小さくなっていく三つの背中を見届けてから、少女は路地へ消えた。二十ドルを懐に隠し、狭い道を進む。慣れた足取りだ。


 しばらく進むと、区画整備にあぶれた空き地にたどり着いた。まわりの建物の背に隠れて、太陽の光はほとんど入りこまない。それゆえに、そこはいつも湿って薄暗かった。


 そこに置かれた丸太の上に、ひとりの壮年の女性が座っている。


「……対象、見つかりました」


 少女は拙いながらも彼女に報告をする。彼女はそのまま続けた。


「財布のアクセサリーにウェスト・アップルトンの紋章が見えました。間違いありません」


 少女は言いながら、複雑な表情でシクラメンを買っていった青年を思い出していた。後ろで縛った茶髪と、裕福で朗らかな表情は、事前に調査させられたターゲットの特徴に当てはまる。

 女性は唇の間からわずかに笑い声を漏らすと、「ありがとう」と少女に礼を言う。


「同行者はいた? 厄介なのがいたら、こっちで処分しなきゃなんない」


 女性が冷徹に告げる。

 二十ドルを出した端正な顔の青年を、少女はいちばんに思い浮かべた。ああも容易く大盤振る舞いを行える彼は、きっと彼女の言う”厄介なの”に入るだろうと、少女は悟った。


 彼に危害を与えられたらたまらない。彼はここから救ってくれた恩人だ。そこで少女は、初めての嘘を吐いた。


「黒髪の護衛の女がひとり、それだけです」

「女?」

「はい。わたしより少し背が高いくらいの」


 女性はふうん、と言って、それ以降指示を出さなかった。濡れた土へ伏せられた目は、潰す必要はない、そう言っていた。

 これで、あの方は護られた。遂行部の人間は、報告を受けていない彼をきっとただの通行人と思うだろう。


「及第点だね。はい、報酬」


 少女に投げられたのは、たったの一ドルだった。少女は恭しくそれを受け取って、空き地をあとにした。


 ◇◇◇


 リボンに書かれた住所には、大きな屋敷が建っていた。左右非対称、赤レンガ造りで、英国式のゴシックリバイバルの気風が感じられた。しかしガーゴイルやらなんやらの装飾は地味で、貴族の屋敷ではないだろう、とアーネストは推察した。


 薄く雪が積もった石畳へ、一行は足を踏み入れる。


「……人が居たら厄介ね。まず、あそこへ」


 ソフィアが指さしたのは厩舎きゅうしゃだ。人気はなく、そこだけやたら雑草が生い茂っていた。

 ソフィアは宣言通り厩舎を覗きこむ。するとしばらくののち、おもむろにこちらを振り返った。血の気が引いて、唇は乾いていた。


 ソフィアは青年ふたりの顔を互い違いに見上げて、やがて吐き出した。


「そうね、アーネストさん、いらっしゃい」


 アーネストの白手袋が、厩舎の中に引き込まれる。なぜぼくを、と訊こうとしたところ、視界に飛び込んできたのは、


 ──白骨だった。


 厩舎の馬、四頭全てが、白骨となって雑草の中に身を埋めていた。この周囲の草が多いのも、馬の死骸の栄養が全て土に吸収されたからだろう。


 特に驚きはしなかった。ああ、それだけか、と、湿った土の香りに拍子抜けしていた。ソフィアがここから出てきたときの表情の方が、まだ驚ける。


 ソフィアはきっと、ウィリアムのほうが驚くと見越したのだろう。先に行かせた人間が大袈裟に驚けば、あとの人間も不安を抱く。ソフィアは余計な恐怖心を取り去るため、臆病なウィリアムを避けた──アーネストは、そう補完した。


 アーネストは厩舎から顔を出して、待機していたウィリアムに手招きをした。彼はそれに気づくと、引きつった顔に好奇心を覗かせた。

 ウィリアムを厩舎の入口まで連れていき、中の惨状を見せる。目の当たりにしたウィリアムの翠眼は見開かれたが、声は上がらない。


「なんだよベネディクト、大したことないじゃんか」


 ウィリアムは笑いながらアーネストの肩を叩くが、語尾に近づくにつれ、だんだんと声が小さくなった。何かに気付いたのか、言い切るとさらに首を傾げる。


 ウィリアムは一度厩舎を一巡し、おもむろにこちらへ帰る。色の薄い彼の唇は、ふいに言葉を紡ぐ。


 ──おかしい、と。


 すると彼は、手元の花束へと視点を移した。ウィリアムは馬への献花のつもりなのか、手に持っていた一束のシクラメンを草の中にうずめた。しゃがんだ際に、膝が泥に侵食されていた。


