終幕①
夏は嫌いだ。
暑いし、蝉は煩いし、蚊が多いし、長いし。
良い事なんか、一つもない。
物心ついた時から嫌いだったが、その夏がさらに嫌いになったのは、十四歳の夏になってからだった。
その年から今、十六歳まで、おれは頭痛と幻覚、そして幻聴がおれを苛むようになったからだ。
● ○ ● ○ ● ○ ●
《今日は雲一つない、清々しい天気でしょう》
テレビから流れた、天気予報に思わず眉を顰める。
続いて気温。三十度…昨日よりか二度低いが、それでも暑い。
黒のタンクトップに白の半ズボンに着替えて、ちらりと壁際にある時計を見やる。
「九時半か…」
待ち合わせは十時だが、まぁ…どうせ、遅れてくるだろうから、少しくらい遅れても問題ない。
部屋から出ると、リビングから笑い声が聞こえてきた。
階段を下りて、リビングに続く扉を開く。
冷気がおれを包み込んだ。
4LDKのリビングのほぼ真ん中あたりに円形の穴が空いてて、そこは憩いの場になっている。
そこにのんびりと座っていたのは、おれのばあさんと十歳の妹だった。
「昔、とある戦場に強大な赤いドラゴンが現れてな。そのドラゴンが、暴れて戦場は炎の海と化とした。もう駄目だ、と両軍も諦めた時じゃった。空が裂いて、白い光が戦場を包み込んだ。
するとなんていうことだ、もう一匹のドラゴンが現れて、ドラゴンと闘いはじめたではないか! ドラゴンたちは七日間の激闘の末、相打ちになり、死んでしもうた。だが、それをキッカケで第三次世界大戦は幕を閉じたとさ」
ばあさんが長い昔話を妹に聞かせていた。ばあさん、この話好きだな。肝心の妹は適当に聞き流しているようだが。
「おや、蘭。おはよう」
「お兄ちゃん、おはようございまーす」
「おはようございます。菖蒲、今日は早いんだな」
「今日ね、学校のプールに行くの!」
「結ちゃんとか?」
「うん!」
結ちゃんは、幼馴染の妹で、菖蒲と同級生だ。大変仲が良く、いつも一緒にいる。
…おかげで、もう一人の幼馴染の弟は男一人だけもあり、居心地悪そうだけどな。
「おはよう、蘭」
「おはようございます、母さん」
キッチンからひょっこり顔を出したのは、母さんだった。長い黒髪をゆったりとシュシュで結んで、にっこりと笑った。
三十七歳とは思えない、とても若々しい母親だな、と思う。
「今日は十時から、公園で待ち合わせじゃなかったの?」
「どうせ、あいつは遅れて来るからいい」
「確かに、あの子時間守れないけど、待ち合わせ十分前には着くようにしなきゃ」
「…あいつを待つために、十分以上も炎天下に曝したくない」
途端、ばあさんが大声出して、豪快に笑い出した。どこにツボったんだ。分からん。菖蒲を釣られて大声でわざとらしい、笑声をあげる。
「菖蒲、ばあさんの真似はしなくていい」
「はーい。お兄ちゃん、髪結んで!」
「はいはい」
円形のソファーに座ると、おれの膝の間を割り込んで、菖蒲が座る。菖蒲からゴムと櫛を受け取って、セミロングにいうには、少し長い黒髪を梳く。
おれたち兄妹の髪は、母さん似で黒髪のストレート。父さんは癖毛があるから、似てなくて良かったと思う。
「そういえば、父さんは?」
「急に会議が出来たんだって」
せっかくの休みだというのに、相変わらず父さんは多忙だな。
「菖蒲、そろそろ自分で括れるようにならないとな」
「いいもん。お兄ちゃんにしてもらうから」
「それは、少し無理だな。おれだって風邪引いて、寝込むこともあるし」
「うーん。じゃ、善処する」
「菖蒲、難しい言葉を知っているんだな」
「アニメで言ってた」
菖蒲の髪を二つに分けて括り、頭をぽんと撫でる。
「おわり」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。時間は大丈夫か?」
「あ! それじゃ、行ってきますー!」
慌てて、水着の入ったビニール袋(ピンクでキャラクターの柄が入ったやつだ。女の子向けのアニメのキャラクターらしい)を下げて、菖蒲はリビングから出て行った。
「たく、慌ただしいんだから」
「ああいうところ、死んだ夫にそっくりだよ」
「あ、それはそうとお義母さん。仕事のツテで、お義母さんが観たいって言っていた、舞台のチケット、手に入れましたよ」
「おぉ! でかしたぞ!」
この嫁姑は本当に仲がいい。
ばあさんは父方の祖母になるが、むしろ母方だろうって思ってしまうくらい、意気投合している。
当の息子であり夫の父さんは、逆に立場ないけど。
まぁ、仲が良いのは良いことだ。
《続いてニュースです。日本の考古学者、平山愛華博士が、ノーベル賞を受賞しました》
