろう」
「あのなぁ、俺の名前は……」
「お・は・よ・う・は?」
「……おはようございます」
「うむ、よろしい!」
幼なじみの女子高生は満足そうに笑って、長いポニーテールを揺らしながらこちらへ歩いてくるが、俺は彼女が中学生頃から呼ぶ、自分に対するニックネームが気に入らないので、こちらへ向かって歩いてくる笑顔に対して少し睨みつける。
「……あのなぁ、よろしくない点が一つあるんだが」
「え?どこどこ?あたしの髪の毛、なんか変?」
「俺の名前だよ!な・ま・え!!俺の名前は、
「あっはははははは!えーたろうに英雄なんて似合わない単語!」
幼なじみは身体を折って、ヒーヒー言うまで大笑いする。普通なら、何事かと振り返る人間もいるはずだけど、こいつはもう普通じゃない。
だから大笑いしている女子高生という、うるさくて目を引くはずの存在に目をやる人間は、今じゃほとんどいない。
自分たちと同じ制服を着た男女が次々と俺たちの横を通って、これから向かうべき場所へと急いでいるのを見て、笑いすぎで目に涙が浮かんでいる幼なじみに声を掛ける。
「……ってか、お前こんなところで油売っていてもいいのか?遅刻すんぞ」
「それはえーたろうも同じじゃないの?」
「俺はいいんだよ。担任もそこんとこ緩いし。『チャイムの余韻が終わるまで』が、セーフラインだから。……でも、遥んとこは違うだろ?」
「そう!だからあたしはえーたろうを置いて、教室に急ぎまーす!まぁ、遅刻しても大丈夫なんだけどね。……担任はもう、あたしのこと、忘れちゃったみたいだし」
「……じゃあ、別に急ぐことないんじゃねーの?」
「残念!委員長はまだ覚えているみたいだから、遅刻するとメンドーなんだ。じゃあね、お先に、えーたろう!」
「だから、俺の名前は英太郎だっての!!」
笑い声をあげながら走り去って行く幼なじみを、同じ方向へ向かって歩いている生徒たちは、誰一人として見ていないし、大きな声を上げている俺を見て、ひそひそと話し合っている。
「ねぇ、あの男子。さっきからなんで一人で大声出しているの?」
「誰もいないのに、誰かと話しているみたいで気味が悪い……」
そう、誰もいない。
そういう風に見える人間がいる。
俺の幼なじみが見えない人間がいる。
俺の幼なじみは、だんだんとその存在が消えてゆく呪いにかかっている。
〇
午前の授業を乗り切って、ようやく昼休み。
机に広げた教科書やノートの海を鞄にしまい込み、弁当箱を取り出すと、何かが詰まっている重みを感じなかった。
蓋を開けると中身は五百円玉と母の『寝坊しちゃった。ごめんね!(てへぺろ)』と言うメモだけだった。
仕方がない、一階の購買まで行くしかない。
立ち上がった途端に、バタバタと廊下からを大きな音が聞こえてきたかと思えば、教室の開け放たれた扉から、こちらを覗き込む見慣れた幼なじみの顔と勢いよく揺れるポニーテールが見えた。
「おーい!えーたろう!!」
「遥っ!?ちょっ、おま、声がでけぇって」
「昼飯食うぞ!めーしー!ユーリも来るから!上、集合なっ!」
「わかった、わかったから!俺、今日弁当じゃなくて、購買だから、先行ってろ。あと、もうちょい声落としてくれよ」
「あっははは!じゃあ、早く来なよ!あ、購買行くなら、あたしの分の焼きそばパンも買っといて!」
そういう幼なじみの手には、しっかりと弁当箱の包みが握られていた。
まだあいつの手に弁当箱がある事に安堵しつつも、それなのにまだ追加で焼きそばパンを要求する幼なじみにため息を吐いてやる。
「お前……弁当持ってるのに、まだ食う気か?」
そんな俺の苦言も無視して、幼なじみは大きな笑い声を残して、屋上を目指して、廊下を駆けて行った。
「しょうがねぇなぁ」
「ふぃー……アツい、アツい」
後ろからクラスメイトが近づいて来ていた。たしか、こいつは遥と同じ部活だったはず。
「よぅ、
「バカヤロウ、気温じゃねぇよ。お前らだよ、お・ま・え・ら!えーたろう氏と我らがUFO研究部部長、
「はぁ?!冗談じゃねぇ!なんで俺が遥なんか……ってか、仏間お前、今、俺のことえーたろうって呼んだだろ、おい」
クラスメイトは俺の話の半分を聞いて、半分を無視する。
「米湊氏がタイプじゃない!?お前、そりゃ贅沢ってもんだぜ?あんな活発で可愛い見た目の女子、そうそう居ない……」
「残念だがな、俺のタイプは遥じゃなくって、その、ゆ、
「ユーリ?誰だそれ」
「友莉だよ!
