しばらくののち、大学近くに降り立った。いつもは馬車で湾の縁を渡っていたため、波止場近くの風景は新鮮だった。


 アーネストとソフィアは、人の波に乗って街を散策した。暫時ののちあることに気づき、アーネストはふと足を止めた。


「店じまいをしている店が多いな」


 街に立ち並んだ店の半数ほどが、商品を馬車に積んで店じまいをしていた。沿岸部という恵まれた立地ゆえに栄えているこの街にしては、不自然な風景だ。


 ソフィアは左肩から掛けたポシェットを開き、中身を漁る。がさ、とうるさく音を立てて、新聞紙を取り出した。しわを両手で伸ばしてから、背伸びしてアーネストへそれを見せる。


「──『カルヴァリー商会が倒産』?」


 カルヴァリー商会は、おもに製紙業に携わる大企業だ。この街の近くにも工場を有し、製本業界や新聞出版に長らく助力をしてきた。倒産の二文字からは程遠い会社だろう。

 しかし目の前の新聞は冷徹に告げる。もう倒産したのだ、と。


 そして目の前の少女も同様に、


「そう、ここら辺は出版社も本屋も多くて……経営が立ちゆかなくなった店も多いみたいなの」


 と、当然の事実のように語る。ソフィアに言われると、いくぶんか新聞の活字にも信憑性が生じた。とどめに「ちなみにこれ、お父さんが書いた記事」と付け加えられては、信じない理由がない。十分に信じ込ませてから、ソフィアは新聞をカバンに詰め込んだ。


 ふたりは再び歩きだした。日はすでにかなり高い。アーネストはそろそろ空腹感を覚えだしていた。懐中時計を一瞥してから言う。


「アップルトンとは十五時に約束している。それまでに昼食を摂ろう」


 アーネストはそのまま、大衆食堂へ目を向けた。


 十五時前、駅馬車から降りたウィリアムは、待ち構えていたとばかりに仁王立ちするアーネストを見て、眉を顰めた。


「……おれ、遅れて来ちゃった?」

「いや、時間通りだ」


 そんなに不機嫌な顔をしていただろうか。アーネストは頬に触れて考え込む。普段通り、表情筋は冷えて硬い。


「てかさあ」


 ウィリアムの声で現実に引き戻される。彼はアーネストの背に隠れるソフィアを指さしていた。怪訝な目を向ける。


「妹──じゃないよな? お前、兄弟は兄貴だけのはず……」


 先日の誘拐事件で、犯人相手に大立ち回りを演じていたソフィアのことだ。彼女の人見知りをする素振りは、おそらくアーネストに説明責任を転嫁するためのものだろう。


 さて、どう説明するか。


 まず、エドガーとの関係をそのまま吐露するのは駄目だ。エドガーの生存を隠すためにも、このことは黙っていなければならない。

 ついで、知り合いの娘だと嘘をついて凌ぐのも苦しい。いつかボロが出て、さらなる苦しい嘘を重ねることとなるだろう。


 狼狽えるアーネストに、少女の声が助け舟を出す。


「……護衛」


 ソフィアが囁いた。


 ──そうだ、アーネストには護衛がもとより居ない。さらに、ウィリアムはその裏に潜む事情を知らない。そこを利用してしまえばいいのだ。


 アーネストは文を組みたてて、そのまま口から述べる。


「彼女は護衛だ。ソフィアという。今回、お前の家から手を借りられそうにないからな」


 年齢が、とか服装が、とかいろいろ疑念はありそうだが、ウィリアムは納得したように手を叩く。ソフィアの「鈍い人」発言は、的のちょうど中心を射抜いた。


 ウィリアムはアーネストの背後まで回り、ソフィアの頭を子犬でも撫でるかのようにぐりぐりと撫でた。ソフィアの瞳がこちらへ救助要請を送るが、アーネストはあえて無視する。こんな彼女は、なかなか見られないから。


 ウィリアムのことはソフィアに任せて、アーネストは足を進める。


「そういえば、栞を返し忘れていたな」


 アーネストは振り返り、栞を懐から取り出してウィリアムへと差し出す。ウィリアムの目が紫の花に向いたと同時、


「その花は、トリカブトというらしい」


 と述べた。ウィリアムは右手をソフィアの旋毛(つむじ)に置いたまま、左手でそれを受け取った。トリカブト、と小さく呟きつつ、栞の裏表を視線でなぞる。


「あれか、毒がある、っていう……」


 ウィリアムの手に囚われた頭が、縦に揺れる。アーネストは彼女の気持ちを代弁するかのように、「そうだな」と相槌を打った。

 ウィリアムは一瞬不思議そうに顔を顰めたが、アーネストが歩き出すとまたあの屈託のない笑顔に戻る。悩みも何もなさそうな顔だ。アーネストの目にそれは、羨ましく映った。


 伸びだした自らの影に目をやっていたところ、声がかかった。


「あの、そこのお兄さん」


 拙い発音に思わず振り返ってみると、そこには年端もいかない少女が立っていた。背丈はソフィアより一回りほど小さい。気の毒になるような襤褸の袖から覗くのは、黄色く、不健康に細い肢体、そして艶のない黒髪。ウィリアムも、動きをぴたりと止めて彼女を見ている。


