10

「Life's but a walking shadow, a poor player(人生はただの歩く幻影で、そして拙い役者風情)」


 流暢なイギリス英語で、静かに語った。

 ポシェットの蓋を開けて、あの小瓶を取りだす。そして、片目を瞑って、微笑んだ。


「──また、会えるといいけど」


 ウィリアムはこれから行われるであろうことを察し、戦慄した。確か、あの小瓶には。


「ま、待ッ──!」


 その言葉は、ソフィアの声で遮られる。


「マーガレット・クルス! 私と取引をしましょう!」


 座ったまま、高らかに持ちかける。ウィリアムは制止しようと手を伸ばすが、既のところで届かず空を切る。


 やめろ、ソフィア。そんな馬鹿らしいこと、おれがやるべきだろ。そう叫ぼうとするが、上手く言葉にならない。そうしているうちに、マーガレットの周りに控えていた男どもがやってきて、ウィリアムの体を抑えた。

 視線の先のマーガレットは、曲がった腰を左に捻り、こちらを向いた。断れ、断ってくれ、お願いだ、と念じるが、願い届かず。


「面白い小娘だ。いいだろう」


 そう言う老婆の声が、クルス家の高い天井に響いた。ソフィアの顔は、男たちの体が壁になって見えない。あの小さな女の子は、死ぬときどんなことを思うのか。それを思うだけで、切ない気持ちが胸を埋める。


「あなたの目的は、アップルトン家からお金を巻き上げること──これは、いいわね?」


 ソフィアはたおやかに語りだす。男たちの身体の間隙から覗いたマーガレットは、ゆったりとソフィアに歩み寄り、「そうだね」と問いを認めた。


「私はそこの──ウィリアムさんの護衛なの。君主を守れずして帰るなんて、従者失格よ」


 天衣無縫に見えるソフィアだが、やはり言葉の端々には忠誠心が覗く。


 従者にしておくには勿体ない人材だが、これほど敬慕の念が強いと天賦の才さえなげうてるのだろうか。それだけでなく、いま、彼女は命さえ捧げようとしている。見上げた精神だ。


 でも果たしてウィリアムの友人は、従者の落命を是とする人間だろうか。きっと違う。しかしどんなに本人が望まない結果でも、主と従者という決められた枠の中では、当然のことになってしまうのだろう。


 この世界は腐ってる、なんて大それたことは言えないが。

 この世界は空虚だ、くらいはもしかしたら言えるかもしれない。


「私、今からあなたの従者になるわ」


 そう嘯くと、隣でがさごそと鞄をまさぐる音が聞こえた。どうやらあの附子の瓶を取りだしたらしい。


「私は、これからこれを飲んで死ぬ。


 あなたは、ウィリアムさんが自分の従者を殺した、と、アップルトン家を訴えなさい」


 嫌な予感ほどよく当たる。最悪な気分だ、自分よりずっと小さな女の子が、忠義に殉じるのを見るしかできないのは。


 マーガレットは、提案を呑んだ。


「アーネストさん、本家への報告よろしく。私はあの人を守ったと伝えて」


 ウィリアムを見ながら、そう求める。本家──アーネストに報告することを案じると、気が重かった。この状況だと、かえって自分が恨まれるに決まっている。

 ソフィアは見張りの男に拘束を解くよう要求する。ウィリアムを抑えていた男たちは離れ、彼女の足首の縄をほどく。


 ソフィアの背中は、ずっと大きく見えた。四・五フィートにも満たない躯体はいま、巨悪へと向かう。


 ソフィアは、瓶の蓋を開ける。


「All the world's a stage,And the men and women merely players(この世は全てひとつの舞台、全ての人はただ単なる役者)」


 これはただ、隅にはけていく役者の一幕だ、と、彼女が言外に言っていた。

 そしてその内容物を煽る。やめろ、と、声さえも出なかった。マーガレットの侍従が持ったランタンに、その毒薬は美しく輝いた。


「ッぐ、ぁ!」


 口から泡を吹き出して、ソフィアの膝はがくんと折れた。胃液と毒液とが喉奥で混ざって、肺の奥から深く咳き込む。この位置からでも、荒い息遣いが聞こえてきた。


 やがて右手のひらを地につけ、左も同様にして床についた。左肘が、折れたかと思うほど突然に曲がった。左肩が床に落ちて、ごおん、と低く衝撃波が響く。背中で床上を転がり、仰向けになって、苦しみに喘ぎながら天井を仰ぐ。定期的に痺れる手足の先だけが、生存の証だった。


 そしてそれさえもなくなった頃、マーガレットはウィリアムに告げた。


「お前はもう用済みだ。アレを連れて帰れ」


 彼女は、金髪の青年を指さした。口元には、魔女のような笑みを浮かべていた。アップルトン家とクルス家を跨いで開幕した、エゴとエゴの戦争。これはその一幕に過ぎなかった。


 青年が見た現実は、あまりに理不尽すぎた。ソフィアの黒髪は乱れ、静かに床に落ちていた。悲しげに空を見上げる顎は、ミレイの『オフィーリア』にどこか似ていた。


 涙は、出なかった。絶句、その一言が強すぎた。


 ウィリアムの足元を縛る足枷が、長い時間を経てようやく解かれる。


 くびきが壊されたとき、ウィリアムは思った。

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