一階で得られたものは少なかった。そのようにアーネストは感じていたが、ソフィアはその限りではないらしい。


 二階に続く階段の前で、彼女はポシェットから小瓶を取り出した。白く、砂のような光沢を持った粉が入っている。コルクの蓋を開け、手のひらに幾ばくかその内容物を出して見せる。


「これが得られたから、収穫はあったわ」


 ソフィアは、その幼い口元に嗜虐的な微笑みを纏わせる。瓶に囚われた白い粉が、黒い瞳の中で甘美に浮かぶ。


「それは何だ?」


 おそらくソフィアが一番待っていたであろう質問を、ウィリアムは投げた。ソフィアはいたずらがうまくいった子供のように──実際そうかもしれないが──言った。


「キッチンで見かけて、拾っておいたの。おそらくこれは、」


 ソフィアはウィリアムの方へつま先を向け、今一度向き合って宣告する。


「トリカブトから作られる毒──通称附子ぶすよ」


 そうして、その猛毒の粉を瓶へ戻した。


 毒が有用、という彼女の演説と、目の前に広がる果ての見えない謎。彼女が何に用いるか推定しようにも、ヒントが少なすぎる。アーネストは探偵の体裁を保つため、わかったふうに大きく頷いた。


 ソフィアはカバンに瓶を詰め込むと、目の前の階段に向き直った。色あせたレッドカーペットが敷かれた、大きな階段だ。登った先に、一切の光は見えない。深い闇が、この静謐な謎をより恐ろしいものへと仕立て上げていた。


「この先、もっと衝撃的なものが待ち受けてるかもしれない、んだよな」


 ウィリアムが震えた声で言った。アーネストは先に広がる闇を眺めながら、ああ、と短く答える。ウィリアムは同じところを、揺らぐ瞳孔で捉えていた。


 ウィリアムは一点を見つめしばし黙ったあと、諦観の怨嗟を吐き出した。彼の中で何かが変わったらしく、その表情はあたかも夏の日の蒼穹のようだった。


「行こうか、ソフィア、ベネディクト」


 彼は足を進めると、後ろからソフィアのランタンを奪った。切り込みは自分でやる、と立候補したのだ。階段を登るウィリアムの足取りは重かったが、しかし、それは恐怖に尻込みするが故のものではない。待ち受けるであろう黒滔々たる謎を、堂々と切り開くがためのものだ。


 階段を上りきった先の廊下にも、腐敗しかけた死体があった。ランタンの光が揺れる。ウィリアムは口をついて出そうになった悲鳴を、何とかして肺の奥に落とし込んでいた。アーネストもその気迫に敬服して、一度深呼吸を挟んでから彼についていく。


 彼は一番奥の部屋から入った。一階の各部屋には、「DINING食堂」「DEN書斎」「SERVANT使用人 QUARTERS部屋」などのプレートがあったのだが、その部屋の入り口付近にはどこにもそのような案内はなかった。ここから先は個人の部屋、ということなのだろう。


 部屋の中で吐いた息が白く舞い、指先の動きも鈍っていった。アーネストは部屋の扉を閉めて前を向く。床に伏していた死体と目が合った。若い少年のものだった。アーネストはつい、そこで視線が止まる。


「やっぱ怖いもんは怖い!」


 ウィリアムが叫ぶ。

 しかしそんなことも構わずに、アーネストは思考を始める。


 その瞳は最後に何を映したのか。

 瞳の奥の脳はどうなっているのか。

 死んで虹彩が濁っても、まだ見えるものなのか。

 目、という部位は、顔の一パーツにすぎない。瑣末なものだ。しかし”目は口ほどに物を言う”という言葉通り、その情報量は計り知れない。


 アーネストがこれまで──いくら父兄が権力者を殺そうと、屋敷の探索で死体を見ようと──動揺しなかったのは、きっとその、目が訴えかけてくる感覚を知らなかったからだ。この瞬間、今彼が立っている足元と目の前の死体とが、切れない糸で繋がれた気がした。


 ここで、アーネストの悪い癖が出た。答えのない問いを、いちいち立ち止まって考えてしまう癖だ。その結果。


「──タイム」


 気分が悪くなった。手を挙げて、アーネストは静かに目を伏せた。


「ん、どうしたベネディクト。推理タイムか?」


 ウィリアムの声が後方で聞こえた。彼は死体を見て叫んだあと、例によって後方避難したらしい。


「……いや、違う、その──駄目だ、死体が」


 自分の吐く息が震えているのを感じる。溜飲が食道をせりあがる。食堂で饐えた匂いを嗅いだ時とはまた違う、精神的な吐き気が襲った。


「あら、なんで突然」


 ソフィアも異変に気づいたようだ。なぜほかの死体が平気で、この死体が駄目なのか。つきん、と痛む脳を酷使して、その理由を考えた。


 目が合ったのももちろんあるが、それ以上に直感で響いたものがあった。その正体を、長い逡巡しゅんじゅんの中でなんとか探ろうとする。


 そして、ひとつの手がかりが指先に触れる。そして、それをそのまま取り出して述べる。


「その死体が、暗殺によるものだから、だろうか」


 ──暗殺。


 それはアーネストにとって、いちばん身近で忌避すべき死因だ。公爵家に生まれた身ゆえに、暗殺の危険性は既に無意識下に叩き込まれていたのだ。


 暗殺の結果が、ありありと現前している。


 衝撃的な光景が、自分の命は狙われている──そういった意識を条件反射的に甦らせた。ゆえにそのとき生じる不快感は、当人にとって生理的拒絶と何ら変わりないものに思われた。


 ソフィアは、暗殺、と、口元で繰り返した。なにか思うことがあったのだろうか、言った後に長くため息を吐き出した。


「暗殺、ね。させないのが、私たちの仕事なのだけれど」


 と、いまさらながら護衛らしい言葉を吐いた。ウィリアムは、きっと忠誠心の強い護衛だと思っただろう。


 しかしアーネストには分かった。その『私たち』は、エドガーとソフィアのことなのだと。人と深く交わることを諦めたエドガーの代わりに、ソフィアがアーネストに誓ったのだと。認識した瞬間、気分の悪さは静まっていった。信頼、というには、相手のことを知らなすぎる。きっとこれは、彼ならやってくれる、という、憧憬の亜種だろう。


 アーネストは、ゆっくりと重い瞼を上げた。


「……頼もしい言葉だ」


 言って、冷めた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ウィリアムももう怯え終えたのか、いつの間にかアーネストの隣に並び立ってランタンを光らせていた。

 そういえばさあ、と彼が軽い口調で切り出した。


「ソフィアは何でそんな慣れてんだ」


 訊いて、アーネストの肩に肘を乗せた。体重がかかって重い、と訴える代わりに、ウィリアムの脇腹へ肘鉄を喰らわせた。

 それで見逃しそうになったのだが──アーネストは運良く、少女の瞳孔が揺らいだその一瞬を捉えることができた。


 されど次の瞬間には、いつもの調子に戻っていた。嫣然えんぜんと、その唇に人差し指を置いて笑う。


「──私、子供だから」


 ──大人はそこまで都合よく動かねぇよ。


 その口吻を、どこかで見たような気がした。

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