12

 やがて革靴の音が聞こえなくなると、アーネストはおもむろに口を開く。


「ソフィア、帰らないのか」


 いつまで経ってもベッドサイドから動く気配がない少女に、アーネストは首を傾げる。黒い髪と黒い瞳と浅黒い肌。夜の闇と同化して、すぐにでも居なくなりそうな危うさがあった。


「女の子をこんな時間に帰らせるの?」


 アーネストの手元の懐中時計は、十時過ぎを指していた。それはもっともな言い分だ。


「そうだな、それではぼくの家の者を呼ぼう。皆歳のせいで戦えはしないが、頼りになる者ばかりだ」


 病院の電話を借りるため、アーネストはベッドから下りようとする。しかしその肩は、小さな掌によって制止された。


「右足が痛いでしょう。今夜くらいは安静にして」


 アーネストの力なら、その手を振り払うこともできた。しかしここで英国紳士の性が出て、アーネストは静かに壁へ体重を預けた。


「それなら、……たしか、お前の家には電話があったな。お前の父親に迎えを頼んだらどうだ」


 ゆったりと鷹揚に構え、さらに提案を重ねた。それなのに、少女は立ち上がろうとしない。耳を済ませて、返答を待った。


「……お父さんは、いないわ」


 理不尽へ怒りをぶつけるように、吐き捨てた。言い方が言い方なので、アーネストは心配して顔を覗き込む。


「それは……どういう?」

「今日、フィラデルフィアへ発ったの」


 居心地悪そうに、彼女は足を交互にぶらつかせた。

 そうか──ソフィアはいま、父親不在で年相応に寂しがっているのか。アーネストの脳内で、これまでの言動の全てが繋がった。


「ああ、なるほど。それなら今日はここで過ごせばいい。空いているベッドがどこかの部屋に──」


 あるだろうから、と言って立ち上がる前に、腕をきつく掴まれる。驚いて見てみれば、ソフィアが両手で腕にしがみついていた。


「ここでいい。……ここがいい」


 アーネストはそのとき、彼女を占める寂寥の正体を悟った。というより、その背景を思い出した。


 彼女がずっと、父親に付き従って旅をしてきたらしいことは、アーネストも知っていた。

 そしてここから分かること、それは──彼女が、父親以外の身寄りを持たないことだ。血族はもちろん、上司も、隣人も、友達もいない。そんな中で父親を失えば、その心の空白は、計り知れないものとなるだろう。


 アーネストは、静かに彼女の黒髪を撫でる。手袋越しにも、その体温が伝わってきた。


「承知した。寝る時は、ぼくのガウンを掛けてくれて構わないから」


 ソフィアは俯いたまま、うん、と言った。アーネストは黒髪から手を放し、毛布の下に収めた。


「そういえば、エドガー……お前の父親は、どうしてフィラデルフィアに?」


 床を見つめる彼女の顔は、普段よりもずっと幼く見えた。ソフィアにとってはやはりつまらない話なのか、装飾を省いた言葉で手短に告げた。


「仕事の取材よ」


 アーネストは、仕事をするエドガーの姿を想像しようとしたが、うまく像を結ばなかった。


 この一ヶ月と少しのあいだで、アーネストはエドガーと何度か”共同作業”を行った。興味のあるものに対してはひたすらに取り組んでいたようだったが、そうでないものに対してはその限りでなかった。


 仕事に対しても、そうなのだろうか。


 彼の家に行ったとき、机の上に書きかけの記事があった。一面に載った時は、わざわざ記事をスクラップして手紙とともに送ってきた。熱心なことはわかるが、果たしてすべての記事に対してそうなのだろうか。


 実際に新聞を読んで確かめてみたい。ところがアーネストは、家から新聞の購入を禁ぜられている。権力者が特定の新聞社の新聞を購読することは、特定の主張を支持することを象徴する、とかなんとかの理由で、アーネストにはまだ早いらしい。


 ふいに、ソフィアが顔を上げた。


「そうだ。アーネストさん、晩御飯まだじゃない?」


 彼女は、いつもの──無害そうな子供の顔に、大人の表情を貼り付けたような──顔で尋ねた。アーネストはその言葉でやっと、今日の夕餉を食べていないことを思い出した。


「そうだが、それはお前もだろう。いつも『お小遣いは貰っていないから』と、ぼくに金を出させる」


 と言って肩を竦める。

 なぜソフィアに小遣いを与えないのか。エドガーに訊いてみたが、答えてはくれなかった。しかしソフィアが文句一つ漏らさないところを見ると、納得のいく説明はすでに済ませているのだろう。