「さっき買ったばかりじゃないか。いいのか」


 アーネストが問いかけながらその顔を覗く。その双眸は、先程と同じように慄然していた。しかしその口元は──何かを憎むように、一文字に結ばれていた。


「……うん。いいんだ。いらない」


 見たことのない表情だった。震える指先は、恐怖によるものか、それともほかの何かか。

 きっぱりと彼に言われてしまうと、アーネストの出る幕はもうなかった。そうか、と言ってから、アーネストは頭を擡げる。


「――ああ、アーネストさん、時間切れよ」


 そんな声が響いた。声の主、ソフィアは入口正面の壁に寄りかかり、腕を組んでこちらを睨んでいた。


 アーネストは言葉の真意がわからなかった。それゆえ黙りを決め込んでいると、代わりにウィリアムが話しだした。


「ベネディクト、なんか変じゃないか」


 ウィリアムの唇は乾き、頬には冷や汗が伝っていた。ちょうど先ほどのソフィアのようだ。アーネストは心当たりがなく、何に、と聞き返した。


「ここの馬は、なんで骨だけ残ったんだ?」


 ウィリアムは四体のスケルトンを指さして尋ねる。アーネストに、ではない。答えを知るどこか遠くの人間に、といったふうだった。


 そこに、ソフィアが口をさしはさむ。壁にもたれかかった姿勢を正し、草の中を歩いてこちらへ向かう。


「そう、大切なのは、売っても持ち去っていない、ということよ。


 狭い厩の壁や骨に傷が一つもないのは、抵抗なくして死んだ証」


 似ている、と思った。一挙手一投足、初めてエドガーと出会ったときと重なる。


「それに加え──殺したとしても、目的がわからない。


 食い扶持を減らすため? 食料袋があったわ。そうでないなら、皮を売るため? それなら骨も売るわよね」


 こちらを真っ直ぐに見すえて論述するさまは、確かにエドガーと異なっていた。肩まで伸びた黒髪は、重々しく顔を隠す。


「そこで私は考えたの。ここの家主は、もう居ないんじゃないか、長らくの放置でこの状態になったんじゃないか、って」


 ウィリアムが頷く。ソフィアは、冷静だからアーネストを選んだのではない。すべてはアーネストに考える時間を与えるためだったのだ。


「……家主自身、死ぬことがわかってたなら、馬を売ったり、手放したりするはず」


 ウィリアムは、アーネストに視線をやった。アーネストは脳内で、言葉を繋ぐ。そうしなかった、ということは。


「家主は、殺された……?」


 アーネストの呟きを、ソフィアは瞬きで肯った。たしかに一人でこんな結論にたどり着いたとすれば、あの青い顔も頷ける。

 アーネストは厩舎から出て、今一度英国式の屋敷を見上げた。窓から明かりは見えない。屋敷の赤レンガが、今はどうにも陰鬱な色に変貌しているように見えた。


「ベネディクト、おれ……やべぇもん受け取っちゃったのかも……」


 ウィリアムの手には、例のトリカブトの栞が握られていた。指先が震えている。ウィリアムが心霊やら超常現象やらを危険視していることを、アーネストは付き合いの中で察していた。


 彼女は、無慈悲にも畳みかける。


「トリカブトの花言葉は──沢山あるけど、『復讐』っていうのがあるわ。栞の送り主は、おそらく──」

「……もう死んでいて、その亡霊が送った……?」


 ウィリアムが青ざめた顔で言う。


「非科学的な妄想に浸らないでちょうだい」

「ぼくも、その線は……薄いと思うぞ」


 ソフィア、アーネスト両者の追及に、ウィリアムは落胆の声を漏らす。アーネストに続き、残りのふたりも厩舎から出た。

 ソフィアは傾きかけた白日を背負い、屋敷を見上げた。


「だって──どうやら、事はそれ以上に厄介そうだもの」


 彼女の強かな口調には、アーネストまで戦慄した。

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