アーネストは夢を見た。昔の夢だ。


 母親がまだ生きていたころの、遠くて朧げな記憶を基にしたそれは、ところどころ矛盾したところのある酷い夢だった。しかし漠然と、安らかで明るい未来を示唆するものだ。


 幼いアーネストは、暖かいシチューを食べていた。母が喋り、父が笑い、兄が──、


 兄が。


 彼の方を向いた瞬間、アーネストの心臓は跳ね上がった。

 最後に見たときよりずっと若い彼の顔の左半分が、黒く滲み、歪んでいた。


「アーネスト、」


 兄が、こちらの名を呼ぶ。プラチナブロンドの髪が揺れた。それだけ切り取れば、微笑ましい家族団欒の一場面だったはずなのに。


 右手に握った銀の匙が、突如、泡となって消える。


「おまえは、私の味方だね?」


 途端、世界が崩れていく。アーネストを取り囲んでいた屋敷が、果てのない奈落へと堕ちていった。


「おまえの障害は、私がすべて取り除く。


 私の代わりに、おまえは野望を抱け」


 やがて闇の中には、兄とアーネストだけが浮かんでいた。兄は語る。


「全ての人が平等に。全ての人が自由に。


 戦乱の先に見える、女神パクスによって守られた世界を造り上げると」


 そこで、兄の言葉が途切れる。アーネストは顔を上げた。その視線の先で──兄は顔を抑え、指のあいだから苦しげな呻吟を漏らしていた。


 そしてまた、崩れた。


 指の隙間から、その黒く歪んだ仮面を落としていく。初め固形で落ちていたそれは、だんだんと液状になっていった。そしていつしか雫も涸れて、そして兄の呻き声が途絶えた。


 兄が顔を上げた。


 右半分は、神々しいほどに美しい顔。

 左半分は、悪魔のように爛れ落ちた顔。


「私のような人間が、もう損しないように」


 炎天のように青い瞳と、何も映さぬ虚ろな眼窩(がんか)。それらが同時に、アーネストを見つめた。


「いいね、アーネスト?」


 兄が笑う。


 アーネストは、思い出した。

 その日から彼は、兄の”顔”になったのだ、と。


 ◇◇◇


 海底二万里から沖に上がった潜水艦のように、アーネストは目を覚ました。海底で吸えなかった空気を、肺に含んでは吐き、吐いては吸った。頬を伝う冷や汗は、海から上がったばかりの雫ように激しく流れ落ちる。


 つん、と鼻をつく消毒液の匂い。この静かで暖かい部屋が病院の一室だとわかるまで、かなりの時間を要した。鈍く痛む右足首と額の奥、そして白黒し続ける視界とが、アーネストの思考を阻害したからだ。


 アーネストの視界は病室を一巡し、最後にベッドサイドへ目を向ける。そこには、腕を組んで眠る彼の友人の姿があった。


「……アップルトン、」


 声を掛けると、彼はすぐさま飛び起きた。


「っ、ベネディクト!」


 ウィリアムの瞼は、泣きすぎたのか赤く腫れていた。動揺を隠そうともしない翠眼が、真っ直ぐこちらを射抜いた。


「落ち着いて聞いてくれ!」


 そんなに余裕のない彼を、アーネストはそのとき初めて見た。お前こそ落ち着け、と冗談を言う暇もなかった。ただならぬ非日常を、その背景に感じさせた。


 彼の瞳は僅かに滲み、その口からは残酷な真実が紡ぎだされた。彼は一言。



「──ソフィアが死んだ」



 アーネストは、返事ができなかった。喉奥が低く鳴って、その一瞬だけは、足首の痛みを忘れていた。


「ベネディクト、屋敷を出たところまでは覚えてるよな?」


 語尾が震えていた。アーネストは働かない頭に鞭を打って、直前までの記憶をなんとか引き出した。ああ、と返すと、ウィリアムは口端からほのかな笑いを零した。


「じゃあ、そのあとから語ろう。ソフィアが、どうして死んだのか、ってのも」


 彼は殊更な笑みを浮かべた。隠しきれない悲愴が、片言隻語から滲みだしていた。


 ◇◇◇


 ウィリアム・アップルトンは、突如現れた刺客になすすべもなく縛られた。両足を椅子に固定され、その椅子も柱に固定される。そばにいたのは、黒髪の女の子。今日出会ったばかりなのに、彼女には不思議と親しみが持てた。


 ちら、と彼女に目線で合図をする。彼女の黒い瞳とかち合うと、彼女は静かに目を伏せた。危機的状況に焦っているのは、ウィリアムだけでない。彼女は須臾の間で、それを教えた。