 少女はバスケットに入った赤い花を指して、呟くように言う。


「買っていただけませんか。今ならお安くします」


 舌っ足らずに似合わぬ語彙だ。きっと親か他の何者かに、徹底的な仕込みを受けたのだろう。少女へ憐憫を向けるように、強剛な思索が張り巡らされている。アーネストは背景を想像して、急激に鼻白む。

 貴族社会の陰謀に慣れきったアーネストには、それが罠のようにしか思えなかった。財布を取ろうとした左手が躊躇う。


 ウィリアムは様子見か、下唇をもごもごと噛んだのちに問いかける。煉瓦を見下ろすその赤い花のつぼみに触れ、


「……そのシクラメンの他に花は」


 いっそう低い声で、ウィリアムは尋ねた。これは探りを入れているのだろうか。もしくは、ただ単に尋ねているだけなのだろうか。多分後者だろうな、とアーネストは推察する。


 少女が首を振ったのを見ると、ウィリアムは軽く目を伏せ、長く息を吐き出した。まるで重い腰を上げたかのような素振りだ。


「おれが買うよ。いくら?」


 アーネストを押しのけて、少女に問う。少女の口が、マニュアルに準拠して値段を言う。


 一ダイム。


 彼女はひとつ花束を差し出した。


 ウィリアムは渋々とそれを受け取り、代金を少女の手に乗せる。


「アップルトン、お前……」

「? んだよ」


 その表情には、陰謀を伺うような色は見えない。やはりただ単に、バリエーションを尋ねただけだったのだ。


 泥棒男爵は、一世二世の成り上がりも多い。ウィリアムもそうなのだろう。アーネストのように警戒をする方がおかしいのかもしれない。


 シクラメンを胸に抱くと、「行こうぜ」と声をかける。


 アーネストはモスグリーンの背が小さくなるのを眺めながら、セントジョージアの追憶をしていた。



 ── このアリストクラシーな世界から逃げたい。


 ── ぼくは、あまりに未熟だ。あなたたちの生活の苦しさも、何も知らない。


 ── これから知らなくてはならない。多少強引にでも。



 自分は確かに、そう宣言したのだ。逃げたいと言っておきながら結局風習に囚われてしまうとは、なんとも自家撞着だ。


 アーネストは左手をポケットに深く潜らせ、そして財布を取り出す。


「……ぼくも買おう」


 少女が嬉しそうに顔を上げる。その顔に策謀は見えない、見えるのはそう、縋るような必死さだ。アーネストはその少女に、今の自分を重ねていた。


 アーネストはそのとき、慣れない嘘を吐いた。


「ああ、残念だ。いま小さいのはこれくらいしか手持ちがない」


 そう言いながら取りだしたのは──値の二百倍になる、二十ドル札。少女は憮然と立ち尽くし、振り返って駆け寄ったウィリアムの口角もひくついた。ちらりとソフィアのほうを伺うと、何やら少女を真っ直ぐに見つめて考えごとをしているようで、いっさいこちらに関心がないようだった。


 アーネストは続けて、不自然に嘯く。


「小銭を持つのは嫌いなんだ。チップとして取っておいてくれ」


 彼女は身なりからして、カルヴァリー商会の下請け労働者、といったところだろう。先の倒産を受け、シクラメン売りにまで身をやつしている。アーネストはそう補完した。


 この二十ドル弱で切符やら服やらを買えば、ほかの町でやっていけるだろう。アーネストにそのつもりはなかったが、傍から見ればそれはノブレス・オブリージュの縮図だった。


 目の前の少女を助けるため、アーネストの二十ドルは動いたのだった。


「あり……あ、ありがとうございます……」


 ──だがしかし、目的はそれだけでない。アーネストは完全なる善意で動ける人間ではない。そうであったなら、そもそも実家に背こうとはしなかっただろう。


 二つ目の目的、それは──スパイからの保身だ。さすがに定価の二百倍で商品を買った人間、さらにその同行者であるウィリアムやソフィアにも危害は与えないだろう、ということだ。なんの躊躇いもなく接近したウィリアムのフォローも兼ねている。


 それでも、情を売っておくという策略だけなら、定価の二倍ほどで済んだだろう。その煮えきらなさが、アーネストという青年の未熟さを象徴していた。


 アーネストはバスケットに二十ドルをねじり込むと、少女から赤いシクラメンを受け取った。彼女の表情は、来たときより明らかに明るくなっていた。

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