「あ、あぁ、あの新聞部の大人しめ美人の……って、えーーーーーーー!?!?」
「やっべ、もう行かないと焼きそばパン売り切れちまう。じゃあな、仏間!」
「お、おう。米湊氏によろしくな」
仏間がその後クラスメイトで、同じ部活のやつに話しかけられていたこと、そして彼らが、重要な会話をしていたことなども、購買部に行った俺は知るよしもなかった。
「おい仏間、お前。オカルト研究部の部長と何の話をしていたんだよ」
「まったく、
「お前こそ、何故奴を警戒しない!我がUFO研究部の機密情報が、あんな非科学的な部なんぞに漏れてしまってはかなわんぞ!」
「いや、俺らもだいぶ非科学的なことをやっていると思うぞ?」
「何か言ったか?」
「いや、別に」
「はっ……まさかお前。オカルト研究部のスパイ!」
「ないない。俺はただ世間話をしていただけだよ。我が部の部長である米湊氏が、オカ研の部長、英氏と、幼なじみ同士の王道だが、禁断の恋仲に溺れているんじゃないかと思ってね。でもまぁ、えーたろう殿の好みは、どうやら新聞部の部員らしい」
「へぇ、新聞部員とは、大人しそうな子が好みとは、なんともヘタレたやつだ。……ところで、コミナトって何だ?オカ研の新しい学校の七不思議か?」
「は?何言ってるんだよお前。米湊遥、我がUFO研の部長じゃないか!さっきだって、えーたろうと話をしていただろ?仲良さそうに」
「いや、お前こそ何言ってるんだよ。幻覚でも見たんじゃないか?英はお前以外とは話していなかっただろ?」
◯
本来、学校の屋上というものは、生徒の安全とかいうやつを重視して、鍵がかかっているものなのだが、その抜け穴を見つけだす天才、みたいなもの学校とやらにはいるもので、運がいいのか悪いのか、俺の周りにいたその天才は幼なじみの遥だった。
遥はどこで見つけたのか、学校の屋上の合鍵を持っている。
「んーっ!外は気持ちいいねぇ。ね、ユーリ」
「そうだね、遥ちゃん。屋上の日陰って、夏でも意外と涼しいものだね」
「つーか、校内の冷房が効き過ぎなんだよ。このくらいが本来、人間が過ごすべき温度だ。……ま、日向はとても人が居られる場所じゃねぇけど」
「あ、えーたろうおそーい」
「だから、俺の名前は
「ひぇっ、ごめん!ごめんなさい!だからそれだけは勘弁して、お腹空いて死んじゃうよ……」
遥の傍らに置いてある弁当箱の中身は入っていなかったのか、思わず幼なじみの弁当箱の中を確認するが、そこにはちゃんと弁当箱が空になっただけの痕跡が残っていた。
こいつが弁当箱の中身を早めに食ってしまっただけなのか、それとも朝を食べるのを忘れてきたせいなのか、何にせよ食べてしまった弁当の分だけでは足りなかったらしい。遥は今、俺が手に持っている焼きそばパンを渇望している。
せっかくの機会だ、この際、俺の名前に関する認識を改めさせてやろう。
「焼きそばパンが欲しいか?じゃあ、俺のこと“えーたろう”って呼ぶのをやめると誓え。今すぐ神様に向かって誓え」
「そいつは、無理な相談だね。何せあたしは、えーたろうとは違う、ご都合主義の神様を信じている。あたしの信じている神様と違う神様に誓ったところで、意味ないと思いますよーだ」
「よし、この焼きそばパンは俺が食う。そもそも、俺の金で買ったパンだ。当然だよな?」