テレビを見ると、見知った顔の女性が主産人にインタビューを受けていた。その隣には、一人の男…女性の旦那がいる。
「おやまぁ。愛さん、すっかり有名人になって」
「本当ですね~。そういえば、愛ちゃんにお祝いしなくちゃ」
平山愛華博士。母さんの同級生で。顔だけ見ると、まだ二十代に見えるが実際の所、三十七歳だ。
2万に一人しか生まれないという、アルビノの博士(おばさんは禁句で博士と呼ぶようにと言われた)は、白い髪に白い肌で、美人だと思う。
《このような、栄誉のある賞を頂いて、真に光栄です》
いつもはじじくさい口調だから、こういった敬語が耳に馴染まず、聞いてておかしくなりそうだ。
「母さん、ご飯は?」
「こっちの机に、おにぎりとお父さんのお弁当のおかずが残っているわ」
「それ、貰う」
「あぁ、そういえば、今晩は何がいい?」
「素麺」
「昨日のお昼がそうだったじゃない。暑い日には熱いものを食べる! これが日本人でしょ!」
おれとしては、こんな暑い中に熱いものを食べることが、狂気だと思えるのだが。
「蘭、夏バテすごいし、しょうがないから、さっぱりしたものを作るわ」
「お願いします」
おれの夏バテは暑さからくるものだけじゃ、ないけどな。
「そうそう。アイス切れたから、帰りに買ってきてくれる?」
「…菖蒲用の練乳苺のアイスを?」
「菖蒲ばっかりじゃ、不公平でしょ? 今度はランの好きな奴でいいわ」
たしかに、練乳苺は嫌いではなく、好きな方だが、そればかりだと飽きてしまう。
立ち上がって、背伸びをする。
しばらく考えて、おれは呟く。
「じゃあ、ソーダ買う」
暑い暑い暑い暑い!
家を出たのはいいが、このぶわっと来る熱気をどうにかしてくれないだろうか。
体全体から汗が噴き出て、服を湿させる。真夏の日差しが肌に突き刺さり痛い。
叫びたい。ここはジャングルか! と。
太陽の光を照り返している、コンクリートの上はどんなに暑い事か。
田舎はどうして旧コンクリートをそのまま使用しているのか。予算がないからだ。花火は無駄にスケールがでかいくせに。
都会のコンクリートの上は暑くならないという。羨ましい。
空を見上げると、天気予報の通り、雲一つない青い空に、白い線が引かれていた。飛行機雲だ。それは大分時間が経っているのか、まるで線路のように大きくなっていた。
一瞬、涼しく感じたが、耳に入ってくる蝉の鳴き声がそれを打ち壊した。
ミンミンミンと…どうして蝉の鳴き声は鈴虫と比べて、こんなにも煩いものか。
山の緑が太陽の光を照り返していて、キラキラ光っている。夏の良い所といえば、澄みきった青い空と山の眩さだと思う。
十時十五分。待ち合わせ場所の公園のベンチに着いたが、案の定、奴は来ていなかった。
指定したのは、あいつだというのに、どうして時間通りに来ないんだか。
仕方なく、ベンチに腰を下ろして凭れかかった。
なんで…噴水近くのベンチにした。せめて、木陰のあるベンチにしてほしい。
それから、十分語。待ち人は、焦った様子もなくゆったりと歩いてきた。
「よぉ、蘭! 元気か!」
待ち人は、赤のTシャツに迷彩色の半ズボンという、少しどうかと思う服装をしていた。
その罪悪感すらない笑顔を見て、殴りたいと思ったのは、決して暑さにやられたからではない。通常運転だ。
「大輔…これが元気に見えるのなら、おまえの目は節穴だ」
溶けすぎて、ベンチと一体化しそうだ。
こうなればもう十分遅く、家を出たらよかった。もう十分、クーラーの効いた部屋に居られたんだ。
「オレが遅れてくるのは、分かってたろ?」
その言葉で、大輔に飛び蹴りをかましたおれは、決して悪くない。
「本気で蹴りをかますことはないだろ!?」
未だに二十分前の事を、うだうだ言っている大輔を睥睨する。
それならこっちは待たされて十分、実際には遅刻二十五分も経っていたというのに、約束を取り付けた本人のくせに、ゆっくりと歩いて来て申し訳なさもなく、自分が時間より遅く来ることを自覚していた上にそれを踏まえて考えろとみたいな事を言われたおれの心情を、二百文字の原稿用紙百枚の作文を書いて表せ、と実際三百枚の原稿用紙を押付けたい気分だ。
だが、そこまで言う気力もなければ、持っていかれたくないおれは。
「なら、今度から時間通り来い」
と、一言だけ大輔に言い放った。
今は田んぼと田んぼの間にある、コンクリートの道をただ歩いている。出来れば歩きたくなかったんだが、どうしても、と大輔が言うから、渋々連れて来られているんだが、まぁ行先は大体予想は出来ている。
「ところで、蘭。課題終わったか?」