「いいえ、今回も君に出してもらったわ」


 ソフィアは、罠にかかった狐を見るような目でこちらを見てきた。


「っ……! まさかお前、」


 アーネストには心当たりがあった。


 出してもらった、という証言──しかし無論、アーネストはソフィアの晩飯代を出した覚えはないし、物理的にも不可能だ。つまり、なにかの比喩だろう。


 アーネストが撃たれる前、その前、と遡行していくと、ひとつ引っかかることがあった。


「入口の前でばらまいた硬貨……盗んだなんてことはあるまいな?」


 アーネストがそう尋ねると、ソフィアは下唇を人差し指で持ち上げて、笑った。


「子供だから、よくわかんない」


 これは世の男を困らせそうだな、と、アーネストは思った。


 ◇◇◇


 静かになったクルス邸。マーガレット・クルス及びその使用人たちは、餌食となった少女を置いてどこかに去った。おおかた、アップルトン家へ、だろう。


 屋敷に闖入者が入らないように、と置かれた見張りの少女は、遠巻きに黒髪の死体を眺めていた。壮絶な最期だった。あの風景は多かれ少なかれ、彼女の心臓に傷を刻んだ。


 本当に死んだのだろうか。


 ほんの少し、そんな疑念が頭に浮かぶ。ううん、あんなに苦しんでた、生きてるはずがない。脳の冷静な部分はそう言うが、初めて人の死を間近で目撃した少女は、荒唐無稽な帰無仮説を立てた。


 証明のため近づいて、彼女はその首筋に触れんとする。日に焦げた少女の頬まで、あと数十センチ、数センチ、数ミリ──、


「おはよう、リトルレディ」

「ぎゃあ!?」


 遽然、少女の大きな目が開いた。つり上がったアーモンド状の瞼は、したり顔がよく似合う。


「あらあら、まるでゴーストでも見たみたいな反応ね」


 少女は何事も無かったかのように起き上がり、こちらの髪を撫で、そしてその手を頬まで持っていく。幼さを残したかわいらしい顔立ちの中に、女性らしい笑みが浮かんでいる。


「君、ウィリアムさんの顔を知っていたようだけど?」


 どきりとした。端的に言えば、あの金髪の青年が捕らえられたのは自分のせいだ。彼女がこちらを責める大義名分も動機も十分にある。少女は考えるより先に、唇に埋め込まれた謝罪の文句を口に出す。


「申し訳ありません、わたくしの不徳の致すところで──」

「ああ、いえ、謝罪なんかいらないのよ。


 君は、アーネストさんのことを思って情報を隠したんでしょう。悪気がない人間を責める趣味はないわ」


 アーネストさん──あの金髪の青年のことだろう。粛清のターゲットにならぬよう、殊更に言及を避けたところまで見抜かれていた。この少女は、いったい。


「ああでも、どうしても謝りたいって言うのなら──私からひとつ、お願いがあるの」


 彼女は、黒い目でこちらを見返す。陰謀を多大に含んだ、宵闇の目で。


「……の、前に。君の名前を聞いておきましょう」


 そう言うと、彼女はようやく立ち上がり、スカートについた煤や埃を叩いた。白のスカートがその輝きを取り戻した。


「き、キーヴァ・オコネルっ、です」


 キーヴァも同調して立ち上がる。少女の動きを真似て襤褸をばさばさと踊らせるが、色が変わった気はしない。彼女はその裾を取り上げ、薄汚れたワンピースをまじまじと見る。


「私はソフィア」


 少女ソフィアは、上目遣いにまたキーヴァを見つめた。


「キーヴァさん、度胸はある?」


 汚れた服を放すと、ソフィアは先程と反対の頬を撫でてきた。親指を鼻筋まで伸ばしたあたりで、キーヴァは肯定の返事を渡す。


「うん、うん。素晴らしいわ」


 ソフィアは手を離す。そしたら、と文を繋いで、彼女は続けた。


「この家で一番壁が薄いところへ行きましょう」

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