「あぁー!それだけはマジで勘弁してください!今日財布忘れちゃって、自分で何か買おうにも買えないんですー!!」
「英くん、たしかに遥ちゃんにも問題があるんだけど。今回は許してあげてくれないかな?今日、寝坊して朝ご飯食べてなくて、早弁しちゃったから」
完璧に遥の自業自得でしかない。
だけど友莉が潤んだ目で俺の方を見上げて、優しい声で俺に頼んでくる。
こんな自業自得な遥のために。
「……しょうがない。今日は優しい友莉に免じて許してやる」
幼なじみは、俺の手から焼きそばパンを手早くかっさらうと、俺の寛大な心よりも大事そうにほおずりした。
「わぁ〜!ありがとう。ユーリは本当に優しいなぁ。あだ名一つでぎゃんぎゃん言うどっかの誰かさんと違って!」
焼きそばパンを恵んでやったというのに、感謝の一つもない。
それどころか、いーっと、歯を剥き出して、俺を威嚇してくる。
「遥、お前、いますぐその焼きそばパンを返せ!」
「へんっ!やなこった!」
遥は言い終わるや否や、包装の袋を勢いよく破ると焼きそばパンにかぶりついた。
その様子を見て友莉がくすくすと笑う。
「でも私、英くんの“えーたろう”ってあだ名好きだけどなぁ」
「え?!」
“好き”という単語に思わず反応してしまったが、落ち着け、俺のあだ名が好きなだけで、俺が好きな訳ではない。
その証拠に。
「ほら、わかりやすいし、それに親しみやすいと思うの」
友莉は微笑みながら、そう、付け足した。
俺はガックリと肩を落としたい気持ちを心の中で押さえて、無理矢理にでも笑う。
「ははは……そうかな?」
「そうだよ。あまりに使い勝手が良すぎて、先生達がみんな使い始めたんだもん。あたしのおかげだよねぇ」
「そのせいで、新任の先生に本名忘れられたけどな!」
「えーたろうはそうやって文句ばっか言うけどさ、今更“えーたろう”以外に何て呼べばいいのよ?」
「え、それは、昔みたいに、普通に本名で、さ?」
そう、昔、と言っても小学校を卒業する頃の話だが、昔は遥だって、俺のことをタロウくんと呼んでいたのだ。
だけど、そのせいでそこそこ周囲の奴らからからかわれたりした記憶は、まだ消えていない。
「ほーらね、昔みたいに“タロウくん!”なんて呼んだら、まーたとやかく言われるのが目に見えてるじゃない?でも今更“英くん”なんて呼ぶ仲でもないしさ。だからほらね!“えーたろう”が一番いいでしょう?」
「な、なんてことだ……。遥に、口で負けた……!?」
「さて、えーたろうを打ち負かせたところでっと、ユーリはさっきからなに探しているの?」
「あ、うん。なんだか、水筒を教室においてきちゃったみたいで……」
「じゃあ取っておいでよ、ここで待っているから」
「ごめんね遥ちゃん、英くん。急いで取ってくるね」
「転ばないようにねー!」
友莉はパタパタと走って行くと、遥の開けた屋上のドアを開けて教室へ戻る。
「で、その焼きそばパンを返せ」
「なっ?!まだ言うか!やなこった!朝抜いて腹ぺこなんだ!!」
遥は俺に取られないように、急いで焼きそばパンにがっつく、がっつきすぎて喉に詰まらせたらしい、ついでに買っておいたペットボトルのミルクティーを目の前に出すと、遠慮などせずにそれを手にして飲む。
「……お姉ちゃんが、もうあたしのこと覚えてなくて、朝のパンがなかったんだ」
