6
一階で得られたものは少なかった。そのようにアーネストは感じていたが、ソフィアはその限りではないらしい。
二階に続く階段の前で、彼女はポシェットから小瓶を取り出した。白く、砂のような光沢を持った粉が入っている。コルクの蓋を開け、手のひらに幾ばくかその内容物を出して見せる。
「これが得られたから、収穫はあったわ」
ソフィアは、その幼い口元に嗜虐的な微笑みを纏わせる。瓶に囚われた白い粉が、黒い瞳の中で甘美に浮かぶ。
「それは何だ?」
おそらくソフィアが一番待っていたであろう質問を、ウィリアムは投げた。ソフィアはいたずらがうまくいった子供のように──実際そうかもしれないが──言った。
「キッチンで見かけて、拾っておいたの。おそらくこれは、」
ソフィアはウィリアムの方へつま先を向け、今一度向き合って宣告する。
「トリカブトから作られる毒──通称
そうして、その猛毒の粉を瓶へ戻した。
毒が有用、という彼女の演説と、目の前に広がる果ての見えない謎。彼女が何に用いるか推定しようにも、ヒントが少なすぎる。アーネストは探偵の体裁を保つため、わかったふうに大きく頷いた。
ソフィアはカバンに瓶を詰め込むと、目の前の階段に向き直った。色あせたレッドカーペットが敷かれた、大きな階段だ。登った先に、一切の光は見えない。深い闇が、この静謐な謎をより恐ろしいものへと仕立て上げていた。
「この先、もっと衝撃的なものが待ち受けてるかもしれない、んだよな」
ウィリアムが震えた声で言った。アーネストは先に広がる闇を眺めながら、ああ、と短く答える。ウィリアムは同じところを、揺らぐ瞳孔で捉えていた。
ウィリアムは一点を見つめしばし黙ったあと、諦観の怨嗟を吐き出した。彼の中で何かが変わったらしく、その表情はあたかも夏の日の蒼穹のようだった。
「行こうか、ソフィア、ベネディクト」
彼は足を進めると、後ろからソフィアのランタンを奪った。切り込みは自分でやる、と立候補したのだ。階段を登るウィリアムの足取りは重かったが、しかし、それは恐怖に尻込みするが故のものではない。待ち受けるであろう黒滔々たる謎を、堂々と切り開くがためのものだ。
階段を上りきった先の廊下にも、腐敗しかけた死体があった。ランタンの光が揺れる。ウィリアムは口をついて出そうになった悲鳴を、何とかして肺の奥に落とし込んでいた。アーネストもその気迫に敬服して、一度深呼吸を挟んでから彼についていく。
彼は一番奥の部屋から入った。一階の各部屋には、「
部屋の中で吐いた息が白く舞い、指先の動きも鈍っていった。アーネストは部屋の扉を閉めて前を向く。床に伏していた死体と目が合った。若い少年のものだった。アーネストはつい、そこで視線が止まる。
「やっぱ怖いもんは怖い!」
ウィリアムが叫ぶ。
しかしそんなことも構わずに、アーネストは思考を始める。
その瞳は最後に何を映したのか。
瞳の奥の脳はどうなっているのか。
死んで虹彩が濁っても、まだ見えるものなのか。
目、という部位は、顔の一パーツにすぎない。瑣末なものだ。しかし”目は口ほどに物を言う”という言葉通り、その情報量は計り知れない。
アーネストがこれまで──いくら父兄が権力者を殺そうと、屋敷の探索で死体を見ようと──動揺しなかったのは、きっとその、目が訴えかけてくる感覚を知らなかったからだ。この瞬間、今彼が立っている足元と目の前の死体とが、切れない糸で繋がれた気がした。
ここで、アーネストの悪い癖が出た。答えのない問いを、いちいち立ち止まって考えてしまう癖だ。その結果。
「──タイム」
気分が悪くなった。手を挙げて、アーネストは静かに目を伏せた。
「ん、どうしたベネディクト。推理タイムか?」
ウィリアムの声が後方で聞こえた。彼は死体を見て叫んだあと、例によって後方避難したらしい。
「……いや、違う、その──駄目だ、死体が」
自分の吐く息が震えているのを感じる。溜飲が食道をせりあがる。食堂で饐えた匂いを嗅いだ時とはまた違う、精神的な吐き気が襲った。
「あら、なんで突然」
ソフィアも異変に気づいたようだ。なぜほかの死体が平気で、この死体が駄目なのか。つきん、と痛む脳を酷使して、その理由を考えた。
目が合ったのももちろんあるが、それ以上に直感で響いたものがあった。その正体を、長い
そして、ひとつの手がかりが指先に触れる。そして、それをそのまま取り出して述べる。
「その死体が、暗殺によるものだから、だろうか」
──暗殺。
それはアーネストにとって、いちばん身近で忌避すべき死因だ。公爵家に生まれた身ゆえに、暗殺の危険性は既に無意識下に叩き込まれていたのだ。
暗殺の結果が、ありありと現前している。
衝撃的な光景が、自分の命は狙われている──そういった意識を条件反射的に甦らせた。ゆえにそのとき生じる不快感は、当人にとって生理的拒絶と何ら変わりないものに思われた。
ソフィアは、暗殺、と、口元で繰り返した。なにか思うことがあったのだろうか、言った後に長くため息を吐き出した。
「暗殺、ね。させないのが、私たちの仕事なのだけれど」
と、いまさらながら護衛らしい言葉を吐いた。ウィリアムは、きっと忠誠心の強い護衛だと思っただろう。
しかしアーネストには分かった。その『私たち』は、エドガーとソフィアのことなのだと。人と深く交わることを諦めたエドガーの代わりに、ソフィアがアーネストに誓ったのだと。認識した瞬間、気分の悪さは静まっていった。信頼、というには、相手のことを知らなすぎる。きっとこれは、彼ならやってくれる、という、憧憬の亜種だろう。
アーネストは、ゆっくりと重い瞼を上げた。
「……頼もしい言葉だ」
言って、冷めた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ウィリアムももう怯え終えたのか、いつの間にかアーネストの隣に並び立ってランタンを光らせていた。
そういえばさあ、と彼が軽い口調で切り出した。
「ソフィアは何でそんな慣れてんだ」
訊いて、アーネストの肩に肘を乗せた。体重がかかって重い、と訴える代わりに、ウィリアムの脇腹へ肘鉄を喰らわせた。
それで見逃しそうになったのだが──アーネストは運良く、少女の瞳孔が揺らいだその一瞬を捉えることができた。
されど次の瞬間には、いつもの調子に戻っていた。
「──私、子供だから」
──大人はそこまで都合よく動かねぇよ。
その口吻を、どこかで見たような気がした。
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