第21話

 拾った少女は、何も覚えていなかった。


 今までのことも、自分の名前さえも。

 一応、こちらの言葉は理解しているようだが、発声することはあまり出来ないでいた。


「記憶がないって…そんなことって、あるのかぁ?」


「お父さんから聞いたことある! 頭を強くぶつけたり、精神的なショックなことがあったら、記憶が飛んじゃうって」


「マジかよ…おい、ラン。厄介なモノ拾ってくるなよな」


「放っておくわけにも、いかないだろ。それに、ばあさんが言っていただろ? 自分たちの人間に会ったら、助け合って生き延びろって」


「そうだけどよぉ。コイツにオレたちが助けられるか? こっちが助けることになりそうなんだけど」


「とかなんとか言って~。そのまま面倒を見る気のくせに!」


「だ、誰もそんなこと言ってねぇだろ!?」


 顔を真っ赤に染め上げ、ユリを怒鳴るが、それが怒りから来るものではないことは、一目瞭然だ。


「さて、と……おまえは…名前がないと、不便だな」


 少女は無表情で首を傾げる。


 さっきから、笑わない少女。だが、泣くことも不安がることもなく、ただまるで、鉄のように色のない冷たい表情で、ランを見ている。


「せっかくだから、考えてあげたら?」

「そうだな…」


 ランは少女をじっと見つめた。


 まるで夕暮れの空のように、澄んだ瞳がランの瞳を見つめ返す。


 それになんだか、むずむずして落ち着かなかったが、少女に合うような、名前の案を脳内で発案しては却下を繰り返す。


 そして、ある名前が思い浮かんだ。


「センリ、というのはどうだ?」


「せんり?」


「道の距離で、かなり遠いことを言うって聞いたが…この子は、遠い所から来たかもしれないだろ? だから、センリ」


 この近辺で人間を見たのは、ユリを含めて二人目だが、ユリは元々、隣の遺跡群に住んでいたという。


 だが、この少女は、それよりも遠い所から来たのかもしれない。


 千里の道を越えて、ここに辿り着いたのかもしれない。


「なるほど…夢があっていいんじゃないかしら? 遠いところから来たなんて、旅人みたいで素敵ね!」


「いいんじゃねぇの?」


 二人も納得してくれた。


 ランは少女に近付いて、その目をじっと見据える。


「いいか? お前の名前は、センリだ、セ、ン、リ。分かるか?」


 少女は人差し指を、ランのほうに向ける。


「おれじゃない。おれがランで、お前がセンリだ」


 その指は、自身に向け、あー、うーとまるで赤子のように(実際に見たことないが)を繰り返して、懸命に発生しようとした。


「せー…り?」

「ンが抜けている」

「せん、り…?」

「そう! よく言えたな」


 頭を撫でると、少女は少し目を細め、大人しくそれを受けた。


「もう一回、言えるか?」

「せん、り…センリ」

「そうそう。覚えたか?」


 そう訊いた時の少女…センリの顔は今でも鮮明に覚えている。


 無表情だった顔が、目を細め、淡く笑った、初めての笑顔はとても儚かった。




● ○ ● ○ ● ○ ● 




「ぐふっ!」


 腹に突然の衝撃。


 ランは汗をしとどに起き上がり、その正体を見て、半眼になる。


 それは片方の足だった。


 その足を辿って行くと、ダイスケが憎たらしいくらい、気持ちのいい鼾を掻き、熟睡していて。


「…」


 起こされた苛立ちをぶつけたいが、ぶつける気力もなかった。


 暑い。今日は朝から暑い。


 ダイスケの足を乱暴に除けるが、ダイスケは起きる気配を見せない。


 そのまま、寝ているシオンに目を向けた。こっちもまだ寝ている。


 ここに、女子の姿はない。


 テンポがいくつもあるので、男子と女子と部屋を分かれて使用しているのだ。

 あっちもまだ寝ているだろう。


「……」


 それにしても、暑い。


 朝から蝉達がミンミンミン、と大量に鳴いているので、さらに暑さが倍増になって、苛立ちも沸々と湧き出る。


「…水、浴びて来るか」


 とりあえず、汗を流して頭をすっきりさせたかった。


 二人を起こさないように(少し騒いでも起きないだろうが)、起き上がってテンポを出る。


 このショウテンガイには、ジャグチというものを捻るだけで、水が出るという古代人の遺産があった。


 だが、それは雨が降ってきた日には、泥水を出す。古代人が使っていた頃は、いつも綺麗な水が流れていたという。


 水道が通っている場所に移動する途中、ショウテンガイの外に出る脇道に、見覚えのある姿を見つけた。


 何やらしゃがんで、何かを観察しているようだ。


「センリ? どうしたんだ?」