「……焼きそばパンは取らねぇよ。冗談だ。妹さん、元気か?」
「元気元気、めっちゃ元気!昨日は初めて完食もできたって!もう退院まで、あと少しなんじゃないかな」
「そっか、よかったな」
「うん、本当に。……本当によかった」
「……なぁ、なんで俺にあんなこと話ししたんだよ」
「あんなこと?どんなこと?」
遥はとぼけたふりをする。
焼きそばパンに付いていた青のりが、口の端に付いていて余計に面白い顔になっているが、そんな姿には誤魔化されない。
「口の端に青のり付いてんぞ。てかほんと、こういうときにとぼける癖、昔から変わってないな」
「だって普通、誰も信じないでしょ?『妹の病気を治すために悪魔と契約した』だなんて話」
「その結果、『だんだんと世界から存在が消えていく呪いにかかっている』。まぁ、普通は信じないだろうが、でもこういうのは普通、同性の友達に相談するのが一般的なんじゃないだろうかと……」
「全く、少女マンガとファンタジーの読みすぎだよ、えーたろうは」
「それは昔からお前が何かと押し付けてくるからだろ!」
遥は俺の反論にちょっと笑うと、すぐに大きく溜息を吐いて、夏の晴れた空を見上げた。
「ユーリが信じるわけないでしょ?ファンタジーとかは大好きだし、小説だって書いている。だけど、それは非現実だってしっかり区別しているんだから。えーたろうと違って」
「お前、今、俺のこと現実と非現実の区別ができない痛い奴だ、みたいに言わなかったか?」
「それに、ユーリに一番最後に忘れられるなんて、嫌だもの」
遥の顔から、完全に笑顔が消えていた。滅多に見せようとしない、沈んだ顔が出てきていた。
「契約内容は、一人だけに話すことができて、そいつがこの世で最後に忘れてしまえば、やつ、悪魔との契約は完了。逆に契約内容を聞かされた共有者が一生をかけて契約者のことを覚えていれば、契約はいつまで経っても成立しない。それが、お前の呪いの条件」
「そうだよ。よく覚えてるね」
「衝撃的な内容は忘れられないもんだろ。……ってか、俺には忘れられてもいいのかよ?」
「いい!」
遥の顔が満面の笑顔になる。それを見て喜べばいいのやら、悲しめばいいのやら。
俺の口からも大きな溜息がでる。
「なぁ、もう一回契約書見せてもらっていいか?」
「別に、良いけど。何回読んでも内容は変わらないよ?」
遥はポケットに入っている小さく折り畳まれたくたびれた羊皮紙を取り出すと、俺に手渡した。
「……うーん。何度読んでも、この契約の抜け道が見つからねぇな」
「そりゃ、相手は本物の悪魔だよ?そう簡単に抜け道なんて用意してあるわけないよ。だいたい、えーたろうはただのオカルトマニアじゃない。無理無理、絶対に契約なんて破れないよ」
「UFO研の部長がオカルトに手ぇ出しといて何をいうか」
「それに……ね」
「なんか言ったか?」
「ううん?なーんにも」
ニシシと笑うその顔には見覚えがある。辛い時に、それを隠す顔だ。
長い付き合いだからわかる。
遥は何かを隠している。だから聞こうとしたのだが、その前に友莉が帰って来た。
「お待たせしました。ごめんね、早くしないと午後の授業に間に合わないね」
「大丈夫、えーたろうが学校の授業なんてくだらないからサボればいいって」
