第19話
「これが、しけんかん、それで、ふらすこ…」
「正解じゃ。センリは覚えるのが、早いのう」
素直に褒めれば、センリは嬉しそうに笑った。
二人は研究室を掃除し、準備をしていた。
即座に、頼んでいた物を解明するために。
「ねぇ、ハカセ。ラン達、何取りに行ったの?」
「それは、帰って来てからのお楽しみじゃ」
残骸から、あらかじめ集めていた実験道具を掘り出し、机の上の物を整理してどの道具を並べるという作業をしていた。
その作業もたった今終わり、ハカセは椅子に、センリは床に腰を下ろしていた。
「ありがとう。お陰様で、早く済んだ」
「よかった」
「こっそり、蜜柑を取って来たんじゃが…一緒に食べるか?」
「! 蜜柑!」
センリの表情が、ぱあ、と花が開くように輝く。
初めて蜜柑を食べた時から、すっかり気に入ったらしく、嬉しそうに食べる。
これは蜜柑の方も本望だろう。
盗んだ蜜柑を隠し場所である、机の中から取り出して、蜜柑を投げて渡すと、センリは見事にキャッチした。
そして、教えてもらった通りに、皮を剥いて食べ始める。
ハカセもそれ見て、自分も皮を剥きながらこっそり、センリをちら見する。
本当に無邪気である。
皮を剥いて、はにかみながら食べるその姿は本当に子どものようだ。
本当に…。
「? ハカセ、なぁに?」
視線に気付いたセンリが、顔を上げてハカセに視線を合わせる。
ハカセは、黙然としたまま、センリを観察するようにジロジロと見、当の本人は居心地悪そうな顔はせず、ただ不思議そうな表情を浮かべる。
神妙だ。
本当に神妙な態度だ。
これが、本当に…。いや、だからこそなのか。
ハカセは勘付いていた。確信した。
「センリ」
「ん?」
「おぬし…記憶が戻っているんじゃないのか?」
びくっとセンリの肩が揺れる。それだけだが、否じゃないことを確信した。
「やはりのう…おかしいと思っていたんじゃよ。おぬしの容姿を見た時から」
「…」
「どうして、此処にいるのか…どうして記憶を失っていたが、知らぬが…」
センリは翳りのある眼差しで、ゆったりと椅子に座っている彼女を見つめた。
不安と悲しみ、寂しさの混じった瞳。そこには、憎しみは入っていない。
少女の胸の内に渦巻く不安を汲み取ったハカセは、軽く息を吐き捨てる。
「安心せい。皆には言わぬよ。まぁ、おぬしのことは言わんが、情報は流す」
「…どうして?」
「わしから言う事じゃない。センリ、おぬしが言う事だからと、思っておるからじゃ」
「わたし、から…」
俯くセンリ。
ハカセは続けて言い募る。
「それに、わしらの目的はあくまでドラゴンじゃ。おぬしには関係ない」
「関係、ない」
「そうじゃ。関係ない。センリ、おぬしは記憶を取り戻して、どう思ったんじゃ?」
沈黙が流れる。
やがて、おずおずとセンリの口が開いた。
「………なかった」
「ん?」
「思い出したく、なかった」
振り絞った声で、センリは言う。
絶望と切願、そして羨望を孕んだ声で。
「そうか。その思い、忘れるんじゃないぞ」
「?」
「そう思うのは、ラン達が大好きという証じゃ。大好きの気持ちの気持ちを忘れたら、おぬしは『センリ』じゃなくなる」
「大好きっていう、気持ち…」
センリはしばらく押し黙って、再び声を出す。
「ハカセ」
「なんじゃ?」
「ハカセ、大好きだよ」
「お、おう」
いきなり、何を言い出すのか、この子は。
咄嗟に言葉を失い、それだけ返事する。
さらにセンリは、言葉を紡いだ。
「ユリ、大好き」
出会った時から、いつも世話を焼いてくれた。
「ダイスケ、大好き」
いつも怒鳴られるけど、いつも手を引いてくれた。
「アオイも大好き」
笑顔がとても似合う、気さくで頼りになるお姉さん。
「シオンも大好き」
寡黙だけど、いつも気遣ってくれる、優しいお兄さん。
「ソウもダイチも、ゴンベエも好き」
初めは仲良くなったけど、今はもふもふしてくらい仲良しになった、友達。
「でもね」
センリは一旦、言葉を途切った。
「ランは分からないの」
「は?」
ハカセは我が耳を疑った。
分からない?