 センリの許に歩み寄りながら、声を掛けると顔だけを振り向かせ、ラン、と名を呼ばれる。


「早いな…いや、お前はいつも早いか」


 センリは早起きだ。

 日が昇れば、同時に起きて日光浴を楽しむ。


「何を見ていたんだ?」

「これ」


 先程まで見ていたのは、棒に絡まって、何輪も咲いている花だった。


 丸い形で、真ん中は白く、その周りは一輪一輪違っている。


 色鮮やかな青、紫、紅、桃、水色。それらは太陽の光で照り返していた。


「あぁ、朝顔か」


「あさがお?」


「朝にしか咲かない花だ」


「なんで…? かわいいのに」


「知らないけど…センリ、朝顔が気に入ったのか?」


 センリはこくりと頷く。

 しばらく考える振りをして、ランはセンリの腕を引っ張った。


「ラン?」


「そこのテンポに行くぞ」


「なんで?」


「行ってからのお楽しみだ」


 センリを引っ張って来たテンポは、角を曲がってすぐの所だった。


 ガラス張りだったのだろう、割れた入り口を潜り抜けると、商品だった小物が床や棚に散らばっている。


 センリは物珍しそうに、辺りを見回した。彼女から手を離し、奥に行くラン。そして、店の奥に行きとある棚を引いて、それごと持ってきた。それはとても長く、ランの両手では持てず、底のほうを持ち上げる他がない。


「センリ、来て」


 センリは、足元に気を付けながらランの許に行く。


 そして、ランが持ってきた棚の中を覗き込んだ途端、目を輝かせる。


「わぁ…」


 思わず感嘆の溜息をついて、センリはその中身の物に見入る。


 そこに入っていたのは、棚いっぱいに敷かれた布だった。


 その布は紺の生地に、沢山の青と水色の朝顔と、数えるほどしかない桃色の朝顔を咲かせていた。


 そしてその上には白くて水色と桃色の朝顔が咲いている布だが堅そうな生地が、ちょこんと置かれている。


「ラン、これ、なぁに?」


「これは、ユカタっていう服らしい」


「ユカタ?」


「古代人は夏、何か行事があるとこれを着ていたらしいが…残念だけど、着せ方が分からないんだ」


「残念…」


「でも、見るだけでも楽しめるだろ」


「うん…すごく、きれい」


 喜んでもらえたみたいで、ランはほっと胸を撫で下ろした。


 着せ方分からないのに、見せるのは非常に残念がると思っていたが、見るだけでも楽しめているようで、何よりだった。


「ラン」


「ん?」


「蝉、いっぱい鳴いているね」


「そうだな…」


「ランは、蝉、きらい?」


 前なら、嫌い、と答えていただろうそれ。

 ランはしばし思想して、口に出す。


「好きでも嫌いでもないな」


「そうなの?」


「あぁ。センリこそ、どうなんだ?」


「好きだよ。だって聞いていて気持ちいいから」


「煩い、とか思わないのか?」


 センリはきょとんとする。


「どうして?」


「どうしてって…」


「生きている音なのに?」


「生きている音…?」


「泣かなかったら、生きていないんでしょ?」


 言葉が喉に詰まる。


 生きている、音。確かにそうだ。

 生きているから、喉から声を出せるのだ。


 蝉は土で過ごす時間は長く、地上で生きられる時間はない。


 だから、蝉は生きた証を残すべく、重ねて、重ねて、重ねて鳴き続ける。


 きっと、それが。


「ラン?」


 黙り込んだランを心配そうに、センリが覗き込む。


 近付いてきた顔に心臓が跳ね上がったが、それを表面上に出さないよう繕い、薄く笑って見せる。


「なんでもない…そういえば、前にアオイから聞いたんだが、蝉たちがこんな風に鳴くことを『蝉時雨』というらしい」


「せみしぐれ…蝉時雨?」


「覚えているか? 秋から冬の間に降ったり止んだりする、雨の事を。あれを時雨といって、時雨のように蝉が鳴くことを言うらしい」


「蝉時雨…きれいだね」


「…そうだな」


 確かに綺麗な言葉だ。

 古代人もよく例えられたものだ、と感心するくらいに。


「あ、いたいた。ラン、センリ!」


 ユリの声が聞こえ、ランとセンリは振り向いた。

 すると、あ、と何か悪そうに眉を顰めた。


「もしかして、お邪魔だったかしら?」


「おじゃま…? 何のことだ?」


「…この無自覚」


「ん?」


「別に~? ハカセが全員集合ですって」


「集合? 何か分かったのか?」


「さぁ? とりあえず行きましょ?」


 何やら機嫌を損ねたらしいユリが、頬を膨らませ、先に行ってしまう。


 分からなくて、センリを見たが、センリもただ不思議そうな顔をしていた。

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