「言ってねぇよ!!」
「ふふ、何だかんだで、英くん、“えーたろう”で反応するのね」
「はっ!?しまった!!!!」
迂闊だった。
慣れとは恐ろしいものだ。
「ふっ、とうとう認めたな!自分がえーたろうだと!」
「違う!認めてねぇぞ!俺は断じて認めていない!認めていないからなぁああああ!!!!」
俺の叫びは、真夏の空に虚しく響いた。
◯
午後の授業を眠らずに過ごすいい魔法や呪文はないのか、それさえ見つかれば放課後まで快適に過ごせるのに、と思うのだが、残念ながら、午後の授業の半分は最高の睡眠時間になってしまい、おかげで数学の教師にクラス全員分のノートを運ぶように言いつけられてしまった。
放課後は部活動があるというのに、まったく俺としたことが。
重たいノートを抱えて廊下を歩いていると、前の方で揺れているポニーテールが見える。遥だ。
「遥?」
いつもならちょっと声をかければ俺の方を向くのに、何故だか今日は反応がない。
おかしいと思って、もう一度大きな声で声をかけた。
「おい、遥!」
「あ……なんだ、えーたろうか」
「なんだとはなんだ。あー、お前、今日部活は?」
「あ……あぁ、うん。今日は妹のお見舞いに行くからお休み!って、そういうえーたろうこそ何してんの?」
「あぁ、午後の快適な睡眠時間を摂取したおかげで、『きっと力が有り余っているだろ』と言いがかりを付けられてな。数学のノートを職員室まで運ぶお役目を仰せつかったところだ」
「なるほど、バカだねぇ。あ、そうだ、えーたろう。ちょっと頼まれてくれない?うちの部、あ、UFO研のやつらね。オカ研と一緒にディベート大会を文化祭でやりたいって言っていたから、ちょっと覗いて来てやってくれる?」
「え?まぁ、別にいいけど」
「じゃあ頼んだ!」
「ったく。しょうがねぇなぁ。頼まれた」
「よろしく!……ねぇ、あのさ。あいつらのこと、本当に、よろしく」
遥はそれだけ言うと、ポニーテールをバサバサと揺らして走って行った。
明らか遥の様子はおかしい。
だがその前に、このノートの束を職員室へ運ばなければ、重たくてどうしようもない。
俺は遥よりも、ノートの方を選択してしまった。
◯
職員室で軽く注意を受けてから、遥に言われた通り、UFO研究部の部屋を覗く。
「おい、UFO研」
「なっ!オカルト研究部、部長えーたろう!何の用だっ!!」
「俺の名前は英太郎だ!遥、いや米湊に頼まれてここに来たんだが、文化祭、UFO研とオカ研のディベート大会企画してくれたんだろ?せっかくだから、それに乗ろうかと思っているんだが……」
「なっ、何故その情報がそちらに流れている!?スパイか?スパイを放ったのか!はっ、やはり仏間!お前がスパイだったのか!」
「俺はスパイじゃねぇって」
「落ち着け、俺はちゃんと米湊に聞いて来たって言っているだろう」
「コミナト?誰だ、それは」
「は?お前、何言って……」
「おい、えーたろう助けてくれよ!中本のやつ、あいつ昼からずっとあんな感じで、俺をさっきからスパイだの、機関からの妨害だのって、午後からずっと尋問されてんだよ!」
「あいつは一体何と戦っているんだよ……」
「なぁ、俺おかしくなっちまったのか?俺もコミナトって奴を知らないんだよ」
「え」
仏間が、遥を、知らない……?
