第二編 シーフズ・フード

 ウィンターホリデーが明けてから数週間。アーネストの大学でも浮ついた気分がだいぶ抜け、講義はふだんの調子を取り戻していた。


 三時限目、ドイツ語の講義が終わると、アーネストは帰り支度を始めた。レジュメを鞄へ几帳面に入れたちょうどそのとき、ふいに後ろから声が降ってきた。


「ベネディクト!」


 と同時に肩を叩かれる。アーネストは突然のことに驚き声を漏らすが、しかし、声の主が誰か特定する程度の冷静さは残っていた。


 おもむろに振り向くと、案の定、


「よ! 今日も寒いな!」


 大学で唯一ともいえる友人──ウィリアム・アップルトンが笑いかけていた。童顔で丸みを帯びた彼の頬が、微笑みによってさらに丸くなっていた。深い緑色のジャケットが、彼の焦げ茶の髪によく似合っている。


 アーネストは強ばった肩を解し、「ああ」と相槌を打つ。


「アップルトンか。何の用だ」


 ウィリアムは、にやり、と子供っぽく笑った。嫌な予感に満たされたアーネストに、彼は紙を突きつける。相当近くまで突きつけられたので、文面は読めなかった。困惑の渦の中、アーネストはウィリアムの発言を待った。


「見たぜ、ベネディクト!」

「……何を」


 留学で一年、留年で一年他人より遅れ、ウィリアムは二十一歳になったらしい。アーネストより二年も上なのに、不思議と彼には威厳とか、そういったものがなかった。

 色褪せた紙だけが広がる視界で、ウィリアムの声が響く。


「決まってんじゃん! これだよ、これ!」


 その声とともに、アーネストの視界を覆う紙を揺らす。もしかして彼は、この距離でも文字が見えると思っているのだろうか。アーネストは静かに紙をひったくり、その文章を真正面から見すえた。


 それは、ある新聞の一面を切り抜いたものだった。


「『オンニシェント公爵次男、連続誘拐事件を解決』……」


 日付は一月六日──アーネストが表彰された日だ。帰る道中、エドガーが記事を読ませようとしてきたが、気恥ずかしいので見るのは避けたままだ。


 ウィリアムは、アーネストのつっけんどんな態度に文句一つ言わず、その記事に対して反応を示す。


「そうそう、それ! いやあ、初めて見た時には『まじか』って思ったよ! 社交界でもいい話題だろ!」


 ウィリアムは友人の慶事を、何故か我が事のように喜んでいた。近寄り難い家柄、容姿、性格、その他取るに足らない事情により友人が少ないアーネストには、その感覚が掴みがたかった。


 まさか一月も前の記事を取り上げて感想がそれだけではあるまい。


 第一、休み明け最初に会った時も、彼はその話題を取り上げたのだ。それからも報道こそされなかったが、アーネストが──正確にはエドガーが、だが──こまごまと事件を解決していたことを、彼は知っている。エドガーと報酬の件で協定を繰り返していることまでは、さすがに与り知らないが。


 突然、過去の報道記事を盾に話を持ちかけてきた。

 なにか隠れた狙いがあるのは確実。


「そんな大したことではない」と謙遜しながら、アーネストは目線で急かした。ウィリアムも不自然な流れだと自覚があるのだろう。すぐに本題へ入った。


「だからさ、そんな”名探偵”アーネスト・ベネディクト様に、ちょっと調べてほしいことがあってさ」


 星が弾けるようなウインクを飛ばして。


「調べてほしいこと、……」


 アーネストは呟きで反芻した。並行して、鞄の金具を留め、取っ手を肩にかける。そして、出口へと革靴の先を向けた。ウィリアムは動きを察して、先に歩きだす。


 前を歩きながらウィリアムは、何かを差し出してきた。


「これは……──栞?」


 それは、色鮮やかな色鉛筆で彩られた栞だった。モチーフとして描かれた紫の花は房状に実り、花弁や萼(がく)が複雑に入り組んで咲いている。


 写真よりも美しく、生き生きとした花の絵。とてもウィリアムの作とは思えない。


「買ったのか」


 ウィリアムもやっと本を読むようになったかと少し感動した矢先、首を横に振られた。その栞は、本への関心の発露ではないようだ。


 ウィリアムは自分でも不思議そうに、その翠眼を栞へ向けた。


「なんか、ポストに入ってた」


 妙な言い方だ。「貰った」でも「届いていた」でもなく、「入ってた」。彼に心当たりが一切ないことを連想させるような言い回しだ。


「それで、ただ入ってただけならまだいいんだけど、」


 ウィリアムはそう言うと、栞上部に結びつけられたリボンを解く。彼は栞を脇に挟み、両手でリボンをぴん、と張ってみせた。

 そこには、滲んだインクで文字が書いてあった。よく見ると、住所のようだ。大学にほど近いところの。


 たしかに、そこには探偵を動員すべき謎が存在していた。


「ここに行ってみたいんだ」


 ウィリアムは、純粋無垢にもそう告げた。アーネストは正直言って、乗り気ではなかった。


「そういうのはお前の家の用心棒に頼んでくれ。それくらい雇えるだろう」

「ええ、でもさあ……」


 ウィリアムはリボンを張った指を片方放す。突如彼は立ち止まり、その相貌に翳(かげ)りを宿したのだった。あまり見る機会のないウィリアムの憂い顔が、喫緊事だと訴えている気がした。


 どうした、と問いかければ、彼は気まずそうに口を開く。


「母さんに相談したんだ。そしたら、──」


 理不尽に耐える子供のような顔をしていた。


「住所を見た途端、『その話はするな』って」


 どうやら、謎は栞だけではないようだ。

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