「言っとくが、写させないぞ」
「そんな殺生な!」
「煩い。おれは今、腹立っている」
たださえ暑くて苛々しているというのに、先程のことがあれば、誰だって怒る。おれだって怒る。
「待たせて、ごめんなさいです」
「日本語おかしいぞ…ま、おまえにしては上出来だが」
だが、許さん。
「用事は、それだけか? なら、帰ってもいいか?」
「これから行くところを予想しているというのに、おめぇは鬼畜か」
「あぁ。だから行かない」
「鬼畜、鬼、悪魔!」
「自業自得だろ」
どうせ、百合を怒らせたから、ご機嫌とりのケーキ買いに行くけど、一人だとケーキ屋に入るのが恥ずかしいから一緒に選んでくれ、に決まっている。
百合はおれたち共有の幼馴染で、結ちゃんの姉であり、お金持ちの令嬢だったりする。
溜息を吐きながら、おれはとある情報を教えてやることにした。
「百合、ダイエットしているから、甘いものは逆効果だぞ」
「…マジ?」
「まぁ、頑張れ」
「うわああああ! 一緒に謝りに行ってくださいまし、蘭様、蘭大明神様~!」
踵を返したおれの肩を掴み、必死に懇願する大輔に呆れ混じりの溜息を吐いた。
なら、最初から喧嘩するなよな。
だが、この二人に喧嘩を除いたら、何か残るわけでもないし、いいかもしれないが、巻き込まれるおれの身にもなってほしいものだ。
「自宅の前までだぞ。謝るのは、おまえ一人でやれ。おれには関係ないだろ」
「幼馴染の縁だと思えよ~!」
「おまえの責任だ。自宅の前まで行くだけ、ありたがく思え」
だいたい、ケーキ以外のご機嫌の取り方くらいあるだろ。
「そういえば、遊里くんはプール行くのか? 菖蒲と結ちゃんはプールに行ったが」
「あぁ、アイツ、部屋で本読んでいるぞ」
「そうか…」
大輔には兄と弟がいる。兄の春樹さんはインドアで気前が良く、とある大学の機械工学部に入っている。弟の遊里くんは、気弱な性格で小学生ながら読書が好きという。
コイツだけだ。アウトドアな性格をしているのは。こいつの遺伝子は、どこから来たのやら。
雑談している間に、この街だと豪邸に入る白くてでかい家の前まで来た。
「やっぱ、帰ろうかな!」
「ここまで付き合わせて、何を言うか」
あーだこーだ言う大輔に痺れを切らし、おれはインターフォンを押した。
「あー!」
《はいはいー。どなた様でー?》
インターフォンの上にあるマイクとスピーカーから、聞き慣れた声が聞こえた。
「百合か」
《あら、蘭。御機嫌よう》
「馬鹿を連れてきた」
《わざわざ、連れて来なくてもいいのに…》
ユリは呆れながらそう言って、分かったわ、と言った直後。
玄関の戸が開かれた。
そして、キャミソールにボクサーパンツかというくらいの短いジャージのズボンを着用した、百合が現れた。
「蘭、久しぶりね! 課題終わっている?」
「終わっている。そっちは?」
「もちばちよ」
得意げに百合は、胸を反らした。
それにしても、本当に久しぶりだ。
おれたちは普通の県立の高校に入ったが、百合だけは私立のお嬢様学校に行ってしまい、会う時間が激減した。
「元気そうで何よりだな」
「そっちは、暑さで参っているって感じね」
蘭ってば、暑さに弱いものねぇ、と百合は笑う。
「せっかくだから、上がっていく?」
「いや、おれはコイツの付き添いで来ただけだから、すぐに帰る」
大輔に指を指すと、本人は居心地悪そうに視線を逸らした。
「あら、残念。そういえば、あたしたち、もう十六歳だけど、蘭ってモテてる?」
「なんだ、いきなり」
「だって、中学の頃、蘭モテてたじゃない」
そんなにモテていなかったと思うが…。
「けっ! オレのほうがスポーツマンでモテるし」
「負け惜しみは見苦しいわよ、大輔。あんたの場合、ただの体力バカなだけでしょ」
「失礼な! オレ、一年にしてバスケ部のレギュラーに入ったんだぞ!?」
「あーはいはい。おめでとう」
どうでも良さげに、百合は大輔をあしらう。
それに苦笑して、おれは踵を返した。
「それじゃ、帰る」
「あ、ちょっと待って」
百合に止められて振り返ろうとしたが、そのままで、と言われてそのままの姿勢にいる。
すると、首元に掛かっていた髪がなくなり、代わりに後ろに軽く引っ張られるような感覚が。
顔だけ振り向かせると、百合と目が合い、にこりと微笑まれる。
「はい! これで少しは涼しいでしょ!」
どうやら、髪を括られたらしい。
おれはとりあえず礼を言って、その場を去った。
大輔の叫び声とか知らん。
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