 ウィリアムは目線を上げ、遠くで動く刺客の背を見つける。


「ウィリアム・アップルトンを捕らえたと知らせろ」


 その声をハスキーの一言で済ませてしまうほど、ウィリアムはフェミニストではなかった。それは、低くしゃがれた老婆の声だった。


 部下に命じる態度とその発言から、ウィリアムは彼女の正体を推察した。


 マーガレット・クルス──この屋敷の主にして、元カルヴァリー商会の長にして、ウィリアムをここへ呼び出した張本人。


 彼女はおそらく、ウィリアムをここに呼び出して監禁し、アップルトン家から身代金をせしめるつもりだったのだろう。そのために屋敷まるごとトリックに組み込むとは、実に悠長な策略だ。


 ソフィアに軽く目配せすると、彼女は仮定の丸つけをするかのように頷いた。


「あの人、シクラメンの花束をマーカーにしていたようね」


 そう囁く。だから今、ベネディクトは捕らえられているんだな──そう言うかわりにうち頷いた。


 その証明に用いるには些か弱そうだが、ウィリアムはある人影を見つけていた。オーバーサイズの服を纏った、シクラメン売りの子供だ。その細い腕を折り曲げて、申し訳なさそうに眉を顰めていた。その様に、ウィリアムは胸が痛んだ。


 おれが、花を捨てていなければ。


 そう思ったが、今更どうにもできない。時間の不可逆性は、どこまで行っても絶対の真理だ。


 それに加え、クルス家の象徴たる赤いシクラメンは、アップルトン宅に持ち込みを禁止されている。ウィリアム・アップルトンには、捨てるしか選択肢がなかったのだ。その事情を知らなかったあちらは、わずかばかりの抵抗にシクラメンを差し出したのだろう。


 ごめんな、と小さく地面に落とした。


「じゃ、おれは、アーネスト・ベネディクトをやればいいわけか?」


 努めて静かに尋ねる。ソフィアは「ええ」と言いはしたが、その表情は苦かった。だからといって、むやみに身分を明かそうとするのはやめたほうがよさそうだ。


「んっんん……『ぼくは珈琲より紅茶派だ。セイロン茶だとなお良し、だな』」


 ウィリアムは声を少し高くして、ふざけた物真似をした。彼なりに精一杯緊張を解そうとした結果だったのだが、ソフィアは呆れた目つきでその芸を評価した。


「あの人、アールグレイしか飲まないわよ」


 そう正面から返されてしまうと、ウィリアムから言えることは何も無かった。


「そもそもアーネストさんの顔を覚えていない連中が、声や喋り方を知ってると思う?」


 十も下の女の子が、ウィリアムを完膚なきまでに言い負かした。それもそうだと、遠くのアーネストまで目線を送る。


 落ちた瞼を縁取る睫毛は、繊細でかつ、長く伸びていた。人間にしては持て余す、それほどまでに整った容姿。いくら耄碌しようとも、彼の美貌は網膜に焼きつくことだろう。


 ウィリアムが視線をソフィアへ戻すと、彼女はぼそりと語りだした。


「それより、ウィリアムさん」

「ん、何だ?」


 ちら、と目線をやって、馬鹿にするように訊いた。


「君、交渉は得意?」


 元来つり上がった目じりを、にやりと笑ってさらに引き上げた。


「……いいや、苦手だな。留年阻止の交渉に敗れたからこそ、ここにいるわけだし」


 言いながら、情けないなと思った。今日一日ソフィアを見て、自分なんかより余程口が立つと思った。頭もよく回る。出すところに出せば、驚くべき成果を残せそうな才能を感じた。


「あらそう。まあ、そうだろうとは思っていたけれど」


 と、笑いながら揶揄った。その表情は、とても危機的状況にあるように思えない。


「それなら──私のやることを、静かに見続けるのはできる?」


 ソフィアと同い年の子供にもしないような、あまりにも相手を幼く見た質問だ。ウィリアムは何も考えず、もちろん、と返す。

 すると彼女は悲しそうに、にこり、と微笑んだ。


「わかったわ。──君が役に立つっていうところを、ひとつ私に見せてちょうだい」


 先程ウィリアムが真似た相手を、彼女も真似ていた。なぜか彼女は彼に似ていて、表情や声が重なって見えた。


 表面的な口調や声でなく、その背後にある狙いや感情。それを真似るのが本物なのだと、彼女は最後に教えてくれた。



 ──いや、最期に。

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