「待て、お前らUFO研の部長は?部長の名前は?」
UFO研究部のやつらは、全員顔を見合わせて、首を傾げる。
そうか、あいつの様子がおかしかったのは。
「全員が忘れたのか……」
またあいつは、居場所を失ったのか。
◯
次の日は何事もなかったかのようにやってくる。
今日も昨日と同じ。蒸し暑い、真夏日だ。
駅でクラスメイトを待っていると、ポニーテールを揺らしてあいつがやって来た。
「おっはようさん。えーたろう」
「あぁ、おはようさん。今日は早いんだな、遥」
「まぁね、昨日のことを反省してちゃんと早く来てみたのさ」
幼なじみはまた無い胸を張って、ふふんと笑っている。
その顔から笑顔が消えてしまうだろう残酷な結果を、俺は伝えなければならない。
「……UFO研、お前がいなくてもちゃんと活動してたぜ」
「……そっか、そりゃあよかった」
遥はニシシと笑う。
「なぁ、お前……」
「おぉーい!えーたろう」
「おっ、団体様がいらっしゃったか。あたしは別クラスだし、居てもしょうがないね。じゃ、お先に!」
遥はポニーテールをぶんぶんと揺らして、学校へ走っていく。心なしか、その顔がうつむいているように見えた。
遥が行ってしまってから、仏間とは別のクラスメイトが俺の側に来た。
「おっはー。なぁ、えーたろう。お前、何ぶつぶつ言っていたんだよ」
「え、はる……米湊と話を」
「コミナト?誰だ、それ」
「誰って、お前……だって、昨日はっ!」
昨日はちゃんと、遥の事、認識していたじゃないか。
「どうした、えーたろう。遅刻すんぞ」
「あ、あぁ、そうだな、行こう」
存在の消え方が、早まっている。
気のせいだと、信じたい。
信じたかった。
◯
昼休み、弁当を取り出しているところに、遥が走って来た。
「えーたろう!悪いけど、ユーリ誘ってお昼に行ってくれない?ちょっとあたし、急用ができたから。それじゃあ!」
「おい、ちょっとまて!急用なんか出来るようなやつじゃないだろ、お前は!」
俺のそんな静止なんて無視して遥は走っていく、見間違いだろうか、遥の目には涙が浮かんでいたように見えた。
「あ、英くん」
廊下で突っ立っていると、そこにユーリが現れた。
「どうしたの?こんなところで。今日もお昼買いに行くの?」
「友莉、良かった。えっと、今日は特に買い物はないし、えっとよかったら、先に一緒に行っておかないか?屋上に」
「……屋上?」
「……屋上だよ。ほら、いつも昼を食べに行っているじゃないか、遥と一緒に」
「ハルカ?ごめんなさい。ハルカさんって、誰かな?」
「……っ!」
そうか、そういうことか。
「英くん、どうかした?」
「ごめん、友莉。ちょっと急用思い出した!昼はまた今度に!」
「え、うん!また今度……」
俺は、急いで遥の元へ走る。
おそらく場所はいつもの場所の、そのまた上だ。
◯
学校の屋上には、そのさらに上に緊急時用の雨水タンクがある。
そこに行くには、少し高いところにあるはしごにジャンプしなければ登れないが、コツを掴めば、割と簡単に登れる。
そして、そのコツを掴んでいるのは俺と遥ぐらいだ。
だから、上に遥がいることぐらい、わかっている。
「はぁあーー」
「何が急用だよ。アホめ」
「どわぁ!?!?びっくりしたー。なんだ、えーたろうか」
「なんだとは失礼なやつだな」
「どうやって屋上に入ってきたの?」
「鍵開けっぱなしだったぞ、不用心なやつめ。ところで、俺はお前が屋上の雨水タンクになんの急用があるのか、お聞かせ願いたいね」
「……聞かなくても、分かってるんでしょ」
「まぁ、友莉の様子見りゃな」
「……ごめん、本当に急だったからさ。みんな、本当に忘れちゃうんだね」
「……あぁ、そういう契約だって俺は聞いている」
「ねぇ、えーたろう」
「俺は、
「相変わらず、そこには突っ込むのね」
「俺の誇りだからな。じいさんがつけてくれた名前だ」
「そういえば、おじいちゃんっ子だったね。昔はあたしもよく遊んでもらったなぁ……」