誰より、ランに懐いているように見えたが、勘違いだろうか。
「ランも大好きだよ。けど…」
「けど?」
「皆の大好きと、ちょっと違う気がする」
センリの言葉に、ハカセは眩暈を覚えた。
つまりだな。
これは、要するに…いや、決定付けるのは、まだ早い。
「センリや」
「なぁに?」
「ランが笑うとセンリも嬉しい」
「うん」
「ランが悲しいとセンリも悲しい」
「うん」
「ランがいないとセンリは寂しい」
「うん」
「そこまでは、みんなも同じだが、違う。そうじゃな?」
「うん」
「オッケー。みんなは同じなのに、ランにだけはそれが倍になる」
「うん」
「ランがユリとアオイと喋っていると、胸が苦しくなるし、チクチクする」
「うん」
「ユリかアオイかが、ランと一緒にいると思うと、胸の奥がざわざわするし、ぐるぐるする」
「ハカセ、すごい! 当たっている」
キラキラと、尊敬の眼差しを受けて、ハカセは珍しく、苦笑いを浮かべた。
やはりこの子は、無垢だな。
身を焦がすような想いの名すら、知らないのだろう。
そして、青い。
あのランと同様、実すら生っていない、花の状態だ。
自覚すれば実が実り、結ばれたら色付き、年月が経って、円満だったら熟す。
自分は、熟して枯れてしまった。
「そりゃ、わしも昔、そういう経験したからのう。おぬしの気持ちなんてスケスケじゃ」
「ハカセも、こんな思いしたことあるの?」
「もう、十年以上昔の話じゃ。男も死んで、それくらいかぁ」
「男?」
「お前がランに抱く想いと同じように、わしもそんな想いを抱く男がおったのじゃ」
そう言って、ハカセは目を細めた。
その遠い目は、情景が映っているように見える。
「思えば、この口調は奴の口癖が移ったんじゃなぁ。いやはや、懐かしいのう…」
「ねぇ、ハカセ。この想いはなんなの?」
ハカセを見つめながら、センリは片手で胸の部分を強く掴む。
そんなセンリに、ハカセは微笑んでみせた。
これも、ハカセにしては珍しい顔だった。
「こんな青臭い話、わしには話すことはできんよ。訊くんなら、そうじゃのう…ユリあたりにでも訊くことじゃな」
「ランじゃなくて?」
「今のランじゃ、分からんじゃろうて」
「?」
「まぁ、ユリの方が知っとるし、親身になって話を聞くじゃろう」
形は小さくても、立派な女じゃ。それに、ランとセンリを、気にしているみたいじゃしのう。
そこまで言わず、ハカセはにやにやと口角を吊り上げる。
「わしが言えることは、皆に対する気持ちも、ランに抱く想いを大事にして、ずっと忘れるな、ということじゃ」
「…忘れちゃいけないの?」
「いけんな。先ほども言ったが忘れたら、おぬしは『センリ』ではなくなる。まぁ、『センリ』を捨てたいのならば、話は別じゃが、おぬしはそれを望んでいないんじゃろ? けど」
「けど?」
「その分、辛いし苦しいじゃろう。お前さんに足りんのは、覚悟じゃ。背負う覚悟と、捨てる覚悟。特にお前さんに今大切なのは、捨てる覚悟じゃ」
「捨てる、覚悟?」
ハカセは真剣な瞳で、センリを射抜くように見つめる。
「このままじゃと、お前はどっちの道を選ぼうが、おぬしは何かを捨てなくてはいかん」
「っ」
「まだ、迷っているんじゃろ? ゆっくり、考えるといい。お前さんがこっちを捨てても、わしは気にせんよ」
センリは再び俯く。手に持った蜜柑を口にしないまま、ただ下を向いた。
ハカセは残りの蜜柑を全部口の中に入れ、古代ファイルを手に取る。
そして、パラパラとページを捲り、とあるページでそれを止めた。
そこには。
センリによく似た、少女の写真が貼られていた。
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