「そうだったな。夏になると、怪談話をしてくれたり、古いSFの映画を観せてくれたり。……ま、真相は全部じいさんの趣味だっただけなんだけどさ」
「え、そうだったんだ。あたしはてっきり、えーたろうが好きでせがんでいるんだと思ってた」
雨水タンクの下の日陰に、遥と二人並んで寝転んでいる。蒸し暑い夏の中、少しだけ涼しい風が、俺たちの側を吹いている。
これで風鈴がチリンと鳴れば、昔の、あの時の夏に戻れそうだと思ったけれど、鳴ったのは、午後の授業の始まるチャイムだった。
「ねぇ、チャイム鳴ったよ?いいの?」
「いいんだよ。『学校の授業なんてくだらないからサボればいい』」
「それ、こないだあたしが言った出まかせじゃん」
カラカラと遥が笑う。
それからしばらくセミの合唱に耳を傾けていたら、ポツリと、遥の声が俺の耳に届いた。
「ねぇ、タロウくん。タロウくんはさ、こんなあたしのこと、どう思う?」
「どうって?」
「妹が助かって、家族が笑顔になるなら、あたしが消えちゃうなんて、なんともないって思ってた。それにきっと、たくさんいるあたしの家族は、あたしのことを忘れたりしない。友だちだって、部活のメンツだって、こんなうるさいあたしのこと、忘れるわけないじゃんって、思っていたのにさ。一番最初にお兄に忘れられて、どんどん周りの人があたしを忘れていって、今日はユーリに忘れられて、あたし今、消えたくないって思ってる。悪魔と契約なんて、しなきゃよかったって、すごく後悔している。そんな今のあたしのこと」
遥の声は、震えていた。
小さい頃、夏祭りのヨーヨー釣りが上手くできなくて、悔しがっていたあの時の声と一緒だった。
だから俺は、あの時みたいな下手な慰めはやめて、正直に思った事を言ってやる。
「そうだな。バカだと思う」
それが三歳の頃から一緒の、遥と俺との付き合い方だから。
「あはは、だよねー」
「だが俺は、そんなバカが、割と好きだぜ?」
「……ぷっ、なにそれ、告白?」
「ちげーよバーカ」
「よかった」
「告白じゃなくて?」
「違う。バカでもいいんだって思えて、なんかすっきりしたー」
「そうか、そりゃよかったな」
「うん。よかったよ」
ふひひと、遥の機嫌の良さそうな笑い声が耳に入ってくる。
少しでも気が紛れてくれたなら、午後の授業をサボった甲斐もあったものだ。
「ねぇ、あたしは今とても気分がいいから、良いことを教えてあげようか」
「遥の良いことが、良いことであったことのが少ないと思うのは俺だけか?」
「まぁまぁ、そう言わずに。聞いて、聞いて」
「はいはい、なんだ?」
「まず、えーたろうは早くユーリに告白したら?」
遥の突然の助言に思わず狼狽して、身体を勢いよく起こす。
「な、ななななな、何言ってんだよ?!」
「そもそもさー、君らお互い片想いのつもりらしいんだけどさ、実は両思いなんだから、ここはちゃっちゃと男から告白しろよ。って、あたし思うんだけど」
「両思いなんだからちゃっちゃとって、そんな簡単じゃな……両思い?!」
俺の動揺を無視して、遥は話を続ける。
「それから、文化祭。うちの部のやつらはあんな態度だけど、別にオカルト嫌いな訳じゃないから、派手にやっちゃって」
「……なんか、遺言みたいだな」
「えーたろうがあたしのこと忘れちゃったら、本当に遺言になっちゃうねー」
「……忘れるかよ、バーカ」
「……うーん、信用ならないなぁ。なんせ、えーたろうだからな」
「お前なー」
「ニシシ、うーそーだーよー」
ニシシ、か。
「あぁ、嘘にしてやるよ」
「おう、信じてる」
俺は遥の涙が止まるまで、屋上で二人で寝転んでいた。
◯
今日も真夏日だ。
むしむしした空気を吸えるのはあとどれくらいなのだろう。
自分の存在確認の為に、今日もあたしは幼なじみに朝の挨拶をする。
「えーたろう、おっはよー!今日も元気に行ってみよー!!」
「……」
「えーたろう?もしもーし、いつものツッコミはどうしたのかなー?」
「……」
あたしの幼なじみは、返事もしなければ、あたしのことも見ていない。
いや、見えていない。
存在を、見ていない。
「……ねぇ、ちょっと、タロウくん。頼むから……頼むから、反応してくれよ。でないと、あたし……あたしはっ!」
「おーい!えーたろう」
幼なじみとよく一緒に登校している同級生が、あの名前で彼の名前を呼んで来た。
あたしが呼ぶと、嫌そうな顔をしながら、ちょっとムッとした顔をしつつも、それでもちゃんと応えてくれたその呼び名。
あたし以外が呼んだって、嫌な顔をするはずのその呼び名を、幼なじみはあんまり嫌な顔もせずに受け入れて、同級生を迎えていた。
「おう」
「おはようさん」
「おはよう。あと、俺の名前は
「良いじゃねぇかよ、別に呼び方なんて。細かいことは気にすんなって。てかお前、なんで“えーたろう”なんだっけ?」
それは、あたしがそう名付けたから。
中学校へ進学したあたしが、幼なじみへの想いを隠すために。
その名前を嫌がるたびに、あたしを覚えていてくれるように。思い出してくれるように。
あたしはずっと、君のことをそう呼んでいたんだ。
でも、幼なじみは、心底不思議そうな顔をして、首を傾げてこう言った。
「さぁ?なんでだっけ」
そっか、じゃあ、本当に。
「まぁ、呼びやすいからいいんじゃね?」
「それさ、親にも友莉にも言われんだよ……」
「ユーリって誰だ?」
「友莉だよ。加奈田友莉。学校新聞の連載小説の作者で、俺の彼女」
「あぁ!“半魚人といっしょ!”のって……は?待て、彼女!?いつのまに?!」
「うるさっ!ちょっと声落とせよ……。昨日、なんか、誰かにちゃっちゃっと告白しろって言われた気がして、それでアタックしたら、な」
「誰かって、なんだよそれ?オカルト的な何かのお告げか?」
「ちげーよバーカ!ほら、さっさと行こうぜ。遅刻はしたくねぇだろ」
歩き出した幼なじみの背中を、あたしはジッと見ているしかできなかった。
「さてさて、どうやら契約は、無事成立したようですねぇ」
振り向くとそこには、あたしにしか見えない悪魔が立っていた。
イラつく、貼り付けたような笑顔で、あたしの傍に立っている、この世ならざるもの。
でもこいつを睨んだって仕方ない。
こいつを恨んだって仕方ない。
だって、あたしがこいつと契約したんだ。
妹を助けるため。それもあった。
だけど、ユーリが打ち明けてくれた想いを知ってしまって、そして幼なじみがユーリに対して好意を持っていることを察してしまったあたしは、この世界から消えたいと願ってしまったんだ。
そう全部、あたしの自業自得だ。
「……で、契約成立したけど、あたしはあんたの魂の奴隷として、メイドにでもなるの?あ、それとこれからは、あんたをご主人様って呼んだ方がいいの?」
「案外、あっさりと従うんですねぇ」
「あたし、約束は守る人間だから」
「いいんですか?悪魔に魂を捕われたら一生、この現世を霊として彷徨うことすらもできませんよ?」
「……そのほうがいいの」
そうじゃないと、あたしは幼なじみに未練を残したまま、きっと、この世界を彷徨うことになるから。
「それじゃあ行きましょうか、どうぞこちらへ」
悪魔の手招きする方向には、どうやら別世界へと通じる扉が現れていた。
きっと彼が見たら、大興奮しそうなのに。見えないなんて、残念だな。
あたしは扉を通る前に、もう一度、幼なじみの方をふりかえる。
「さようなら、タロウくん」
さようなら、あたしが恋した人。
◯
俺は、何かが聞こえた気がして立ち止まる。
「ん?」
「どうしたえーたろう?」
「今、誰かが俺にさようならって……いや、なんでもない。行こうか」
何故かぽっかりと何かを失った気がするのだが、一体なんだっただろうか。
思い出せないまま、真夏の空の下を歩く。
今日も、暑い。真夏日だ。
君が消えゆくその前に…… レニィ @Leniy
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